円形の大きなバスタブは、大の男が二人で入ってもまだ余裕があった。体を重ねていれば尚更である。ゆったりと湯船に肩まで浸かった男に身を預けるようにして折り重なり、なまえは入浴を楽しんでいた。
 風呂は好きだ。特に、二人で入る風呂は。このままずっと湯の中にいてもいい――真っ白な、けれど鍛えられた胸板に頬を寄せながら思う。
「どうしたの、ぼうっとして」
 男が笑みを浮かべながらなまえの顔を覗き込んだ。
 白い肌に、白い髪。整った顔立ちと相俟って、まるで現実味がないと思う。抱いた印象は、出会ったときから男が常に顔に張り付けている笑顔にも同じことを言えた。
「冷たいなって思って」
 答えながら、男の腕を撫でさする。
「まるで死んでるみたいだ」
「酷い言い方だね」
 ふふっと笑みを零す男の顔を見つめ、なまえはその名を口にする。
「ねえ白蘭」
「ん?」
「……、……ペンギンって、冷たい氷の上にいても平気じゃん。あれ、どうしてだか知ってる?」
「知らないなあ」
「白蘭にも知らないことがあるんだ」
「まあね。興味がないことには疎いから。……だからもしなまえチャンがペンギンだったら知ってたよ」
 耳元で囁かれた言葉になまえの口元が緩んだ。それを隠すようにギュッと目の前の体に抱きついて、お返しとばかりに耳に唇を寄せる。
「“熱交換システム”」
 囁いた後、耳の付け根に唇を落とした。リップノイズを響かせながら離れる。
「足首のところで冷たい血が流れてる血管と温かい血が流れてる血管がぐるぐる絡まってて、冷たい血を温めてるんだって。その熱交換システムがあるから、ペンギンは凍傷にもならないし生きていられるんだよ」
 得意げに続け、もう一度さらに強く抱きついた。
「白蘭のことは、オレが温めてあげる」
 甘く囁くように告げ、今度は唇に触れようとして――眉を寄せた。何の反応も見せないどころか笑みが薄れた気がする白蘭の顔を見つめる。
「嬉しくない?」
 少し不安になりながら尋ねれば、ごめんごめん、と明るい謝罪が返ってきた。
「読み書きも出来ないなまえチャンがそんな雑学知ってるなんて思わなかったから、ちょっと驚いたんだよ。それから、誰に教えてもらったのかな〜?って考えてたら喜ぶの忘れちゃった」
 なまえの眉間に皺が増える。
「……誰にも教わってない。テレビで見たんだ」
 体を離し、湯から出ようとするなまえだが、即座に腕を掴まれてしまう。
「ごめん、怒らないで」
 白蘭が眉を下げながら言った。
 でも、謝られても、頬や額にどれだけ優しいキスを落とされても、機嫌を直す気にはなれなかった。
「別に怒ってない」
 それは嘘じゃなかった。学がないことや、幼い頃から体を売って生きてきたことを揶揄されたのが悔しかったわけではない。こういう扱いを受けることには慣れていたし、もっと直接的な言葉で罵られたことだってある。白蘭と出会う前、路地裏で客をとっていたときは、それこそ毎日のように。
 ただ、悲しかった。こんな自分にもプライドがあるということを、白蘭は解ってくれていると思っていたから。
 途切れ途切れの声がそう告げ終えた瞬間、なまえは白蘭の腕の中へと抱き寄せられていた。細い腕は見た目よりもずっと力強くて、逃げることは叶わない。
「ごめん。ヤキモチ妬いたみたい」
「ヤキモチ?」
「そうだよ」
 二人は十数秒、見つめあった。
 まず動いたのはなまえで、小さく息を吐いた後、先程出来なかった唇へのキスを送った。仲直りの印だ。すると白蘭は満足そうに笑い、なまえの首元に擦り寄った。まるで猫みたいだとなまえは小さく笑う。
「お詫びに何か買わせて」
 そこで喋られるとくすぐったい、となまえが笑いながら訴えるので、白蘭はそのままで続けた。
「何でもいくつでも買ってあげる。新しい服? ブーツかな? いっそ島とか買っちゃう?」
「……まず顔をあげて」
「はい」
 ようやく素直に顔をあげた白蘭は、確信めいた表情を浮かべていた。
「なまえチャン、何か欲しい物があるんだね?」
 なまえはすぐには答えなかった。思案するように視線をあちらこちらに巡らせ、時折白蘭の顔色を窺う。その様子を見れば、欲しいものがたくさんあるわけではなく、言うか言うまいか迷っているのだということが一目瞭然だった。
「言って」
 ツンと上向きの唇を、指先がノックする。そうして促され、なまえは口を開いた。
 曰く、――本が欲しい、と。
 白蘭がスウッと目を見開くのを見、なまえは慌てて説明した。
「あの、完全にマスターしてから言おうと思ってたんだけど! オレ、実は、少しは読み書きできるようになったんだ! もう簡単な文章も読めて、その、だから、えっと、面白くて、勉強にも使えそうなやつ……白蘭が、選んでくれたのなら……きっともっと……」
 早口で畳み掛けるようだった声は、段々とその勢いを失っていった。そして。
「……ごめん」
「どうして謝るの」
 俯いてしまったなまえの前髪に白蘭はそっと触れた。何度か撫でてやる。かきあげてやれば形のいい額が露になり、小刻みに震える長い睫毛の、その痛々しさもよくわかった。
「だって、やっぱオレみたいなのが勉強とか……意味ないのにバカみたい……」
「なまえ」
 呼び掛けに、なまえは目だけで応えた。上目遣いにこちらを見上げてくる瞳に白蘭は優しく微笑む。
「明日、一緒に本屋に行こう」
「……っ!」
 勢いよく飛び付いてきたなまえの体をしっかりと抱き止め、悪戯っぽく続ける。
「あ、それよりも、一軒丸ごと買っちゃおうか?」
 冗談めいた口調につられて頷きかけるなまえだが、すぐに考え直した。
「それはいい」
「そうなの?」
 遠慮するなとでも言いたそうな声音に破顔する。彼のこういう豪快さは嫌いじゃなかったが、あまりに過剰な施しを受けることは良くないとなまえは思っていた。自分の価値を低くみているわけではない。ただ、不相応な扱いに慣れれば自分が駄目になってしまう。線引きはきちんとしなければならない。――彼の傍に、出来るだけ長くいたいから。
「それにしても、読み書きもテレビで学んだの?」
「ううん。レオ君に教えてもらった」
「……レオ君に?」
「そう。白蘭が会議に行ってるときよく話し相手してくれて、っ、あ……!?」
 いきなり浴槽の縁に押さえつけられて、なまえは瞳を潤ませた。もちろんそれは、恐怖や拒絶からではない。期待に対する生理的な反応だ。
 白蘭は、いつものように笑みを浮かべながら、なまえの頬に触れる。
「面白い話をしてくれたなまえチャンには、ご褒美をあげなきゃね」
 ――水が、跳ねた。

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