呼んでみた

 平時の通り、応接室に向かうため廊下を歩いていた綱重の目に、一人の男が映る。立派なリーゼントを見れば遠くからでもそれが誰だか一目瞭然だ。綱重の金色の髪も同じことが言えるためか、先に声をかけてきたのは男の方だった。
「久しぶりだな。風邪はもういいのか?」
「草壁さん。はい、もう熱は下がりました。大丈夫です」
「週明けからで良かったんだぞ」
「仕事、溜まってるかと思ったので」
「それは間違いじゃあないが……。まあ、無理せず頑張れ。お前がいなくて困っていたのは事実だ。正直助かる」
「はい」
 ――マスクをしていて良かった。
 綱重は思った。ポーカーフェイスは得意なはずなのに、今は自分がどんな顔をしているか、まったく想像がつかなかった。
 マスクをしているのは風邪を人にうつさないようにだ。まだ少し咳が出る。本当ならあまり出歩かない方がいいとは思うのだが、来てしまった。学校は今日も休んだというのに。
「委員長も喜ぶだろう」
 ――本当に、マスクをしていて良かった。
 草壁に頷きだけを返し、綱重は逃げるようにその場を後にした。

「やあ。もういいのかい」
 僅かに眉を上げたぐらいで、雲雀は大した反応は見せなかった。当たり前だが、見慣れた学ラン姿だ。
 高熱に魘されて見た変な夢――と、綱重は思い込んでいる――のイメージが未だに頭から離れない。熱が下がってすぐに並盛中に来たのも、雲雀が夢の中の姿になっていないか、ちゃんと自分の目で確かめたかったからだ。馬鹿な考えだと思いつつ、けれど居ても立っても居られなかった。それほど、あの夢には現実感があった。
「まだ熱があるんじゃないの?」
「っ!?」
 頬に触れられるまで、近づいた距離に気がつかなかった。驚いて仰け反れば、背中が扉に当たり、いつも通り逃げ場を失う。
「ぼうっとしてる。隙だらけだ」
「いや、今のは、少し考えごとを……」
「考えごと? 何?」
「え」
「何を考えていた?」
 頼みの綱だったマスクは次の瞬間には取り払われていた。彼の鮮やかな動きを綱重が阻止できたことなど一度もないのだ。
「この部屋で、僕を前にして、考えなければいけないことがあるのかい?」
 雲雀の言う通り、熱が上がってきたみたいだ。どんどん熱くなる体を感じながら綱重は思った。
 顔が、耳まで熱いのも。視界が滲んでいるのも。心臓がバクバクしているのも、全て熱の所為。
 決して、吐息を感じるほど雲雀の顔が近いからではない。だってもしもそれが原因なのだとしたら、まるで――……まるで、恋してるみたいではないか。
「綱重」
 呼びかけに、過剰なほど肩を揺らした綱重は、取り繕うことも忘れて答えた。
「ひ、雲雀のこと、考えてた……っ」
「僕?」
 雲雀が一瞬だけ浮かべたきょとんとした顔は――可愛い、と綱重は瞬間的に思った――すぐに意地の悪い笑みに変わる。
「そうなんだ」
 含みのある声だ。
 言いたいことがあるならはっきり言えばいい、いや、やっぱり言うな!聞きたくない! 綱重の散漫な思考が届いたのか、雲雀は「詳しい内容は聞かないでおいてあげる」と彼に珍しい優しさをみせた。本当にそれが優しさからくるものなのかは綱重には判断できなかったが。
 腰を抱かれ、体を引き寄せられる。雲雀が今から何をしようとしているのかわかっていたが、綱重は目を伏せて、
「風邪がうつるぞ」
 と忠告するくらいで、抵抗はしない。
「僕は風邪なんかひかない」
「……ああ。なんとかは風邪ひかないって言うからな」
「咬み殺すよ」
 文字通り咬みつくようなキスを受け止めて、瞼を下ろす。すっかり慣れてしまった感触。数日会えなかっただけで、夢にまで見るくらいに。
 いつもに比べて口付けは浅く、すぐに解放された。あくまでも“いつもに比べて”であり、綱重の呼吸は酷く乱れていたけれど。
「今日はもう帰って寝るといい」
 背後の扉を開きながら、涼しい顔の雲雀が言う。それとは正反対の顔をした綱重は眉を寄せて悔しさを滲ませた。いつか、この表情を崩してやりたい。
「来週は、しっかり治して来て」
「わかってる。また、来週な。…………恭弥」
 先程のような顔が見たいと思って口に出したものの、恥ずかしくなって、雲雀の反応を見る前に部屋を飛び出した。
 今日は逃げてばかり。
「……熱の所為だ」
 その証拠に、こんなにも頬が熱い。

×

 週明け、月曜日。
 風邪はすっかり良くなった。いま綱重の表情が暗いのは、あの日のちょっとした出来心を後悔しているからだ。
 何となく行きづらいような、でも行かなきゃ行かないで面倒なことになるのは確実だ。約束は守らなければならないし。
 駅前で、自宅のある方角と並盛中学校のある方角とを交互に見つめていると、携帯電話が鳴った。
 ――雲雀からだ!
 綱重は硬直したが、恐る恐る取り出したそれの液晶に表示された名前は、雲雀恭弥ではなかった。
「草壁さん?」
 連絡先は交換してあったけれど、彼から電話がかかってくるのはこれが初めてだった。いつも、何かあれば雲雀が直接連絡をくれていたから。微かな違和感。それから妙な不安が綱重の胸をよぎった。
「はい」
 草壁の言葉は、綱重がまったく予想していなかったものだった。

「――来なくて、いい?」


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