体育祭 2

 ぶどうを口に運びつつ、綱重は目だけで周囲を窺った。
 あちこちから敵意が向けられている。一つ一つは小さなものだが、とにかく数が多い。全身を針でチクチク刺されているような、そんな感覚に陥るほどだ。
 とはいっても、それらは綱重へ向けられたものではない。連中の視線の先に居るのは、弟の綱吉である。
 弟は、食欲がないらしく、減らないおにぎりを持ったまま俯いている。
 いじめの三文字が綱重の頭を過った。
 友達を家へと招いたりして、以前と比べ楽しそうに日々過ごしているようだったから、まさかそんなはずが、とも思うのだが、こんな暗い横顔を見たら否定しきれない。棒倒しの総大将もやはり押し付けられたものでは、と心配が募った。しかし、だとすれば兄としてどうしたらいいのか何をすればいいのか、綱重には見当もつかない。
 大丈夫かと尋ねてみようか。朝、あんな風に言い返されたことを思い出すと、躊躇ってしまうけれど。それに自分が言っても、強がって“大丈夫”と嘘を言うかもしれない。……ここは大人に任せるべきか。
 母に目配せする。
「ツナったら、注目されてるわね。さすが総大将」
 嬉しそうに耳打ちされ、額を押さえたとき。
「沢田くん」
 いつの間にか、見慣れぬ女の子が三人、綱重の元に歩みを寄せていた。
 真ん中の、リーダー格らしい彼女が一歩進み出てくる。綱重の目の前に大きな胸を突き出すようにして屈んで、にっこり微笑んだ。
「私のこと覚えてるかな? クラスが一緒になったことはないけど、ほら、六年生のときに委員会が一緒で」
「忘れた」
 本音を言えば“知らない”のだが、委員会が一緒だったというのなら、顔ぐらいは目に入っていたはずだ――その頃は黒かっただろう髪が茶色く染まっている所為か、まったく思い出せなかったが。
 覚えているかと聞かれたこともあり、つい飛び出した返答は、よく考えれば酷い。笑顔のまま固まった彼女を見て、あ、と思うと同時に背中に強い衝撃が走った。
「ごめんなさいね! 照れてるのよ〜、この子!」
 息子を思いきり叩いた右手で口元を覆い、おほほと上品な笑みを浮かべる母。その目は笑っていない。“母さんね、実は殺し屋だったの”と言われたら信じてしまいそうな鋭い視線だ。
 綱重は堪らず立ち上がった。
「こら! どこ行くの!」
「トイレ行ってくる」
「まったくもうっ。午後の競技がはじまる前に戻ってくるのよ! みんなでツナを応援するんだから!」
 本当に愛想のない子でごめんね――女の子たちに謝る母の声が去り際、耳に届いた。
 溜め息が零れる。

×

 いつもと変わらず、応接室には雲雀の姿があった。綱重が弟の応援に来ていることはすでに把握していたのか、突然の訪問にも関わらず驚いた様子はない。それどころか、いつも放課後にするように体を引き寄せられて綱重の方が慌ててしまった。
「ちょ、待っ……ストップ!」
 近付いてきた唇を止めることは不可能なので、己の唇を手で覆うことでなんとか阻止する。
「どうして?」
 切れ長の瞳に小さな怒りの炎が灯るのがわかった。やばい。これは嘘や言い訳は通用しないぞ、と思う。
「だから、その……食べたばっかりだし、歯も磨いてないしっ……」
 雲雀が小さく笑った。
「気にしないよ」
 言葉通り最初から舌が入り込んできた。
 歯の裏側、口蓋、もちろん舌も、全て舐めつくされる。
 口の中の柔らかい場所を舌で探られる度、得体の知れない何かが綱重の背筋を駆け上がっていく。堪らなくなって、縋りつくみたいに学ランの端を握った。
「ンぅ……く、はぁ……」
 深く、浅く、また深く。
 不規則に差し込まれる舌に翻弄され、そのうちに呼吸の仕方もわからなくなってしまう。逃げようとして仰け反るけれど、後頭部を押さえられて余計に深く口付けられるだけだった。酸素が足りない。ぼうっとしだした頭の中で誰かの声が木霊する――“恋してるんでしょ”。
 そんなこと。
 ちがう。
 これは、そんなんじゃない。
 わからないけど、でも、そんなわけ、ないのに。
 ようやく唇を解放した雲雀がまた笑った。
「ぶどうの味がする」
 突き飛ばす形で離れ、ソファーに腰掛ける。雲雀はまだ笑っている。ムカつく。突き飛ばしたことを怒られるよりはいいけれど。
 意識していると思われたくなくて、努めて平静に、何でもない風に話しかけた。
「雲雀は出ないのか? 体育祭に」
「僕は群れたりしない」
 すっと笑みを消し、吐き捨てるように雲雀は答えた。
 群れるとか群れないとか関係ないだろ、体育祭なんだから参加しろよ、とは言わないでおく。くだらない質問をするほど動揺していることについて突っ込まれたくなかった。
「何か飲むかい」
 問いかけに重なるようにして、スピーカーが音を立てる。
 棒倒し競技をA組対B・C合同チームで行うという知らせだった。
「なんだって!?」
「どうかした?」
「弟がA組の総大将なんだ」
 信じられない思いで、綱重は窓へと走り寄った。競技準備のためだろう、慌ただしく人々が蠢いているのが見える。
 例え、本当にツナ自身がやりたくて総大将に選ばれたのだとしても、まさか二倍の数に挑むとは思っていないはず。けれども、ここまできて辞めるだなんて言い出せるか? 無理に決まっている。
「……頼む! 何とかしてくれ!」
「何とかって?」
「棒倒しを中止させるんだ、雲雀ならできるだろ!? 無理ならA組の総大将を誰か他のやつにするとか、何でもいい、とにかくやめさせてくれ!」
 必死に訴えるが、雲雀は涼やかな表情のまま、何も答えない。
「おい、聞いてるのか」
「そういえば、さっき僕のところにも報告が届いてね」
「……? 何の話だ」
 嫌な予感がする。
「A組の総大将は他のチームの総大将を闇討ちしたそうだ」
「っ! 綱吉がそんなことするはずがない!」
 驚愕しながらも、きっぱりと否定した。
「有り得ない。綱吉は、とても優しい子なんだ。絶対に人を傷つけたりしない。何故そんな話が!?」
 こうして風紀委員会にまで報告があがってきているのだから、それは真実として生徒たちの間で広まっているのだろう。だとすれば弟に向けられていた敵意にも納得がいく。
「何かの誤解だ! そもそも、総大将なんて綱吉がやりたがるわけがないし、誰かに押し付けられて嫌々やらされてるに違いなくて……」
 ああ、こんな話をしている場合ではないのに。
 再び窓の外に視線を落とし、綱重は息を呑んだ。
 グラウンドから伸びる二本の棒。それぞれを囲むように生徒たちが集まっている。ここからだと人数の差がよくわかる。一方が一方の倍――いや、それ以上にも感じた。
 他のチームから恨みを買っている綱吉が、これからどんな目に遭うか、容易く想像できる。
 止めなければ。早く。弟を守らないと。
「言うほど弱い動物には見えなかったけどね」
「……え?」
 不意に頬に触れる柔らかな感触。
 雲雀らしからぬ可愛らしいキスは、張り付くようにして窓の外を凝視していた綱重の意識を引き戻すには十分な威力を持っていた。弟を心配することも忘れ、呆けている綱重の唇にも触れるだけのキスを落とし、雲雀は窓枠に足を掛けた。
「いいから見ていなよ」
 風紀の腕章をつけた学ランが宙を舞う。


prev top next

[bookmark]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -