もう一度言ってもらえます?

 玄関をくぐり一番に聞こえてくるのは、母の出迎える声ではなくなった。
「ただいま」
 発した言葉は、子供のはしゃぐ声にかき消されてしまう。靴を脱ぎ、自室に戻って制服から部屋着に着替え、リビングに顔を出してようやく、母は長男の帰宅に気がつくのだ。
「こら! ちゃんと“ただいま”を言いなさい、リボーンくんたちが真似したらどうするのっ」
 言い返してもよかったのだが「言ったよ」「母さんに聞こえなかったら言ったことにはならないの!」というやり取りをするのが面倒臭かったので、素直に謝ることにした。
「ごめん、気をつける」
 しかしその場しのぎの謝罪で母が納得するはずもなく、晩ごはんを温めにキッチンに向かう背中からは怒りが窺える。
「あらら〜、ママンに怒られてるバカモノがいるぞ〜。だれかな? だれかな?」
 妙な節をつけて喋る声が聞こえて、綱重はそちらに視線を向けた。牛柄の服に身を包んだ子供――ランボと目が合う。
 それまでニヤニヤ意地の悪い笑みを浮かべていたランボだが、綱重の姿を見るや否やピャッと飛び上がって逃げ出した。咄嗟に首根っこを捕まえる。
「は〜な〜せ〜〜〜!」
 小さな手足がバタバタと宙を泳ぐ。一分ほど暴れていたが、どうにもならないと気付いたのだろう、火がついたように泣き出した。
「何してるの!」
 泣き声を聞きつけてキッチンから奈々が戻ってくる。
「もうこんな時間だし、眠いんだろ」
 綱重の手から奈々の優しい腕の中へと移動したランボは、少し落ち着いて、グスグスしゃくりあげている。上手い具合に、眠くてぐずっているようにも見える。
「あとは自分でやるからいいよ」
「そう? じゃあお願いするわ。食べたあとのお皿は、そのままでいいからね」
 母のいいところは怒りがあまり持続しないことだと綱重は思う。ニッコリ微笑む顔に黙って頷いた。相変わらず仏頂面の息子に怒りがぶり返すこともなく、穏やかな表情で、ランボの背中をトントン叩いてあやしている。
「さあ、お布団に行きましょうね」
「……オレっち、まだねむくない」
「よいこはもう寝る時間なの」
 実の親子のような光景に綱重はそっと目を細めた。
 弟が小さかった頃を思い出した。まだ、手のひらに炎が灯ることはなくて、温かく柔らかでミルクの甘い匂いのする体をよく抱き締めていた気がする。母が弟を抱き上げているのを見て、自分が抱っこすると無理を言って、赤ん坊とそう変わりない小さな手で必死に弟を包み込んだ。
 綱吉は覚えていないだろう。綱重だって、ぼんやりとしか記憶にない。
 もしも弟に触れているときに、手のひらに炎が灯ったらどうなるか、幼い子供の頭でも想像がついた。
 大事な弟だから触れられなくなった。傷つけたくなくて。恐がらせたくなくて。
 雲雀のお陰で、今はもう普通の生活を送っている分には炎を抑えられないということはないと思う。ああして、子供の無礼な態度にも対応できる。以前は、ほんの少しの感情の揺らぎすら恐ろしかった。苛立ちを感じたらすぐに逃げだした。
 一人きりの食卓に皿を並べ、フゥと息を吐く。
 もう、家族に迷惑をかける可能性はほぼないと言っていいだろう。気を緩めるつもりはないが、ちょっとした拍子に人様を焼き殺すことはない……はずだ。世間に気味の悪い体質がバレて、母や弟が、あの男の家族だと後ろ指をさされずにすむ。
 充分すぎる結果だ。これ以上望むものは何もない。
 今更、兄弟仲を修復しようとは思わなかった。母は幼児期のような仲良し兄弟に戻って欲しいようだが、それは不可能だ。出来るはずがない。目があっただけで逃げ出し、放せと泣きわめいた、ランボの姿が全てを物語っている。
 たった数ヶ月生活を共にしただけのランボとは比べものにならないほど、弟には辛い思いをさせてきた。嫌われて当然の、嫌われるための言動をとってきた。仕方がないと思っている。全ては自分が望んだことで後悔はない。
「――あつッ」
 味噌汁を温めすぎてしまったようだ。
 指先で唇をなぞる。舌がヒリヒリしている気はするけれど、大丈夫、火傷はしていない。
 もしも火傷していたら大変だ。意地の悪い雲雀のこと、きっと舌や歯でそこばかり苛めてくるだろう。今日だって、と思い出しかけて、綱重は慌てて首を振った。
 並中を出てからまだ一時間も経っていない。思い出すまでもなく、別れ際のキスの感触が唇に残っている。
 人差し指の先が濡れているのは、無意識に銜えていたからだ。無意識に、何かを求めていた。
「悩みごとを抱えているのね」
「ひっ!」
 突然、耳元で囁かれて、飛び上がった。
 音もなく背後に忍び寄っていたのは、ランボと同じく沢田家に居候しているビアンキだ。
 彼女と初めて顔を合わせたときも綱重はひどく驚かされた。帰宅したら、見知らぬ美女が部屋でくつろいでいたのである。入る家を間違えたと一瞬本気で慌ててしまった。
 奈々曰く“リボーンくんのお友達”の“いい子”だそうで、要するにベビーシッターだと綱重は解釈している。
 ベビーシッターを雇うことには賛成だ。リボーンは手がかからないが、ランボはそうじゃない。家事をしつつ二人の子供の面倒をみるのは大変だ。母の負担が減るのなら嬉しい。
 が、何故そのベビーシッターを家に住まわせなければいけないのか。年頃の男女がひとつ屋根の下で生活を共にすることについて、母はどう考えているのだろう。もちろん綱重に何かする気はないし、弟だって決して変な気を起こしたりしないと綱重は信じているが。
「何の用ですか、ビアンキさん」
「この頃あなたの元気がないってママンが心配してたのよ」
「……母さんが?」
 ビアンキは長い髪を掻きあげて、緩く微笑んだ。
「仕方がないから相談に乗ってあげる」
「結構です。そもそも悩んでいませんし」
「それなら、私の体験談を聞く? 参考になるわよ」
「いや、だから」
「恋してるんでしょ」
「は?」
「隠しても無駄よ。私にはわかるわ、恋の悩みだってことは」
 ――恋? 誰が、誰に。
 固まる綱重をよそに、ビアンキは、己の体験談を話しはじめた。
 とある殺し屋との運命的な出会い。そして訪れたデンジャラスでスウィートな愛の日々。
 臨場感たっぷりに熱く語られた壮大なラブストーリーは、しかしながら綱重の頭にはまったく入ってこない。


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