不意に不安になって足を止めた。
宿題のプリントを鞄に仕舞ったかどうか思い出せないのだ。提出期限は明日。先程、並中の応接室にて全ての設問を解き終えてはいるのだが、プリント自体を忘れてしまえば意味はない。
街灯の下で鞄を覗く。筆箱、ノート、教科書……目当ての物は見当たらなかった。少しだけ焦りながら、もう一度探す。最悪、雲雀に電話して持ってきてもらうしかないだろうか。でも家まで来られるのはまずい。近くのコンビニ……は、近所の人にあいつと居るところを見られたくないから駄目だ。ああ、公園なら大丈夫かな。この時間なら誰もいないだろうし。
教科書を引っ張り出し、パラパラと中を見る。次にノートを手にして――体から力が抜けた。なんだ、ここに挟んでいたのか。もう家に着くところだったから、あって本当に良かった。雲雀のやつに借りを作るのも嫌だしな。
ほっと息を吐いたそのとき、二つの声が耳に入った。
「おいっ、人の物に勝手に触るなって言ってるだろ!」
「へへーんだ! バカツナの言うことなんか聞かないもんねー!」
「ランボ! 返せよ!」
……家に入りたくない。というかここが自分の家だと思いたくない。
数ヶ月前までは静かだった家が、今じゃ毎日大騒ぎだ。いつの間にか家に居た“ランボ”という子供は、いま家で預かっている赤ん坊の知り合いだそうだ。そして何故かランボのこともうちが面倒をみることになったらしい。母さんはこのまま家を託児所にでもする気なのだろうか。いや、母さんというか父さんだ。一体何を考えているんだか……何も考えていないんだろうな。
頭痛がしてきた。
俯きこめかみを押さえていると、暗がりから、唸るような低い声が聞こえてきた。
「その家に何か用か」
俺に聞いているのだということは解っていた。辺りには俺と、声をかけてきた彼の姿しかないからだ。けれど相手にする義務はない。人を威嚇する低音に加えて、着崩した学生服、そして学生に似合わぬその派手な髪色を見れば、彼がどういう種類の人間で何故俺に声をかけてきたのか、解らないはずがない。聞こえなかった振りをして、早足で家に向かうが、門をくぐる直前で阻まれてしまった。
「おい、無視してんじゃねえぞ!」
胸ぐらを掴まれ、顔を顰める。こんな風に絡まれるのは日常茶飯事なので、動揺や恐怖、焦りなどはなく、ああまたか、とうんざりした気持ちしかない。どうせ目についた金髪がムカついただとか下らない理由で突っかかってきているのだろう。俺の髪は染めてもいないし色を抜いているわけでもないのに、でもこういう輩には何を言っても無駄だ。
溜め息を吐きながら顔を上げると、意外にも、整った顔立ちがそこにはあった。銀色の頭髪が不自然ではないその容姿と、薄闇の中でも分かる日本人離れした瞳の色。もしかすると、彼には自分と同じように外国の血が流れているのだろうか。
「質問に答えやがれ!」
だが髪色が生まれつきであろうと、彼が不良であることに変わりはないらしい。間近で怒鳴られ、更には揺さぶられ、本当にうんざりする。腹も減ったし、ゆっくり風呂に浸かりたいし、明日の予習をする時間も欲しい。何より、家の前で騒ぎになるのは困る。
……さっさと終わらせるか。
俺は、胸ぐらを掴む手を逆に掴み返した。色素の薄い瞳がぎょっと見開かれるのを見ながら、親指を狙う。そこを突き上げるようにして押してやれば、軽々と手が外れるということを俺は知っていた。
「なっ、」
驚きの声が上がり、相手の体勢が崩れる。左脇が狙ってくださいと言わんばかりに目の前に曝け出されたので、すかさず、足を振り上げた。雲雀に教えられた通りの蹴りがしっかりと決まった。――はずだった。
「っ……」
きちんと入ったはず。いいところに決まった感触もあった。けれど彼は倒れもしないし蹲りもしない。それどころか蹴りを繰り出した足が、逆に、脇に抱えられるようにして捕らわれてしまっている。焦りながら、足を引く。幸い、決まったという感触は間違っていなかったようで、簡単に拘束はとけた。安堵の息を吐く間はなく、急いで家の中に向かう。
「ぐ……てめ、えっ……やはり10代目を狙うヒットマンだな……!」
「はあ?」
ヒットマン?
思わず振り向いてしまった俺の目に映ったのは、煙草を銜え、手に見慣れぬ何かを掲げた不良の姿だった。
「――果てろ!」
×
突如響き渡った爆発音に、慌てて外に出た。
「なっ、何だー!?」
玄関を開けた先には、広がる煙、鼻をつく火薬の匂い、そして。
「10代目!」
クラスメイトの姿があった。
「ご、獄寺くん!? 一体何が……」
「はい、晩飯を買いに出ていたんですが、どうせなら10代目のご自宅周辺を見回って行こうと思い立ちまして! そうしたらですね、怪しい男がお屋敷を見上げていたんです! でもご安心下さい! 10代目のお命を狙うヒットマンは、10代目の右腕であるこの獄寺隼人が始末しましたから!」
どん、と誇らしげな様子で自分の胸を叩く獄寺くん。
「ひ、ヒットマン……?」
頬を引き攣らせながら煙に包まれてしまっている庭を見渡す。
「……って、兄さんー!?」
庭の隅に倒れている彼は紛れもなくオレの兄さんだった。
「えっ!? 兄さん、ってことは、10代目の、お、お、お兄様……!?」
獄寺くんの言葉に答える余裕はなかった。真っ青になりながら兄さんに駆け寄ろうとして、しかし聞き慣れた声を耳にし立ち止まる。
「綱重」
赤ん坊らしい高い、けれど赤ん坊らしくない落ち着いた声。よく見れば地面に倒れ込んだ兄さんの側で小さな影が動いている。リボーンだった。
大丈夫か、とリボーンの小さな手が肩を揺すると、兄さんは激しく咳き込みながら上体を起き上がらせた。その動きに不自然なところはない。よかった。怪我はないみたいだ。
「……申し訳ありませんっ!」
「わっ」
急に何かが足元に滑り込んできたので、オレは飛び上がった。
何かは獄寺くんで、彼は土下座をしていた。
「だ、大丈夫だからさ、顔をあげてよ」
「本……っ当に、申し訳ありませんでした! まさか10代目にお兄様がいらっしゃったとは露知らず! 大変失礼致しました!」
駄目だ。全然聞こえてない。
獄寺くんは兄さんとオレ、その両方に頭を下げる。申し訳ありません、申し訳ありません、と何度も額を地面に打ち付ける彼の声が聞こえたのだろう。
「一体何の騒ぎなの?」
「あっ、か、母さん!」
ガラリと窓を開け、母さんが顔を出す。
「10代目のお母様ッ、これは全て俺の責任なんです、俺がお兄様のことをヒットマンだと勘違いしましてっ」
「わー! 獄寺くんっ!」
頼むから君は黙ってて!余計ややこしくなるから!いやでもこの惨状、何て言えば取り繕えるのだろうか。慌てふためく俺とは対照的に、リボーンがさらりと言葉を紡いだ。
「何でもないぞ、ママン。ちょっと花火で遊んじまっただけだ」
「あらあら、ご近所迷惑だからほどほどにして頂戴ね。火の始末もきちんとするのよ」
ええー!納得したのかよ!?いや、怪しまれても困るんだけどさ。ほっとしていいのか呆れていいのか迷いつつ、再び閉まった窓を眺める。情けないオレの顔が映ってる。そしてその後ろでギラリと鋭い何かが窓に反射した。オレは肩を揺らし、その後、暫く硬直した。汗が噴き出す。でもいつまでも固まっているわけにはいかない。窓に映るそれの鋭さが、どんどん増してきているから。
ぎ、ぎ、と油の切れたロボットのようなぎこちなさでゆっくりと首を回す。
「ひっ」
悲鳴をあげてしまった。
だってもう睨むとかなんかそういうレベルじゃなかったんだ。怒りに満ちた兄さんの眼は真っ直ぐオレを見ていた。
「あ、あの〜、その〜、兄さん……これはね……」
見つめ返すなんて出来るわけもないので明後日の方向を見ながら口を動かす。同時に必死に言い訳を考えていた。だって母さんは花火ってことで騙されてくれたけど兄さんは無理だ!大体、10代目とかヒットマンとかの単語についてもどう説明すりゃいいんだ!爆発してるし煙は凄いし、これはどう見ても花火が引き起こした状態ではない。頭の良い兄さんが騙されてくれるはずが、
「お前も、花火を人に向けたりしてるのか?」
「え」
「友達が出来たのは構わないが、人に迷惑をかけるんじゃない。ごっこ遊びも大概にしろよ」
冷たい一瞥をオレ達に向け、兄さんは家の中に入っていった。