パブロフの犬

 ある一つの目的のためだけに動いている人間は、皆、こうも美しいものなのだろうか。彼の艶やかな黒髪が僅かに揺れる間に、閃光のような軌跡が幾つも走る。無駄のない動きで粛々と目的を達成していく姿に圧倒された――と、良いように表現しようと思えばいくらでも出来そうだが、目の前で行われているのは紛れもなくただの暴行だった。
 この状況下で、こんなことをぼんやり考えている自分もどうかと思う。でもそうして現実逃避をしなければ、正気を保てそうにないのだから仕方がない。
「綱重」
 くるりと振り返った男の頬からは真っ赤な返り血が滴っていて、思わず後ずさりする。そんな俺を気にした様子もなく、雲雀は続けた。
「君もやってみなよ」
「嫌だ」
 即答すれば、形の良い眉が不快そうに歪んだ。
「実践はいいトレーニングになる」
 そう言って尚も勧めてくるが、どれだけ言われても頷く気にはなれなかった。
 雲雀の背後には、男が一人。地面に倒れ伏したままぴくりとも動かなくなった(まるで死んでいるかのような表現だが、まだ死んでいないと思う……多分)仲間たちの中心で震えながら正座をしている男だ。数分前まではニヤニヤと人を舐めきった笑みを浮かべていたのに、今やその表情は硬く、哀れなほどに青ざめている。額からは大量に血が溢れ、どう見ても脱色のし過ぎな金色の髪を赤黒く染めていた。このまま放っておけば出血多量で死ぬんじゃないだろうか――俺は医者ではないので解らないが、ともかく、そんな相手にとどめをさすことなど出来るわけがない。
 何度目かの拒否の言葉を口にすれば、雲雀はようやく諦めてくれたようだった。俺の顔を見たままで、背後の男に話しかける。
「もう二度と、彼に手を出さないで」
「は、はい! 絶対に出しません! すみませんでした!」
 男は、土下座をしながら何度も頭を下げる。
 俺は小さく息を吐き、数メートル先の大通りへと視線を移した。ここは、平穏そのもののあそこから少し外れただけの路地裏なのに、こうも違うなんて。早く向こうに戻りたい――。
「おい、騒ぎになる前にここから、」
 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、雲雀の後頭部へと拳を振りかぶる、土下座していたはずの男の姿。謝るとみせかけて背後から襲いかかるとは、なんて卑怯なんだ。……そして、救いようのない馬鹿だ。
 土下座したからといって雲雀が見逃すわけがない。すぐ攻撃を繰り出せるよう構えられていたトンファーは、当然ながら、男の拳が届くよりも先に相手の鳩尾を捉えた。下から抉るように放たれた強烈な一撃によって、男の体が宙を舞う。
 男の落ちる先を確認することはできなかった。
 何故ならば、男を沈めた武器が間髪入れずに俺に襲いかかってきたからだ。
「――避けるのは上手くなったね」
 トンファーは鼻先数センチの所を掠めていった。何とか避けることはできたが、本当にギリギリだったため、体勢が崩れてしまう。
「でも、まだ隙だらけだ」
 間を置かず放たれた攻撃からは逃れられなかった。鈍い音がして、一瞬遅れて衝撃が走る。
「っ、う……」
 何とか受け身はとれたものの地面に倒れ込んでしまった俺を雲雀は冷ややかな目で見下ろした。
「だからこんな馬鹿な連中に絡まれるんだよ」
「……」
 口の中が切れた。これは絶対に腫れるな、と思いながら殴られた頬を押さえる。顔は止めろといつも言っているのに。まったく。今回は母さんに何て言い訳をしよう。
「今日は出ないね」
 そう言って俺の両手へと視線を向ける雲雀に、フンと鼻を鳴らしながら答えた。
「殴られるのにも慣れてきたからな」
 ……どうやらその返事が気に入らなかったらしい。次の瞬間、トンファーが再び俺の顔に向かって飛んできた。慌てて立ち上がりながら避けたが、すぐにまた攻撃が繰り出される。
「わっ、うわ、や、やめろ!」
 制止しようと掲げた手のひらに炎が灯る。それを見て、雲雀はようやく攻撃の手を止めた。
「なるほど。こっちが本気かどうか、見極められるようになったみたいだね」
「本気って?」
「殺す気ってことだよ」
 ということは、今、本気で俺を殺す気だったのか?
 愕然としている俺をどう思ったのか、雲雀は、
「無意識でも進歩だ」
 と肩を叩いてきた。
「それ、慰めているつもりか?」
「まあ、褒めるまではいかないけどね」
「……なんで」
 別に褒めて欲しい訳じゃないけど。
「だって犬でさえベルで涎を垂らすようになるじゃないか」
「犬と一緒にするなっ!」
 クツクツと雲雀が笑った。


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