車内マナーに協力を

 電車の窓ガラスに映った姿に彼は小さく舌打ちする。きつく寄せられた眉が彼の機嫌が最悪であることを知らせていた。数日前に比べたらその数は減ったものの絆創膏やガーゼに所々覆われた顔はどうしても人の目を引いてしまう。彼――綱重は、車内に背を向けるようにして移り行く景色を眺めていた。
 あの日、帰ってきた母を宥めるのは一苦労だった。弟相手とは違い『転んだ』と押しきるのは難しく、更に母を心配させることなく納得させようとした所為で、いつの間にか、土手で不良と殴りあって怪我をした、ということになってしまった。しかもこれは別に綱重がそう言ったわけではないのだが、母の中ではその不良とは友情が芽生えたことになっているようだった。というわけで、息子に友達ができたと母はあの日からずっとご機嫌だったりする。
 もちろん、綱重と彼を怪我をさせた相手との間に友情など芽生えてはいない。場所も土手じゃなかったし、そして何よりあれは喧嘩ではなかった。一方的に暴力を受けただけだ。
 非日常的なあの出来事は、ともすれば全て夢だったのではとも思えて、いやそう思いたくて、けれど体に残る傷がそれを許さなかった。しかし一方で、金を払えとあの顔だけは綺麗な男が押し掛けてくることはなく、また綱重が幼い頃から必死に隠してきた『特殊体質』が誰かに知られた様子もないのだ。
 雲雀には、住所や名前も知られてしまっている。もし自分が学校へ行っている間に、母に、自分の体質について話をされたら?もしくは、弟に。それは絶対にあってはならない事だ。
 だから綱重はあの日から数日学校を休んだ。その間ずっと家にいたが、雲雀が動くことはなかった。家に来ることも、弟に何か吹き込んだ様子もない。となると、戦々恐々とした気持ちも次第に落ち着いてきて、今はただ体に残る傷跡が時折引き攣るのを感じるだけ。あの日あったことは全て夢だったのでは……そんな風に考えてしまっても仕方がないだろう。
 まだ完全に安心したわけではなかったが、本日何とか数日ぶりに登校した綱重は、一日中周囲からの好奇の視線に晒されて、今はとにかく機嫌が悪かった。不躾な視線には慣れていたはずだった。色素の薄い髪と瞳……それだけでも目立つ外見は、進学校の制服を纏えば余計に人の目を引く。それに加えて今は派手に怪我をしているのだから、見られても仕方のないことだ。仕方ない、のだけれど。
 あの雲雀という男の所為で、と考えると苛立つ気持ちが止められない。かといって雲雀に文句を言いに行く勇気すらないことも確かで、そんな自分にもまた腹が立った。このまま何もないならそれでいい。藪をつつく必要なんかない。そう考えることも何だか、逃げているようで悔しかった。
(逃げる、だなんて)
 今更なのに。小さな頃から、周囲から、必死に逃げ続けてきた。今更、悔しいなんて思う自分が不思議でならない。これも全てあの雲雀という男の所為なのだろうか。腹立たしくて、悔しくて、堪らない気持ちになる。
 今一度、車窓に映る自身の顔を見つめ、小さく溜め息を吐いた、そのときだった。

 み〜どりたな〜びく〜

 唐突に鳴り響いた歌声。流行りの歌ではなく、どこかのどかなその歌は車内に流れ続けた。誰だか知らないが早く出ろ、と眉を顰めかけて、ふと気がつく。音の発信元がやけに近い……いや、これは近いどころではなく。車内を振り返れば、今までの比ではなく多くの視線が己を突き刺していた。
 こんな着信音は知らない。いや、そもそも音が鳴るはずがないのだ。登下校の際、何かあっては大変と持たされた携帯電話は、購入当初から今までずっとマナーモードに設定しているはずだった。でも確かにこれは自分の物だ。鞄の中で鳴る、この携帯電話は。
 周囲の視線に促されて、綱重は恐る恐る携帯に手を伸ばした。そして二つ折りのそれを開いた瞬間――

 ――電源ボタンを長押ししてしまった。

 通話ボタンに指を伸ばす素振りは一切無かった。端から見たらそう見えただろうが、しかし綱重には電源を落とす意思はなかった。そんなこと考える暇もなく、反射的に体が動いていたからだ。
 携帯電話を握り締めたままで綱重は硬直した。真っ暗な液晶を見つめ、そして、滲んでくる汗と、激しく脈打つ心臓の音を感じながら。

×

 どうか、見間違いであってほしい。
 電源ボタンに再び指を伸ばしながら思ったことは、それだけだった。
 綱重を含めた数十人の乗客を吐き出した車両が走り去ってから数分。プラットホームには次の電車を待つ人々と、変わらず携帯を握り締めている綱重が居た。相変わらず人々の視線は綱重に向けられていたが、それを不愉快に思うことすら出来ないほど、今の綱重には余裕がなかった。震える親指がボタンを押す。
 電源を入れ、着信履歴を開いた綱重は、再び硬直する。自宅と母の携帯しか残っていないはずの履歴の一番上。登録した覚えのないその名前。先程思わず電源を切ってしまったその理由。やはり見間違いではなかった。呼吸をするのも忘れて四文字のそれを見つめる。

 み〜どりたな〜びく〜

 再び携帯が鳴りはじめて、綱重はびくりと体を揺らした。ディスプレイに表示された名前は、もちろん。
 そのとき何故通話ボタンを押してしまったのか、綱重にもわからなかった。先程電源ボタンを押したときと同じく、反射的に電話に出てしまったのだ。
「――何で切ったの?」
 それが第一声だった。もしもし、も、名乗ることもせずに『雲雀恭弥』は言った。
「……で、電車の中、だったから……」
 明らかに不機嫌な声に気圧されて、素直に答えてしまう。
「――そう」
 興味無さそうな相槌だったが、第一声に含まれていた怒気は多少引いていたように感じた。
「学校終わったんでしょ。今から並中に来てよ」
「な、」
「君が来ないなら僕が君の家に行くまでだよ」
「……脅す、つもりか」
「さあね」
 電話の向こうで雲雀が小さく笑った。


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