兄と弟

 今まで、こんなに真剣に走ったことはない。走って、走って、ようやく家の玄関を潜った瞬間、綱重はその場に崩れ落ちた。
 胸が苦しい。けれどそれ以上に。
 ハァハァと息を吐きながら、拳を握る。
 初めて人を殴った。
 それも炎を纏った拳で……。拳を伝って耳に響いた鈍い音を思い出して、体が震える。同時にあの綺麗な顔を思い出し、顔は止めておけばよかったかも、なんてことも考える。けれどすぐに頭を振った。
 殴って当然だ。あんなの。
『その体で――』
 少し掠れたような、甘い囁きが蘇ってきて、綱重はもう一度大きく頭を振った。
「くそっ」
 乱暴に靴を脱ぎ捨てたものの、習慣から結局、きちんと並べてしまう自分に舌打ちをする。脱ぎ散らかされた弟の靴が目に入ったので、ついでにそれも整えたところで電話が鳴った。

 聞こえてきたのは、優しい声音。
「――母さん」
『あら、どうしたの、慌ててるみたいね』
「いや……今、帰ってきたところだから」
『こんな時間まで?』
「うん、色々あって」
 焦りが声に出ることはなかった。長年感情を圧し殺してきた経験は並みではない。このまま外でご飯を食べてきてもいいかと尋ねられ、母の帰宅が遅くなることに安堵した瞬間も同様に、淡々と相づちを打つ。
『――あなたたちも晩御飯は外で食べてきてもいいけど、冷蔵庫に今日までのお肉があるのよね』
「じゃあ俺が作るよ」
『そう?』
 小遣いいっぱい貰っちゃったし、と言えば、母の明るい笑い声が聞こえてくる。それを聞いて、ようやく声だけではなく心が落ち着いていくのを感じた。

×

 消費期限が今日までのひき肉。本日のメニューはハンバーグだ。
 付け合わせにグラッセを作ろうと人参の面取りをしていると、階段を降りてくる音が聞こえてきた。
「兄さん!?」
 朝と同じく驚いた声が綱重を呼んだ。弟のこんな反応はいつものことなので、綱重は何でもない顔で振り返る。
「母さん、友達と飯食べてくるから遅くな、」
「どうしたんだよ! その怪我!」
 今まで聞いたことのない弟の声に、びくりと綱重は肩を揺らした。
「ああ……えっと……これは」
「大丈夫なの!?」
 大丈夫だ、と返せば、もう一度どうしたのかと尋ねられ、綱重は口ごもった。まだ、この怪我についてなんと説明するか決めていなかった。母が帰宅するのは遅くになるとわかったから、それまでに言い訳を考えればいいと思っていたのだ。
 まさか、弟にこんな風に詰め寄られるとは想定していなかった。
 ――自分達は、決して仲の良い兄弟ではないから。
「転んだ」
「転んだだけでこんな風になるかよっ!」
「……ちょうどガラスが散らばってるとこで転んで」
「はあ!?」
 ああ、何を言ってるんだか。頭を抱えたくなる衝動を抑え、唇を引き結ぶ。そのまま眼鏡の奥から弟を見やれば、細い肩が揺れるのがわかった。感情を圧し殺した瞳でじっと見つめてやれば、弟が何も言えなくなってしまうことを綱重はよく知っていた。
「お前には関係ないことだ」
 更に自分自身ですら冷たいと感じるような声音でそう言ってやれば、それ以上追及されることもない。怒りと悲しみが込められた視線が注がれるが、それだけだ。
(大嫌いな兄貴でも心配せずにはいられない、か)
 小さな頃から酷い態度をとってきた自分をこんなにも気にかけてくれるなんて、弟は、自分には勿体ない優しい子だと思う。
 気づかれないようにそっとツナを窺う。俯いて、何かに耐えるように拳を握るその姿に胸が痛む。自分がまともな人間だったら、優しいこの子にこんなにも辛い思いをさせずにすんだのに。
 今朝だって、と思い出して、ふと気がついた。
 雲雀が羽織っていたのは髪と瞳と同じ色の学ランだ。だが、今朝弟が着ていた制服は――。
「お前のところの制服って、ブレザーじゃなかったか?」
「は?」
 いきなり何を言い出すのかと怪訝そうな表情を向けられて、綱重は慌てて首を横に振った。
「いや、何でもない。飯、出来たら呼ぶから」
 再び包丁と野菜を手に取った綱重をツナの言葉が制止する。
「俺、いらない」
 振り返れば、母譲りの大きな瞳が睨むようにこちらを見ていた。
「一食くらい抜いたって平気」
 一食、じゃないだろう。
 下駄箱に入ってるそれに気づかなかったのだろう、弁当の中身はゴミ箱の奥に捨てられていた。
「食わせなかったら俺が怒られる」
「……何これ」
「金、ないんだろ。母さんからだから遠慮しないで使え」
 だったら早く出せばいいのに、と不満いっぱいの顔でツナは綱重から一万円札を受け取った。


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