白炎

 鋼の武器を構えた体がこちらに一歩一歩近づいてくる。綱重は頬を引き攣らせながらも逃げるべく立ち上がろうとした。戦慄く手で近くに垂れ下がるカーテンを掴み、震える足で何とか床を踏みしめる。
 だが――
「うわあっ!」
 突然少年が強く床を蹴ったかと思うと、トンファーがこちらに向かって振り下ろされた。綱重は頭を抱えながら体を屈める。急襲は空を切り、背後にあった窓ガラスを突き破った。割れた窓ガラスの一部が窓枠の下で蹲る綱重に降り注ぎ、頭を庇う腕を破片が掠める。それによる鋭い痛みを感じとる前に、それ以上の衝撃と痛みが綱重を襲った。
 横っ面を、今度こそ殴り付けられたのだ。机や椅子をなぎ倒しながら綱重は教室の中心まで弾かれた。身体中の色んな場所を打ち付けたが、殴られた痛みがとにかく強烈だったので、良いのか悪いのかその痛みしか感じなかった。
「まだ意識があるの?」
 少年のどこか感心したような声を聞きながら、綱重は口内に溢れる鉄の味を吐き出した。床に真っ赤な唾液が零れるのを不明瞭な視界で見届ける。一撃により、眼鏡はどこかに飛んでいってしまったらしい。
 ちくしょう、口にした悪態は低い呻き声にしかならなかった。
(どうして、誰も来ないんだ……)
 さっきこの男が扉を破った時点で、教師の一人や二人、見に来てもおかしくないはずなのに。どうやら助けは期待できないことを察し、綱重は思わず拳を握った。力を込めたことにより、ガラスによって負った裂傷からじわりと血が滲み、白い肌を汚す。
(大体、なんで俺がこんな目に……)
 心の中で呟く。
(何故)
 繰り返す問いかけは、心中であっても小さな声だった。しかしながらそれは、この世の不条理を嘆く弱々しい響きなどではなかった。
(何故、こんなことを)
 ゆっくりと上体を起こしながら、綱重はギッと少年を睨み付けた。憤りを、怒りを込めて。
 少年が僅かに目を見開き、そしてすぐに細める。
「草食動物のくせに、いい目をするじゃないか」
 ヒュンッ、と鋭い音を立ててトンファーが振られる。まるで威嚇するようなそれにも綱重はもう怯まなかった。
「こんなことして何が目的だ」
「言っただろ。君を咬み殺すって」
 黒い瞳に睨まれ、また大きく心臓が跳ねる。それと同時に治まったはずの熱がぶり返してきたことに綱重は動揺を隠せなかった。
 体を後ろに引き、少年から距離をとろうと試みる。
「……あんた、それ以上、俺に近づかない方がいい……」
「はあ?」
 馬鹿にしたような笑みを浮かべた少年に、綱重は今にも泣き出しそうなくらいにぐしゃりと顔を歪めて、頭を振る。
 先程とは比べものにならないくらい急激に、手のひらへと熱が集まっていくのを感じていた。
「わけがわからないな。楽しめそうだと思えば弱々しく振る舞って。そしてこちらが失望すれば再び牙をむいてみせる。君の方こそ何がしたいんだい」
 溜め息混じりに少年が言うが、綱重の耳にはまったく届いていなかった。
「……だめ、だめだ、」
 ギュッと両手を重ね合わせて握る。そんなことをしても、いや、何をしてももう、迫り来る熱は抑えきれない。……解っていても止められなかった。
 幼い頃からの自分だけの秘密。今まで必死に隠してきたのに。誰にも、両親にだって、見せたことはないのに。
 止められない。
「もういい。潔く死になよ」
 綱重の頭めがけ振り下ろされたトンファーは、しかし獲物を捕らえる直前でピタリと止まる。
 驚愕に見開かれた黒い瞳に、映る揺らめき。
 ゆらゆらと燃える――そう、それは燃えていた。綱重がきつく握る拳から噴き出すかのように現れ、激しく燃え盛る、それ。
 炎、だ。
 もっとも少年は、それが本当に炎であるかどうか、すぐに判断することはできなかったのだが。人の手に炎が灯るという信じがたい異様な現象の所為もあるが何よりもその炎の色は。
「白い、」
 呆然と言葉を零す少年に今が好機と思ったのだろう、傷だらけの体がよろよろと立ち上がる。
「っ、待ちなよ」
「離せ!」
 後ろから肩を掴めば抵抗の拳が向かってくる。軽々と避けるものの、拳が纏うそれのことは計算していなかった。チリ、と前髪が焦げる感覚に、少年は確かにそれが炎であることを認識する。改めて驚いた様子で目を見開く少年を綱重は睨んだ。
「もうわかっただろ!」
「……何が」
「ッ、俺が! 普通の人間じゃないってことをだ! あ、あんたを燃やすことだって、出来るんだぞ……!」
 両手に灯る真っ白な炎を掲げて、凄んでみせる。そしてぐっと奥歯を噛み締めたあとは、更にきつく、目前の端麗な顔を睨み付けた。
 身長は自分の方が数センチ高いようだと綱重は頭の片隅で考える。体格だって、あの強烈な一撃を思えば驚きだが、それほど変わらない。
 もちろん自分には人を殴った経験などない。しかしそれでも。今一度、拳を握った瞬間。
「……!?」
 世界が反転して、綱重は目を丸くする。
 足を掛けられ倒されたのだとようやく理解したときには、床についた手がジリジリとその場を焦がし始めていた。
「やってみなよ」
 そう言って少年が浮かべた鮮やかな笑みに、綱重はゴクリと息を飲んだ。


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