5

 並盛中の校門を潜ったまさにそのときだった。子供らしい高いトーンの声に呼び止められ、綱重は足を止める。
「ちゃおっス」
 シャマルに散々からかわれ、ようやく解放されたばかりの綱重にとって、その暢気で気安い挨拶は、彼の神経を逆撫でするものでしかなかった。
「傷の具合はどうだ」
「……数日後にまた来るよう言われた」
「機嫌悪いな」
 答えはするものの、不機嫌であることを隠しもしない綱重の声をリボーンは眉を上げながら指摘した。
「もっと愛想良くしろって?」
「いや、無表情よりずっといい」
 今度は綱重の方が眉を上げる。しかし綱重が言葉を返すよりも先に、それより、とリボーンが続けた。
「二時までに家に帰れば良いことがあるぞ」
 上げた眉を顰め、しかし説明を求めても答えはもらえないと解っていた綱重は、背後にそびえ立つ校舎を振り仰いだ。そこに見える大きな時計を確認すると、すぐに赤ん坊に向き直る。
「あと五分しかないが?」
「無理か? すっげえ良いことなのに残念だな」
 そう言って、ニッと笑う。この赤ん坊の言葉を信じて何だかわからない“良いこと”の為に急ぐなんて真っ平御免だった。どうせ大したものじゃないくせに勿体ぶった言い方してるだけに決まっている。それに例え本当に何か良いご褒美が待っていようと、付き合ってなどやるものか。
 ゆっくりと横を通り過ぎていく綱重に聞こえるよう、リボーンは仰々しい溜め息を吐いてみせた。
「ツナなら余裕で帰り着けるはずだが……そうか、出来ねえか」

×

 乗せられた、という自覚はあった。それでも自分にだって意地がある。
 腕にはめた時計を見やれば、あと十数秒ほどで二時を回るところだった。馬鹿にしやがって。舗装された道路でこれぐらいの距離、わけもないんだ。
(さあ、“良いこと”とやらを拝ませてもらおうじゃないか)
 玄関を僅かに開いた、そのとき。
「がははは! オレっちが公園に一番乗りしちゃうもんね!」
 扉の隙間から飛び出してきたのは黒いモジャモジャ――もとい、ランボ。
「道路に飛び出したら危ないよ!」
 慌てた様子でフゥ太が続く。最後に出てきたイーピンだけが扉の影にいる綱重に気がついたようで、行ってきます、と――彼女の母国語で――声をかけてきた。
「車に気をつけて」
 同じく中国語で告げれば、元気な返事が返ってきて頬が緩んだ。
 子供たちを見送り、ようやく家の中に入る。だが“良いこと”は見つからない。きょろきょろと辺りを見回す綱重の耳に、家の中からの声が届く。
「……あら、ちょうど帰ってきたみたい。少し待っていてくださいね」
 足音がして、リビングから母の奈々が顔を出した。
「綱重、お友達から電話よ」
「――友達?」
「ザンザスくんですって」
「えっ!?」
 予想もしないその名前に、目を見開くよりも先に体が動いていた。靴を履いたまま家に上がりかけ、奈々に咎められてしまう。乱暴に靴を脱ぎ捨て、転びそうになりながら廊下を進んだ。
「そんなに慌てなくても電話は逃げないわよ」
 笑いながら受話器を差し出す奈々に綱重は曖昧に微笑み返した。
「――ママン、コーヒーの豆が切れてるんだが」
「あら、リボーンくんも帰ってたの」
 思わぬ声の出現に受話器を取り落としてしまい、焦る綱重に、リボーンはニヤリと含みを持たせた笑みを向ける。
「それじゃあ、ランボくんたちも出掛けたみたいだし、今のうちに買い物に行ってくるわね」
「あ、うん」
 気が利くだろ?とでも言いたげな表情をしたリボーンを連れ立って、いそいそと出掛けていく母の背中を見送る。
 その後改めて掴んだ受話器を手に、綱重は胸を押さえた。心臓が今にも破裂しそうなくらい早く脈打っているのがわかる。加えて、いつの間にか手が震えていたことにも気がついて。
 ――やめろ。
 自分に向かって、呟いた。受話器に耳を当てた時、そこから聞こえてくる声が求めるそれとは違っていても、何も聞こえなくとも、それが当然なのだ。妙な期待を抱いてはだめだ。
 玄関の閉まる音がして、二人が出掛けたのがわかった。一度、深呼吸をする。そして綱重は、ようやく受話器を耳に押し当てた。
「Pronto...?」
 もしもし、と相手に呼びかける声が震える。馬鹿、と内心で己を罵るのと同時に、受話器から音が伝わってきた。
「綱重」
 自分の名を呼ぶその声の主を、電話越しとはいえ、綱重が間違えるはずがなかった。ただ、それでも確かめずにはいられなかった。
「本当に、ザンザス……なの?」
「ああ」
 肯定を示す声。それを聞いても尚、信じられなくて。本当に?ともう一度確認しようとするが、喉が震えて言葉が出てこない。縋りつくかのように受話器を握りしめ、蚊の鳴くような声で“どうして”と、それだけを尋ねた。
「さあな。奴らの考えることなんか知るか」
 すうっと体から熱が引いていくのがわかった。
 今のザンザスが、己の意思で、それもよりによって綱重に電話をかけられるはずがない。浮かれていた自分を認識すると同時に、この通話はボンゴレの監視下に置かれていて内容は全て聞かれているのだと理解する。余計なことは喋れない。……ボンゴレは何を考えているのだろうか。何かを試しているとか?けれどこんな方法で一体何を試すというんだ?
 思案を巡らせている綱重に、怪我はどうだ、とザンザスが尋ねた。
「え? うん、平気だよ。……そっちは?」
「悪かねえ」
「……」
「……」
「……」
「……」
 沈黙に、じわりと手のひらに汗が滲むのがわかった。
「えっと、あ、あのさ、マフィアランドって覚えてる?」
「あぁ?」
「子供のときに行ったじゃん」
「――……お前が海で溺れ死にかけた、あれか」
「っ! い、言っておくけど、今は泳げるんだから!」
「浮き輪を使って?」
「違うよ! ちゃんと泳げるんだってば! 足つかない所でも大丈夫だしっ」
 嘘じゃないからね、練習したんだから、と必死に繰り返す綱重をザンザスが遮る。
「それで、今は泳げるってことを言いたかったのか?」
「……今日、Dr.シャマルに怒られたんだ。彼、あのときあそこのホテルを予約してたんだって。でも僕らが貸しきったから女の人にフラれちゃったらしくて」
「……」
「……」
「……」
「……それだけなんだけど」
 再度の沈黙が二人の間に訪れた。


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