3

 窓の外、夜空に月が浮かんでいる。満月をちょうど半分に割ったかのような下弦の月。美しいけれどどこか寂しげだ。
 ――窓越しに、手を伸ばした。届くはずもないそれの、失われた半身がある場所を指で辿る。何度か半円を描いたあとで綱重は小さく息を吐いた。そして、振り返る。
「いつまでそうしているつもりだ? アルコバレーノ」
 声を掛ければ、音もなく開いた扉から小さな体が姿を現した。
「眠れないのか」
 そう尋ねるリボーンは、いつものスーツではなくパジャマを身に纏っていた。きちんとナイトキャップまで被った赤ん坊の姿に綱重はふっと口元を緩める。
「そっちこそ」
「俺はお前が寝ないと寝られねえんだ」
「へえ。そんなに仕事熱心とは知らなかったな。でも、何もする気はないよ。安心して先に寝てくれ」
 リボーンは動こうとはしなかった。それどころか大きな黒い瞳でじっとこちらを見つめてくる。綱重は居心地の悪さを感じ、僅かに身動ぎした。
「……僕はまだ暫く眠らないよ。昔から寝付きが悪いんだ」
「ママンが、お前はベッドに入るとすぐ寝てくれて手が掛からなかったと話してたぞ」
 まったく、どういう話の流れでそんな話になったんだろう。綱重は溜め息混じりに頷き、そのまま俯いた。
「確かに、イタリアへ渡る前はそうだったけどね」
 ――寝所で暗殺者に襲われるまでは。
 その一度の体験が幼かった綱重の心に傷をつけ、一時期はベッドの中で目を瞑ることさえ出来なくなった。完全に恐怖を克服したのは、八年前ザンザスが居なくなってからだ。克服せざるを得なかった、と言うべきか。成長出来たという意味ではこの八年に感謝するべきかもしれないと、自嘲じみた笑みが浮かぶ。
 リボーンは、ただ黙ってそんな綱重の顔を見つめていた。それから彼が立つ窓際にゆっくりと近づく。八年以上誰も使っていない部屋なのに埃ひとつない上、綺麗にワックスまでかけてあるフローリングの床を赤ん坊は通常とは違い足音を立てて歩いた。綱重が制止すればすぐに止まるつもりだった。けれど綱重は何も言わず、その代わりに窓の外に視線を移す。
 あの月は、今にも雲に覆い隠されてしまいそうだった。
「綱重。お前、俺に何か聞きたいことがあるだろう」
「僕が?」
 ふっと笑みを零しかけ、しかし考え直した。
 同時に、月は完全に雲の向こうへと消える。淡く降り注いでいた月光が消え、他に光源のない部屋には暗闇が訪れた。足下近くまで来ていた赤ん坊を見下ろせば、姿は見えても、表情まではわからない。それは相手から見ても同じはずだ。だが確認しても尚、綱重は感情が表に出ないように抑え込み、それから口を開いた。
「――何故、綱吉に話さなかったんだ?」
 獄寺と山本が帰ったあと、ツナは、ランボたちと遊ぶ綱重を何か言いたそうな顔で見つめていた。その後みんなで食卓を囲んでいるときもずっとだ。でも綱重が答えなくとも、ツナが兄に尋ねたいことの答えは全部、この赤ん坊が持っているはずだった。
「僕たちのこと、色々聞いたんだろう」
 9代目や父が話したに違いない。綱重が幼い頃からザンザスを慕って側にいたことや、ザンザスにボンゴレを継がせるため動いていたこと……全てを。
「まあな」
 思った通りリボーンは頷いた。
「だったらどうして、」
 小さな手が掲げられ、綱重の言葉を遮った。
「聞かれてもないことをベラベラ喋るほど俺はおしゃべりじゃねーからな」
「……何?」
「ツナが聞きたいのは、過去にあったことや、そこから俺が憶測したものなんかじゃない。今のお前の“気持ち”だけだ。そんな、お前しか答えられねえことを俺に聞くわけがないだろ」
 雲が流れ、月がまた顔を出す。綱重は表情に出さないようにしながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「逃げたいなら逃げればいい。今日みてえにな」
 その言葉に、ぴくりと金色の眉が動いた。
 確かに、答えを求める弟の視線に気づいていながら、綱重はその全てを黙殺した。気づいていない振りをしたわけではなく、時折目を合わせながら、それでいて何も言わなかった。また、母に、マフィアに関することを聞かせたくないというツナの思い――綱重も同じ思いだからよくわかる――を利用し、手伝いと称して出来るだけ母の側を離れず、また、それでもツナが隙を見つけ話しかけようとすればランボを刺激し騒ぎを起こさせたりもした。
 ツナは、諦めたようだった。だがそれは今日の話であって明日にはまた物言いたげな視線が注がれるはずだ。それは明日も明後日も、自分が日本に居る限り、きちんと話をしない限り続く。綱重はそう確信していた。
 相変わらず表情のない綱重の顔を見つめ、リボーンは続ける。
「もしあいつが尋ねることが出来たら、お前の負けだ。その時はちゃんと答えろよ」
「こんなことに勝ち負けがあるのか?」
「そう思った方が話しやすいだろ?」
 ニッと笑う赤ん坊に、無表情だった顔に不快の色が浮かぶ。しかしそれも一瞬で、綱重は再び表情を消すとベッドに向かった。
「……もう寝る」
 リボーンは何も返さなかった。それきり耳に届く音はなく、気配がなくなったことで赤ん坊が去ったと知った綱重は、そっと布団から顔を出した。窓の外に浮かんでいる月がここからでもよく見える。


 本当に聞きたいことは別にあった。
 ――ザンザスたちの処分はどうなるのか。
 聞けたとしても、あの様子では答えはもらえなかっただろうけれど。良くて、交換条件を持ち出されたはずだ。
 ――弟の問いに答えること。
 あのアルコバレーノは、よほど生徒のことが可愛いらしい。昔、ディーノと一緒に居るのを見たことがあるが、そのときに感じた強い信頼関係がアルコバレーノと弟の間にもあるのを感じる。何があっても赤ん坊は弟の味方だし、弟は赤ん坊が側にいればいくらでも強くなれる。
 そんな関係を、素直に羨ましいと思う。自分には築けなかったものだから。

 月は相変わらず欠けたまま夜空に浮かんでいて、まるで自分のようだと思う。不完全で不安定で心細げで。
 こんな夜は、幼い頃ならば必ずザンザスの所に行っていたはずだ。広いベッドは二人で寝ても子供には十分に広かったから、くっつきあって眠ったわけではない。加えてザンザスはいつだって迷惑そうにしていて、いつもこちらに背を向けていた。けれどそれでも安心できた。ザンザスが側にいてくれるだけで、安心して眠りにつけた。
 どうしてだろう。恐怖はとっくの昔に乗り越えたはずなのに。八年間、一人でも平気だったのに。
 ――いや、本当はわかってる。成長なんかしていないって。
 10代目の資格を得られれば。争奪戦に勝利すれば。そうやって先が見えていたから、ザンザスが隣にいなくとも平気だった。彼のためなら何だって出来る。その気持ちは今も昔も変わらないのに。
 最後に会ったとき、ザンザスが言った言葉を信じていないわけじゃない。必要だ、そう言われたときの胸の高鳴りを忘れたわけでもない。でも今は、何をしたらいいかわからなくて。
「……眠れるわけ、ない……」
 写真を持っていた。ザンザスと二人一緒に写っている写真だ。片時も離さずに持ち歩き、何かある度に見つめていた。八年の間縋りついていたその写真は、あの争奪戦で燃やしてしまった。今あれが手元にあれば、少しはましな気分になれただろうに。
「Mi manchi...」
 我慢できずに呟けば、つられて涙まで溢れ出した。自分が情けなくて、布団を頭まで被り、そこで声もなく泣き続けた。


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Mi manchi=I miss you
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