カモミールの憂鬱

 手ぶらで現れ、何をするでもなくだらだら過ごしている綱重の姿は、とてもこれから旅立つそれとは思えない。まあ荷物はすでに用意してあるのかもしれないし、それでなくとも何も持っていく必要はないのだろう。遠いアジアの島国に行くとはいえ、彼にとっては実家に帰るだけなのだから。
 そうは思うものの、両手でカップを持ち、ぼんやりとその中身――甘い香りのするハーブティーだ――を見つめている姿に、ザンザスは堪えきれず問いかけた。
「日本に帰るんじゃねえのか」
 綱重は驚いた様子で顔を上げた。金色の髪が揺れるのを眺め、ザンザスは付け加えてやる。
「親父に聞いた」
 ああ、と合点がいったのか頷いて、しかし綱重は動こうとはしない。椅子に深く沈み込んだまま、手の中のカップに口をつけることもなく、変わらずぼうっとしている。
「いつ発つんだ」
「んー……そろそろ出ないと」
 ちらりと壁にかけられた時計に視線を向け、綱重が答える。
 綱重がこの部屋にいるのはいつものことだ。例え黙って来たのだったとしても、そろそろ迎えが来るはず。ザンザスはそうあたりをつけると、早く車の音がしないかと窓に視線を移す。朝からしとしとと静かに降り続いている雨は、未だ止まないようだ。
「早く居なくなればいいのにって思ってるんだろ」
 綱重が言った。ザンザスは否定も肯定もしなかった。答えずともわかっているだろうし、質問というよりは断定する物言いだったからだ。
 そんなことよりも綱重のこの態度の方が気になった。母と電話をしただとか、弟から手紙がきただとか、毎日のようにそんなことを話している綱重である。ザンザスは、彼が嬉々として帰国すると思っていた。

「……僕は寂しいのにな」

 ぽつりと呟かれた言葉にザンザスは驚いて綱重の顔を覗き込んだ。きゅ、と寄せられた眉の下で、琥珀色の瞳が潤んでいる。
 思わず息を飲んだのがわかったのだろう。嘘だよ、と綱重は静かに笑った。しかしそれはいつもの子供らしい笑顔ではなく、口の端だけを引き上げた笑みだ。
 綱重は、つい、と窓の外に視線を移す。
 長い睫毛が震え、薄く開いた唇からは小さな吐息が漏れる。アジア人の血が多く流れているためか、表情が豊かな所為か、年齢よりも幼く見えることの多い少年だが、今は酷く大人びて見えた。
「……こんな雨の日は、何だかユーウツな気持ちになるよね……」

 ザンザスの眉が上がる。
「……またくだらねえもん見たんだろ」
 呆れた声音で言われ、パチ、と琥珀色の瞳が大きく瞬きをした。
「あ、わかった?」
 途端、それまでの憂いを帯びた表情を引っ込めてイタズラっぽく笑う。
 きっと映画か何かを見て難しい言葉を使ってみたくなったのだろう。そんなもの見ている暇があるなら他にやることがあるだろうにと思うが、言っても語学の勉強などと言い張るに違いない。
 ザンザスがフン、と鼻を鳴らしたそのとき、エンジン音が聞こえてきて二人は同時に顔をあげる。綱重は、カップの残りをぐいと飲み干して、立ち上がった。
「もう戻ってくんなよ」
 そんな冷たい声にも怯むことなく、綱重は満面の笑みを浮かべて振り返る。
「すぐ『帰って』くるからね!」

×

 綱重を乗せたであろう車のエンジン音が聞こえなくなってすぐ、使用人がカップを下げに現れた。言いつけてある通り無駄口は叩かず、無言で手早く仕事を終える。
「おい」
 一礼をして部屋を出ていこうとする女をザンザスは呼び止めた。


 ――香りと同じく甘味がある。普段口にすることのないそれをコクリとまた一口飲み干して、瞼を閉じる。が、小さく舌打ちをしながら、すぐに開き直した。
 こんなに静かに降っている雨の音を、煩く感じてしまうのは、それは、きっと。

 誰かの瞳を思わせる琥珀色の液体が、不機嫌な紅い瞳を映しながら揺れた。


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