30

 不意を、つかれた。
 一瞬にして腰の上まで凍りついてしまった自分の体を見下ろして、綱重は溜め息を吐いた。
「何のつもりだ」
 ベルじゃあるまいし、と心の中で呟く。
「悪く思わないでくれよ。病人がいると邪魔だから、縛りつけておけって命令なんだ」
 小さな体がフワリと目の前に現れる。夕陽に照らされて、赤ん坊の柔らかな頬はうっすらと色づいていた。
「もう治った」
「体が震えてる。顔も赤いし、まだ熱があるんじゃないかい?」
 震えは幻覚の所為だし、顔が赤いのは沈みかけた太陽の所為でお前も同じ顔色をしている、と反論しても無駄なことはよく解っていた。
「おい、これは契約違反じゃないのか? お前にいくら払ったと思ってるんだ」
「君との契約には抵触しないと思うけど」
「ふざけるな」
 幻術を振り切り、目の前に浮かぶ小さな体――ではなく、右手側にいる本物の体に向かって飛ぶ。虚を狙ったつもりだったが相手は予想していたらしく、繰り出した蹴りは空を切った。
「だってそうだろ。君が今夜動けないからといって、ボスの10代目就任に何か影響が出るというのかい?」
「……マーモン」
「安心しなよ。話しちゃいない」
 フードの下に隠れて見えない瞳を睨み付ける。確かに嘘は言っていないようだが……。
「でも何故ボスに言ってはいけないのか、解せないね。邪魔をする気はない、お前を10代目にしたいんだと言ってしまえば、こんなことされることもないと思うんだけど」
 言い終えると同時に、マーモンは触手を伸ばしてきた。逃げることもできずに、捕らえられ、宙吊りにされてしまう。
「言ったとして、あいつが、信じると?」
 ――本当は、言わずともザンザスはすでに解っているんじゃないかと僕は考えていたが、それを話す気はなかった。
「信じないだろうね。……僕も正直、半信半疑だ。ボスを10代目にしたいっていう君の目的は聞いたけれど、何故そうしたいかは教えてもらえなかったしね」
 触手に締め付けられる痛みに耐えながら、僕は瞼を下ろした。
 深く空気を吸い込み、また深く吐き出す。ゆっくり呼吸を繰り返しながら、今感じている痛みと苦しみを自分から切り離し、心の裡から沸き上がってくる感覚だけに集中する。これは幻覚だと思い込むのではなく、それの本質を見極めなければ術から逃れることは出来ないのだから。
 何度目かの深呼吸のあとで、僕を捕らえていたものがフッと消え去っていく。
「見透かす力――超直感、か。何度見ても、術士に喧嘩を売っているとしか思えない能力だ」
「それで? 封印を解くか?」
 コートの下から時折覗く、チェーンを巻かれたおしゃぶりを見やりながら言う。出来るだけ不遜な、挑発するような声で言ってみたのだが、マーモンは相変わらずの落ち着いた口調で返してきた。
「冗談だろ。君なんか、このままで充分さ」

 抜け出すのもそうだが、幻術にかからないようにするというのは、難しい。それも一度や二度ならともかく立て続けに術をかけられては防ぎきれないのが現実だ。
「逃げてどうするんだい」
 後ろからどこか呆れたような声が聞こえてきて、僕は廊下を全速力で走りながら笑った。
「夜中までどこかに隠れておいて、こっそりついていくしかないかな」
 今度は本当に呆れたらしい。深い溜め息が聞こえた。
「あまり手間をかけさせないでくれ」
 グラリ、大きく体が揺れた。
 床が崩れていく――すかさず何度も頭を振って、イメージを振り払った。そして確かにそこに存在している床に足をつき、体を反転させれば、今度は意表をつけたらしい。驚きに肩を揺らす小さな体に手を伸ばす――が、背後からの鋭い殺気に、思わず手を止めて振り返ってしまった。
 いつの間に、彼はそこにいたのか。情けないことに幻覚を見破るのに必死で、まったく気がつかなかった。
 彼の、レヴィの持つサーベル状の電気傘が、ビリビリと電気を帯びながら振り下ろされる。しまった、と思うのとほぼ同時に、僕は意識を飛ばした。

×

 目を覚ましたとき、僕はベッドの上にいた。もちろん介抱されているわけはなく、寝かされているというよりは無造作に転がされていた。しかも縄で縛り上げられている。病人だと決めつけていたくせに、まったく酷い扱いだ。
 縄は、死ぬ気の炎に強い素材で出来ているようで、少し試みてみたものの僕の炎では焦がすことすらできなかった。更にそれが何重にも、念入りに僕の体を縛り上げているのだ。これではどうすることもできない。
 ただ、気配を探ってみても近くには誰もいないようだった。つまり監視はつけていないらしい。
「なめやがって」
 蓄積した炎の威力は凄まじい。そして、一点集中させた炎もまたその威力を発揮することを彼らは忘れているのだろうか?
「……いや、忘れていないか……」
 こんなとき、本当に泣きたくなる。
 一本の指に集中して灯した炎は、縄の表面をジリジリと焦がしていく。少しずつ、少しずつ。時間をかければこの太い縄だって焼ききれるだろう。
 すでに陽が落ちている窓の向こうでは、星が瞬いていた。


prev top next

[bookmark]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -