25

 サイドテーブルに置かれた解熱剤と水の入ったコップを見つめ、嘆息する。薬はともかく水は飲みたい。けれど、すぐ側のそれに手を伸ばすのも億劫なぐらい体が怠かった。ベルの所為で熱が上がったのだろう。だからと言って、薬を飲む気にはなれなかった。別に自暴自棄になっているわけじゃなく、この熱は薬では引かないと解っているから、飲む気がしないのだ。
 また一つ溜め息を吐いて、僕は指先を枕の下に潜らせた。すぐに指先に触れるものがあって――当然だ、先程僕自身がそこに押し込めたのだから――何度かそれ、パスケース、の表面を指先で撫でた。引っ張り出してもう一度中の写真を眺めようかとも思ったが、僕は結局枕に顔を埋め、瞼を下ろした。もう水もいらない。眠ろう。
 だが、何も考えずに寝ようとすればするほど、色んなことが頭に浮かんできてしまう。弟が見せた美しい炎だとか、僕を見下ろす蔑んだ目だとか、首を絞められる苦しさ、触れた唇の感触、体の熱さ。
「クソ、」
 呟いて、毛布を頭まで被った。きつくきつく目を閉じる。
 これが風邪じゃないことも、薬が効かないこともわかっている。このひどい倦怠感と発熱には、以前にも苦しめられたことがあった。けれどあの時のように何日も寝込むわけにはいかない、と思う。
 今夜、ベルは必ず勝ってくれる。次の対戦が誰にせよ、明日の夜にはこの馬鹿げた勝負は終わるはずだ。だから明日には体調を戻しておかないと――そこまで考えて、ふと自嘲じみた笑みが浮かんだ。果たして僕は何か役に立つだろうか。こんな風にベッドの中に逃げ込んでいる僕が。
 本当はさっきザンザスのことを聞きたかった。どんな様子か、いつも通りなのか、そうでないのか。ベルにも、その前に様子を見に来てくれたスクアーロにも何も聞けなかった。
 ほら、あの頃と、僕は何も変わっていない。情けなくて弱いまま。今も昔もこれからも、こうやって逃げるんだろう。
 また体が、熱くなる。

×

 僕には、何人もの家庭教師がいた。
 皆、一流の殺し屋だとか、同盟ファミリーの重鎮だとか、ボンゴレの後継者を育てるのに相応しい人たちだった。
 だが、僕が『先生』と呼び慕った人はただ一人だ。
 彼に教わることになったきっかけは何だったか。昔のことすぎてあまり思い出せない。戯れに剣を渡されて、振ってみろと言われたのだっけ――そのとき僕はまだ幼かったけれど、ボンゴレの血が与えてくれた超直感は、初めての武器の扱い方を確かに僕に知らせてくれた。
 気に入った、と彼は言って。
 その日から、先生には色んなことを教えてもらった。彼は僕の憧れで、彼に認められた人間だということが僕の何よりの誇りで。
 だからある日突然、もうお前に教えるのは辞めると告げられたときには、大袈裟ではなく本当に世界が終わったかのように感じたのだった。

 扉が開く音がして、ずっと続いている微熱と倦怠感で重い体を微かに揺らす。もう食事の時間か。ここ数日、時間の感覚がなくなってきている。もう一週間以上も――もしかしたら二週間かもしれない――ベッドの中にいるから、当たり前だが。
「いらない。食べたくない」
 いつもならこう言えば食事を置くだけ置いて部屋を出ていくはずだが、その気配がない。不審に思い振り向けば、そこには見慣れたメイドではなく。
「な、」
 なんで、と言いかけ、すぐに口を噤んだ。ザンザスが父か9代目に頼まれてここに来たことは考えなくてもわかる。
 布団を引き上げ、頭まですっぽりと覆い隠す。
「帰れ!」
 布団の中から、普段は自分がよく言われている言葉を叫んだ。そしてザンザスは、いつもの僕のように言葉を無視する。布団を剥ぎ取って、抵抗する僕の顎を掴み、顔を覗き込んできた。
「引きこもってねえで、言いたいことがあるなら言え」
 逃げたかったけれど、紅い視線に囚われて、視線を逸らすことができない。
「綱重」
 名前を呼ばれて肩が揺れる。もう完全に、逃げるなんて不可能だった。
「……先生に、日本に帰れって言われたけど、」
 涙が溢れそうになる。必死で堪える。
「帰り、たくない……」
 イタリアに、ここに、残りたい。
 側に、いたい。
 助けてもらったあの日から、いや、イタリアに初めて降り立ったあの日にあの力強い炎を見たときから、僕は決めていたんだと思う。お前についていく、と。
「諦めたくないんだ」
 紅い瞳を見上げて、きっぱりと言い切る。表には出さなかったが、内心、世界一可愛い女の子に告白するような気持ちだった。目の前にいるのは鋭い目付きの男だけど。でも一笑に付される可能性が高いのは同じだろう。
「――なら、聞かなきゃいいだろうが」
 ザンザスは笑わなかった。代わりに、むぎゅ、と鼻を摘ままれた。
「10代目になるということは、あの暗殺部隊も手中に収めるということだ」
 鼻を押さえる僕の、今度は額をピンと弾き、ザンザスはふんぞり返るようにして言った。
「あいつも将来、部下になる男だ。そんなカスの言うことなんか聞かなきゃいい」
 伝わらなかったことへの落胆はあまりなかった。それよりも、何を言っているのかと呆気にとられてしまった。
 10代目になるのはこの俺だがな、と付け加える声を聞いて、僕は堪えきれずに笑いだす。
 10代目の座に興味はなかった。自分はそんな器じゃないとわかっていたし、何より誰よりも相応しい人間を知っているから。
 でも、彼が出す炎のように力強いその言葉は、初めて、ザンザスがちゃんと僕を見てくれたように思えた。ああ、一緒に前を見ている振りをしていれば、ザンザスはこうしてこちらを見てくれるんだ。そのことが、嬉しくて、楽しくて、笑う。
「何が可笑しい」
 叩かれて、痛みに涙が溢れても、僕は笑うのをやめなかった。


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