甘く淡く得てして儚く

「どう? 寝た?」
 微睡んでいた意識が一気に覚醒する。起き上がろうとして、しかし、隣から聞こえてくる小さな寝息を認識してギクリと動きを止めた。
「大丈夫よ。ツっ君は一度寝たらなかなか起きないから」
 母さんがふふっと笑った。
「寝かしつけてると一緒に眠くなっちゃうのよね。そこで寝てもいいのよ?」
 そう言って電気を消そうとする母さんの手を制止し、ベッドから抜け出す。もちろん、やっと寝付いた弟を起こさないようにゆっくりと。
「ご苦労さま、お兄ちゃん」
 聞き慣れない響きが妙にくすぐったくて、別に、と小さく返す。僕のそんな態度を気にした様子もなく、母さんはにっこりと微笑んだ。
「ツっ君ったら、お兄ちゃんが帰ってきて本当に嬉しいみたいね。『おにいちゃんといっしょにねる!』なんて駄々こねたりして」
 うん、とまた素っ気なく返しながら、さっきまで何回も読まさせられていた絵本を母の手に渡す。正直、疲れた。昔の僕は確かにいつもこんな風に過ごしていたはずなのに、今はこの『普通の日常』には違和感しか感じない。母の微笑みも、無邪気に懐いてくる弟も、妙に居心地が悪いというか。
 早くイタリアに戻りたかった。体を鍛えて、語学や知識を詰め込んで、やらなきゃならないことはいっぱいある。けれど、9代目と父である門外顧問に夏休みだと言い渡されているから、あと二週間は家でこうして何気ない日常を過ごさなければならない。思わず溜め息を吐きかけた僕を、母の手が掴まえた。
「な、なに」
「兄弟タイムは終わり。今からは親子タイムよ!」
「何それ……」
「『沢田家の長男は世界を見据えた男に育たなきゃならん!』なんてお父さんに言われて納得しちゃったけど、母さんちょっと後悔していたのよ? あなたが居なくなって、寂しかったんだから。帰ってきてくれて嬉しいわ。もうこのままずっと家にいてほしい」
 ギュッと抱き締められて、動けなくなる。今の僕の力なら簡単に振り払うことだって出来るはずなのに、見えない手で心臓を掴まれてしまったみたいに胸の辺りが締め付けられて、声すら出すことができない。唯一、軽く俯くことだけはできたけれど。
「……でもね、今日、帰ってきたあなたを見て、やっぱりあの人の言うことは間違いじゃなかったって、そう思ったの。だって、すごくいい顔をしているんだもの!」
 母さんの柔らかい手が頬に触れる。そっと包みこむように両側から触れて、僕の顔をあげさせた。
「向こうで充実した生活を送っているんだって、こうして顔を見るとよくわかるわ」
 大きな瞳が僕を真っ直ぐに見つめてくる。
「男の子は、色んな世界を冒険して、立派に成長していくのね」
 そうにっこり笑ったあと、ツっ君もお兄ちゃんみたいに育ってくれるといいんだけど、と少し心配そうに呟かれた言葉に瞬きする。けれどすぐに、昼間、野良猫に威嚇されて大泣きしていた弟の姿を思い出して、僕は小さく吹き出した。

「大丈夫だよ。ツっ君も母さんも、僕がもっともっと強くなって、守ってあげるから」
 自然とそんな言葉が、口をついてでていた。


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