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 コーヒーの他、酒や軽食も出すこの小さな店は、昼時にもなるとカウンター席は常連客でいっぱいになった。いつもの面々が揃い、いつもの注文が入る。毎日代わり映えのしないメンバーだが、不思議なことに彼らの会話はいつまでも尽きなかった。食事が運ばれる前も、食事中も、食事が済んだあとも。
 バリスタである店の主トニーは無口だったが、その代わりに、料理を担当している妻マリアが旦那の分も喋り、客たちの会話を盛り上げた。加えて三ヶ月前からバリスタ見習いとして働いている青年の笑顔も花を添える。
 外国人だという彼は、イタリア語が堪能ではないらしく話すことはあまりない。しかし心のこもった丁寧な接客ぶりと、皆の話を聞きながら時折見せる笑顔に、常連客は皆、魅了されていた。最近、若い娘の客が増えたのも彼のおかげだろう。町中の人間が彼に好意を抱いている。隣町の人間にすら偏屈が知られているじいさんも、彼とは笑顔で挨拶をかわすのだ。
 そんな彼だが、その名前を誰も知らなかった。夫婦がバンビーノやラガッツォとだけ呼ぶからだ。尋ねてみても「私たちには発音が難しい名前さ!」――そう、マリアが答えるので、今では客たちも店主夫婦に倣った呼び方をしている。
 その日は、いつも通りの一日だった。いつも通り、食事を終えても誰一人として席を立たずに、皆で会話を楽しんでいた。見慣れない客が現れなければあと一時間はそうしていたことだろう。
「Buon girno!」
 来客を知らせるベルを聞き、マリアが反射的に挨拶を口にする。普通の客ならば挨拶が返ってくるはずだが、このとき入ってきた男は普通ではなかった。店内にいる誰もが一目で男の職業に見当を付ける。――マフィアだ。それも、かなりの大物。そこらを歩いているチンピラにはない圧倒的な存在感がこの男にはある。
 男の鮮血のような紅い瞳が、恐ろしい輝きを放ちながら周囲を見回した。ほんの一瞬、男の視線が己に向いたというだけで、扉の近くにいた若い客は縮み上がった。
「カッフェ」
 男は短く言うと、奥のテーブル席に向かう。客たちにはもう見向きもしない。それはまるで獅子が、地を這う虫を気にしないかのように。
 カッフェとはなんだ、そういう脅し文句があっただろうか。どうやら頭の中身までも縮み上がってしまったらしい若い客が頓珍漢なことを考えている間に、カウンターの中ではエスプレッソマシンがゴゴーッと音を立てる。そうだ、カッフェはエスプレッソのことだ。ようやく繋がった頭の回線だが、すぐにまたそれを引っこ抜くような言葉がマリアの口から発せられた。
「ああ、そういや、今日は家の大掃除をするって決めてたんだよ。あんたたち、そろそろ出てってくれるかい?」
「ええ!?」
 驚愕の声をあげて更に驚いた。声をあげたのは自分一人で、常連仲間の友人たちは皆、不平を言わず、大人しく席を立っていた。
「テオ。ほら、お前も来い」
 襟ぐりを引っ張られ、無理矢理に立たされる。ちょっと待ってくれ。テオは口を開きかけたが、マリアが遮るように言葉を続けた。
「夜はちゃんと開けるよ。夕飯を食べにおいでね」
 いつもと変わらない、母親のような温かい笑みを浮かべながらも、声には有無を言わさない凄みがあった。
 店を出るとき、どうしても気になって一度だけ振り返った。奥のテーブルへ何故か二人分のエスプレッソを運ぶバンビーノ。その足取りがいつもよりも軽いような気がしたのは――、きっと、テオの勘違いだ。少なくともテオ自身はそう思うことにした。


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