38

 二人は深い森の奥へと進んでいた。
 掴まれた腕が悲鳴をあげている。一体どこに向かっているのか尋ねたかったが、ついて行くのに必死で、それどころではない。
 綱重がGHOSTの影響下にいたのは、ごく僅かな時間。それ以前に、幻覚を生み出すため霧の匣を、スクアーロの傷を癒すために晴の匣を開匣したことが災いしていた。属性違いの匣兵器を使用すると綱重の疲労は大きくなる。
 スタミナ切れを起こしているのはザンザスも同じはずだ。疲れを感じさせない足取りはどんどん速度を上げていく。何とかそれについて行きながら、綱重は男の背中だけを見つめていた。足元に注意を払うことも忘れて。
「あっ!」
 何かに躓いたと気がついた瞬間、固い地面の感触を覚悟した。ギュッと目を瞑り衝撃に備える。けれども、訪れたのは地面とは似ても似つかない、温もりだった。
「ご、ごめん……っ」
「謝るな」
 ザンザスが咄嗟に体を反転させて支えてくれたのだ。
 不可抗力とはいえ、ザンザスの腕のなかに飛び込んだ形になり綱重は慌てた。すぐに体を離そうとしたが叶わなかった。背中に回された手が許してくれなかったから。
 ザンザスが何を考えているのかはわからないが、少なくとも嫌われたわけじゃないと綱重は思った。でなければ、こんな風に触れたりはしないはず。まだ好きでいてくれている。今は、まだ。
 気づけば口走っていた。
「嫌いにならないで」
 ザンザスの腕の力が緩んだ。離れるどころか、逆に目の前の身体にしがみつく。離れてしまえばこの温もりを二度と感じられないような気がした。嫌な想像に、じわりと涙が込み上げてくる。返事がないことも不安を煽った。ザンザスの両腕は辛うじて綱重を包み込んでいたが、抱きしめ返してはくれなかった。綱重に出来るのは、祈りながらザンザスを抱きしめることだけ。彼の気持ちが見えない今、言葉を重ねる勇気はとてもない。
 長い長い沈黙のあと、ようやくザンザスが返した言葉は綱重にとって予想もしない一言だった。
「それはこっちの台詞だ」
「……え?」
「嫌がってただろうが」
「……は?」
 浮かんでいた涙が乾ききるほどの時間、瞬きをすることすら忘れ、綱重は必死に記憶を辿った。しかし、いくら考えても言葉が指す状況に心当たりはなかった。
「えーっと……今までザンザスに何かされて嫌だったことなんてないけど……?」
 殴られて悦ぶ趣味はないが、殴ってもらえなかったと泣くくらいにはザンザスの乱暴さに慣れきっている。それに、何をされても、例えザンザスが綱重を嫌いになったとしても、綱重の方はザンザスを愛することをやめられない。そう確信を持って言えるし、決して嘘ではないのに、ザンザスの据わった目は「嘘をつくな」と告げていた。彼がどうして怒っているのか理解できない綱重は混乱するばかりだ。
 痺れを切らしたザンザスが顔を寄せてくるまで、何のことか、本当に思いつきもしなかった。
「……!」
 唇が触れる寸前、咄嗟にザンザスの体を押していた。厚い胸板は衝撃にびくともせず、力を加えた綱重の方が後ろに倒れこんだ。衝撃に備える暇はない。今度ばかりはザンザスも手を伸ばしてはくれなかった。強かに尻を打ち、顔を顰める綱重をザンザスは冷ややかに見下ろした。キスを拒絶し、更には折角助けてもらったことも無駄にしたのだから当然だ。
「ほらな」
 溜め息を吐くその表情は明らかに呆れている。けれども、綱重の目には、どこか寂しげに映った。
「……っだ、だって、お前にキスされると頭が真っ白になるんだもん! 考えたいことがたくさんあるのにそれじゃ困るんだよっ! あの夜も、今も!」
 恥ずかしいことを言っている自覚はある。こんな風に地べたに直接座り込みながらでは尚更だ。ボンゴレ本部のあの部屋ならば、少しは格好もついただろうに。
「僕は、あのときちゃんと説明しようとしたんだ。でも誰かさんが盛ってくれた薬のせいで出来なかった」
「俺の所為だって言いてえのか」
「そうだよ!」
 勢いで肯定したが、単なる勢いでは言い張るほどの意地はない。
「……違う。お前にそうさせた、僕が悪い」
 俯き、自分の靴に視線を定めて、綱重は語り出した。
「あのとき、このまま流されてしまえば楽だなって思ったよ。何にも考えないで、ザンザスに守られて、僕はただ過去へ帰るときを待っていればいいんだから」
 必ず帰してくれると言ってくれた。そしてザンザスは約束を守る男だ。
「ザンザスに、みんなに、優しくされるたび嬉しかった。だけど同時に苦しくて堪らなかった。どれだけ良くしてもらっても返すものが何もないんだ。僕は何も持ってない。与えてもらうだけだ。それなのに、もっともっとって欲張る気持ちもあって、情けなくて……」
「十年後と比べたら焦るのは当然だろう」
 綱重は首を横に振ってザンザスの言葉を否定する。その後、深く息を吐いた。
 これだけは言いたくはなかったが、問題はそこにないと伝えるためには説明する他ない。
「フランに聞かれたんだ。ザンザスは、僕のどこに惚れたのかって。……いや、もっと違う言い方だったかも。よく覚えていないけど、とにかく、そういう意味のことだ」
 ザンザスの反応を見るのが恐かった。自身の足先を見つめているだけでは安心できず、きつく目を瞑った。膝を抱えて、そこに瞼を押しつけて、ようやく続きを口に出来る。
「答えられなかった」
 喉の奥から絞り出した声は震えていた。
「フランに言われるまでそんなこと考えもしなかったから。好きだって言ってもらえた、わあ嬉しいって、ただそれだけ。能天気に浮かれていたんだ。十年後の世界に飛ばされるなんて有り得ないことが起きなければ、僕は、そのままずっと……」
 十年間ものうのうと過ごしていたなんて考えただけでゾッとする。
「傍にいたら駄目なんだ。僕は、お前に甘えてしまう」
「それの何が悪い」
「ザンザスの横には、もっとちゃんとした人が立つべきなんだ!」
 恐がっていたことも忘れて、綱重はザンザスを仰ぎ見た。
「――お前以外の?」
 真剣な眼差しが綱重を見返していた。
 言い出したのは自分だ。ザンザスの言葉に傷つくのは間違っている。そう言い聞かせてもなお、胸が締め付けられる。痛いほどに。他の誰かに触れるザンザスなんて想像もしたくなかった。
「それが嫌だから、一人で何とかしようと思ったんだ。自分の力だけで過去に戻ろうとした。無茶だって思ったけどあのままじっとしているのは嫌だった」
「酷い無茶だ」
「わかってる。だけど何もしないまま諦めたくなかったんだ。僕は、ザンザスに相応しい男になりたかった」
 ザンザスが目の前で膝をついた。
 大きな手が伸ばされて、頬をそっと撫でていく。数秒ののち、綱重はまた自分が泣いてしまっていることに気がついた。
「……結局、何も出来なかった。だから仕方がないと思った。ザンザスがもう僕のことを見てくれなくても当たり前だって、そう納得しようとした。でも……っ」
 ラル・ミルチの言葉が蘇る。「他と同じように諦めるのか」――彼を、ザンザスを諦めるのか、と。そうだと答えられなかったのはどうしてだろう。もう無理だと何度も何度も心の中で否定しながら、決して口には出せなかった。
 昔、かの剣帝に見限られたときですら、すぐに諦めた。言われるまま、師弟関係の解消を行い、一度だってテュールに縋りつくことはなかった。綱重が唯一必死になって抵抗したのは、日本に送り返されることだけ。イタリアに残りたかった。ザンザスの傍にいたかった。
「無理なんだ、頭で理解しても心が拒否する……! 僕は、ザンザスのことだけは、どうしたって諦められないから……ッ」
 マフィアならどんなときでも決して弱みを見せてはいけない。そんな基本的な教えすら彼のこととなると吹き飛んでしまう。
 こんなにも全てを曝け出してしまって、今度こそ本当に愛想を尽かされてもおかしくない。そう思うのに。
「嫌いにならないで……っ」
 嗚咽混じりの懇願が溢れていた。
 何だってする。強くなる努力をする。諦めずに、最後まで。足掻いてみせるから。
 放っておけばいつまでも続きそうな綱重の言葉をザンザスはたった一言で黙らせた。
「そのままでいい」
 肯定でもあり、否定でもあった。あれだけ必死に告げた気持ちがまるで伝わっていないのかと思い、綱重は呆然とした。
「そのまま……? 何もない、ままで? ザンザスに、与えてもらうばかりでいろって言うの……?」
「俺はお前からちゃんと大事なもんを貰ってる。ガキのときから、ずっと」
「そんなの、嘘だ……」
「嘘だと思いたいならそうしろ。事実は変わらない」
 そのままでいい、とザンザスは繰り返した。
「文句はない。お前がそっくりそのまま、俺のものになるなら」
「どうしてそこまで、僕なんか……!」
「嫌いになるなと頼んでおいて、俺が欲しいと言えば“どうして”か?」
 抱き寄せられて息を呑んだ。このドカスが。貶す言葉と裏腹に、綱重を包み込む腕は、きつく強く、抱きしめてくる。頼まれたって離すものかとでも言うように。
「テメーが城を飛び出したのは、俺に失望したからだと思った」
「え……?」
「俺はまだ沢田綱吉を倒せてねえ」
 思ってもみなかったことだった。まさか、自分と同じように、ザンザスも不安を感じていた? ザンザスが?
「別に期待してなかったか?」
 ハッ、と人を嘲る笑み。ザンザスがよく浮かべるそれだが、いつもと違うのは、ザンザス自身に向けられている点だ。
 金色の髪がパサパサと僅かにザンザスの胸元を叩く。きつく抱きしめられている所為で首を横に振ることすらままならないのだ。
「僕はッ、お前のことを好きだからお前に10代目になって欲しいわけじゃあない! お前が、ザンザスが、10代目に相応しいと本当に思ってるから……ッ!」
 顔が真っ赤になるくらい声を張り上げていた。こんなにも密着しているのだから、囁き声でも聞こえるはず。わかっている。声の大きさはそのまま、伝えたい気持ちの大きさだった。
「るせえっ」
 だから、思いきり顔を顰められるのはまったくの予想外だった。抱きしめてくれていた手が髪を引っ張って、体を引き剥がされたことにも吃驚した。流石にあんまりだと思い口を開いたが、またまた驚いたことに、声を発する前に塞がれてしまった。
 重なった二つの体が倒れ込む。ザンザスの手が覆ってくれていなければ、後頭部を地面に打ちつけていただろうことにも、綱重は気づかなかった。
 ――頭が真っ白になる。
 唇の柔らかさ。土の匂い。舌と舌が触れた瞬間、全身を駆け抜ける電流。心地よい風。鼓動の音。
 完全に停止した思考は、そんな幾つかの事実を認識するのみだ。
 唇が離れると同時、綱重は呼吸の仕方を思い出す。もう少しで窒息するところだ。幸せなまま。それでもよかったなと思ったけれど。
「俺の隣に相応しいのは誰か、俺自身がよくわかってる。誰にも文句は言わせない。テメーにもな」
 ザンザスの言葉を聞いて思い直す。まだ死ねない。死にたくない。
 自分はザンザスに相応しいと、自信を持って言えるのは、ずっとずっと先になるだろう。もしかしたら一生納得がいかないかもしれない。それでも諦めない。彼とキスを交わす喜びは、誰にも渡したくない。
 綱重の頬や唇に軽いキスを降らせていたザンザスの動きが止まる。
「……もしも、他の誰かを選べなんて言いやがったら、かっ消してた」
 何のことかと思ったら、無意識に声に出していたらしい。死にたくない、と。
「頭に銃を突きつけられて脅されたってそんなこと言うもんか」
 コートの襟を掴んで引き寄せる。ザンザスがくれたものにはきっと遠く及ばないが、精一杯の熱いキスをするつもりだった。ザンザスの手が止めなければ。
「この場で犯して欲しいんでなければ止めておけ」
 こちらが酸欠になるくらい情熱的なキスをしたのが嘘のように、あっさりと立ち上がるザンザスを追いかけて、綱重も体を起こした。
「言ったはずだ。僕は、ザンザスになら何をされたって構わな、っ痛!?」
 頭を叩かれた。
「まともなキスも出来ないガキが何言ってやがる」
「っ、十年後には、キスだって上手くなってるだろう?」
「いいや、まったく変わらない」
 即答にショックを受ける間もなく、顎を取られる。
「――ずっと変わらず、俺好みだ」
 弧を描いた唇が、触れる寸前に囁いた。


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