7

 瞼を開いてすぐ、暗闇に浮かび上がる人影に気がつく。
 こちらを覗き込んでいるそれと目が合った。
 声が空気を震わせる直前、口を覆われる。抑え込まれたのは悲鳴じゃなく問いかけだ。
 どうして貴女が!
 声にならない疑問に、どこからともなく答えが返ってくる。
「何を今更」
 聞き慣れた声にそちらを見やれば、ここに居るはずがない“彼”がそこにいた。紅い瞳は、いつものように馬鹿にした様子でこちらを見下ろしている。
 探し求めていた姿を目にしてるのに喜びは湧かない。
 だって、今の自分は幼すぎる。こんな小さな手では、女の細腕を振り払うこともできず、されるがまま、ベッドに押さえつけられるのみだ。
「全て、てめえが自分で招いたことじゃねえか」
 耳元で、いや、頭の中で響く嘲り。
 確かに、こうなる予兆を数週間前から感じていた。
 明るい笑顔。優しく頭を撫でてくれる手。他の護衛とは違い、友人のように気安く話しかけてくれ、かくれんぼや鬼ごっこにも嫌な顔一つせず付き合ってくれる。母が遠い日本に居り、多忙の父とも会えない日々が続いていた。寂しさに泣く子供が懐くには充分過ぎる理由だ。
 こっそり渡された小さな飴玉すら、年の離れた友人がくれた大切な宝物だった。後で食べてと言われて頷いたけれど、勿体なくて大事に大事に仕舞い込んだ。けれど、美味しかった、という嘘は吐く前にバレてしまう。
 どうして食べなかったの。ずばり言い当てて、彼女は笑った。いつもと変わらないはずなのに、何故だかほんの少し背中が寒くなる笑み。
 些細な出来事。しかし、重要であることを震える体は知っていた。
「何故誰にも言わなかった」
(だって、確信はなかったから)
「嘘吐け。てめえは、わかってて見てみぬ振りをしたんだ」
(そんなことない)
「なら、どうして避けていた? また毒入りのもんを渡されると思ってなきゃ逃げる必要はねえよな? ……中途半端にビビって見せるから、この女は焦ってこんな真似に出たんだろうが」
 口を覆っていた彼女の手は、今や、首を絞めるのに忙しい。放してほしくて腕に爪を食い込ませるけど、彼女が力を緩めることはなかった。
「苦しいか」
(ううん)
 何故なら、これは夢だからだ。過去の出来事を繰り返しているだけだから。
 目を瞑る。
 記憶通り銃声がして、生暖かい液体が顔の大部分を汚した。倒れ込んできた女の体に押し潰される。
 複数の足音がする。屋敷の警備をしている者たちが駆けつける音。
 誰かが、女の下から引きずり出してくれる。怪我がないことを確かめるため体のあちこちを這いまわる手は動揺しているらしく、ちょっと乱暴だ。
「見ろ」
 笑いの混じった声に促され、そちらに目を向けた。
 ベッドに沈む彼女はまるで眠っているようにも見える。けれど見開かれた瞳に光がないのは明らかで。
「何もなかった振りをしていれば現実もそうなると思ったんだろ? てめえは、この女が殺しを諦めることを期待したんだ。見逃してやるから考え直して、ってな」
 飴玉を父に渡していればこうはならなかった?
 それはどうだろう。ボンゴレの10代目候補に刃を向けて、ただですむとは思えない。
 でも、もしかしたら自由は奪われたとしても、こうして命まで奪われることはなかったかもしれない。
「くだらねえ仏心を出した結果がこれだ」
 まるでお前が殺したのだと言わんばかりの口調に、流石に我慢できなくなって口を開く。
「っ、僕は……!」
 言葉が詰まったのは、不意に右手に重みを感じた所為だ。
「あ……」
 そこに、しっかと握られた拳銃。
 強い目眩がした。真っ直ぐ立っていられないほどの。よろけた拍子に、爪先が何かを蹴飛ばした。
 いつの間にか周囲の景色が変わっていた。懐かしい部屋の中から美しい庭園へと。彼女の遺体も、警備の男たちもいない。代わりに現れた、男の死体。
 足元に転がるそれは、彼女と同じで、真っ暗な目をしていた。
「――僕が」
 唇から零れた言葉が、芝生の上に落ちる。
 右手が重い。拳銃はそれほど大きいものではないのに。ずっしりとのし掛かる重みは、奪った命の重さなのだろうか。
「僕が殺したんだ」
「ああ? 土壇場で怖じ気づいたくせに何言ってやがる」
 そうだ。殺すと決めていたのに、引き金を引くことはできなかった。
 部下なんて名ばかりで、信頼関係など有りはしない。情報を売って金にしていた男。死んで当然のクズ。躊躇う理由なんか一つもなかった。
 けれど、そのときになって唐突に彼女の真っ暗な目を思い出した。そうしたら動けなくなって、銃を奪われそうになって、揉み合いになって……それで。
「たまたま暴発しただけだろうが。てめえの手柄にしてんじゃねえ」
 心底こちらを馬鹿にした嘲笑が辺りに響き渡っても、言い返す言葉が見つからない。黙って立ち竦んでいると、ぴたりと笑い声が止んだ。
「うあっ!」
 髪の毛を掴まれて、無理矢理に顔を上げさせられる。首を絞められていたときには痛みを感じなかったのに、どうしてなのか、今は涙が滲むくらいに痛い。
 おかしいな。これは夢の筈なのに。
 つらつらとそんなことを考えていると、更に強く髪を引っ張られた。
 霞む視界に広がる紅。
「後悔してんのか」

 ばちっと、今度こそ本当に瞼が開く。
 すぐに上体を起き上がらせ周りを見渡すが、広い室内に自分以外の姿はなかった。
 大きな溜め息を吐いて、綱重は顔を覆った。落胆は、彼がここに居ないからではなく、一瞬でも期待してしまった自分があまりに情けなかったから。
「……後悔なんて」
 何を、誰を、犠牲にしたとしても、やり遂げる。今度は、躊躇うことなく引き金だって引いてみせる。そう心に決めた。
 決めたのに。
 あんな夢を見たのは、覚悟が足りていないからだろうか?
 窓の外には夜の闇が広がっている。夜明けにはまだ早いが、再び眠りにつけるとも思えない。
 熱いシャワーが浴びたい。汗と一緒にこの鬱々とした気持ちを流してしまいたい。
 足を床におろしながら枕の下へと伸ばした手は、殆ど無意識に近かった。
 バスルームに持って行く必要のないパスケースは、綱重が肌身離さず持ち歩いているものだ。大切な写真が入っている。いつも、暇さえあれば眺めているそれも、今夜は見るのが辛い。何せ、彼が出てくる夢を見た後だ。
「ん……?」
 ふと微かな違和感。
 今までどれだけ強く願っても彼の夢を見ることはなかった。彼との再会は、夢の中でさえ叶わないのかと、時に泣いてしまうほどに。就寝時、枕の下にパスケースを忍ばせるのも、元々は彼の夢を見たくてはじめたことだ。
「……」
 唇が名前をなぞる。今はどこか届かない場所にいる、彼の名前を。

×

 男の手に二人分のジェラートがあるのを見ても、特別驚きはしなかった。指定された待ち合わせ場所の近くに有名なジェラテリアがあると知っていたからだ。それから、この男が何かと自分に甘いことも。
「ほら、早く食わなきゃ溶けちまうぞ」
 断るのも面倒で、差し出されたスプーンをぱくりと銜えた。

 観光客で賑わう広場。隅にあるベンチに座る二人に、目を向ける者はいない。
 もしかしたら親子に見えるかもしれないと、隣に座る、父親と同年代の男を見やった。甘いものはそれほど好きじゃないはずなのに自らも食べなければ綱重が遠慮すると思ったのか、ジェラートを口に運んでいる。
 こうして暢気にジェラートを食べている姿を見ていると、金さえ積めばどんなものでもどこにでも必ず運んでくれると有名な運び屋には見えない。まあ、人のことは言えないのだけれど。今や暗殺部隊のボスである少年は、受け取った手紙を大切に懐へしまった。
「この俺をただの郵便屋として使うのはお前ぐらいだよ」
 ぐりぐりと頭を撫でられて、曖昧に微笑む。本音を言えば子供扱いはそろそろ止めてもらいたい。が、これまでしてきた無茶な要求の数々を思えば、男にとっての自分が“我儘な子供”であることを認めざるを得ないのだ。
「でな、悪いんだが、返事を送るなら今日中に頼む」
「え?」
「長期休暇をとることにしたんだ。ま、バカンスだな、バカンス」
「バカンス?」
 驚いた。この男が休みをとるなんて、知る限り初めてのことだ。
「なんだよ、その顔は。この歳になると疲れやすくなるんだ。悪いか。休みたいんだよ。最近は変な依頼が多くて特になー……この間なんか、山羊の餌を運べとか言われたんだぜ。断ったけど」
「やぎ」
「そう、山羊だ。ヤツが何を食うか知ってるか」
 男の薄い唇がニィッと弧を描く。悪い顔だなあ、と思いながら、綱重は小さく頷いた。
「メキシコの草だろう」
「なんだ。知ってたのか」
 拍子抜けした様子の男に、ケーブルテレビで見たのだと告げれば、クツクツと笑い声が返ってくる。男の反応に気分を良くして、更に続けた。
「ただ、しっかりと見ていなかったからヤギだったかヒツジだったかよく覚えてなくて。おかげで確信が持てたよ、ありがとう」
「それは良かった」
 再び頭を撫でられる。子供というよりも犬扱いかもしれない。
「父さんにはもう話した?」
「……ん? 誰だって?」
 ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜていた手が動きを止める。口元は笑ったままなのに、目が笑っていない。
 父の話題を出すといつもこうだと綱重は内心で溜息を吐く。父とこの男の関係はよくわからない。こんな風に、父の話をすることすら嫌がるくせに、男が綱重を甘やかして可愛がる理由は、綱重が沢田家光の息子だからだ。
 その辺りに興味がないわけではないが、生憎と今は突っ込んでいる暇はない。これ以上男の機嫌を損なうわけにはいかないのだ。
「僕にだけ話してくれてありがとう」
 とびきりの笑顔で感謝を伝えれば、でれっと目尻が下がる。そのチャンスを綱重は見逃さない。
「でも、そっか。バカンスね。頼みたい仕事があったんだけどな……郵便関係じゃなく、ちゃんとした仕事」
「そうなのか?」
「ん。予定を少しだけずらせる?」
「どれくらいだ」
「明日かもしれないし、一週間後かもしれない。十日はかからないと思うんだけど」
 不安そうな顔で、無理かな、と思ってもいないことを尋ねる。
 男は今すぐにでもイタリアを出ていきたいはずだ。“変な依頼”を断った代償は大きい。早くどこかに身を隠すのが賢明だ。
 それでも、だめ押しとばかりに、
「この依頼を受けてくれたら、お詫びに、出来るだけ早くそっちの問題を片付けるよ。休みすぎて体がなまったら困るだろうから」
 そう言えば。
「……ったく、仕方ねえ」
 予想通りの返答を受け取り、我儘な子供はニッコリ微笑む。


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