27

 ベッドに寝転がったまま溜息を吐いた。昼に一度睡眠をとったとはいえ体は疲れきっている。だが、どうにもこうにも寝付けそうになかった。休めるときに休んでおかなければならないのに。
 静かな部屋に一人きりでいると、当然のように、意識は自分自身へと向かった。
 呼吸の音や胸の鼓動が耳障りで、煩わしくて仕方がない。止めるわけにいかないから気にしないよう努めるものの上手くいくはずもなくて。それから、ズキズキと痛み続けるこめかみだとか、手を押し当てた額が熱を持っていることとか、自覚すると余計に酷くなる類いのものにも気づいてしまう。
 白蘭という男の言う通りだ。この体は、いつも、こうして逃げ道を作ろうとする。
 何十回目の寝返りをうったとき、扉の向こうに気配を感じて飛び起きた。
 了承を得ることもせず扉が開く。綱重が起きていることはわかっていたのだろう。また“彼”がノックなどするはずがなかった。
 彼、ザンザスが入ってくると同時に甘い匂いが鼻をくすぐり、綱重は首を傾げた。

 カップを両手で包むようにして持ちながら、呟く。
「こういうの飲むの久しぶりだ」
 ハッ、とザンザスが馬鹿にしたように笑った。
「寒くなると必ず飲むだろうが」
 生クリームがたっぷり乗ったチョコラータ・カルダ。所謂、ホットチョコレートだ。ザンザスの言う通りこれは綱重の大好物である。しかし、10代目になると決めた日からもうずっと口にしていないものでもあった。チョコレートも生クリームも、マフィアのボスになる人間には相応しくないと思ったのだ。だから、ごく最近のことのように指摘するザンザスの口振りはおかしい。
 少し考えて、ある事実に思い当たった。
 自分はもう10代目候補ではないのだから何も我慢する必要はないのだ――、と。
 今までどうして気付かなかったのか。そして、未来の自分はザンザスと過ごす何度目の冬にこのことに気がついたのだろう。綱重にとって未来にあるはずの出来事が今ザンザスの中に存在している。綱重の知らない、ザンザスと“綱重”の思い出だ。
「いらねえのか」
 言葉に顔を上げる。生クリームが溶けかけていた。慌てて、下のチョコレートと一緒にスプーンで掬って口の中へと運んだ綱重は、僅かに目を見開いた。
 これを作ったのはルッスーリアだろうか? 子供のとき食べたものと味が違う。まずいわけじゃない。その反対だった。
 濃厚なチョコレートの上に盛られた生クリームは普通よりも量が多めで、とても甘い。大抵の人間が甘過ぎると眉を顰めそうだったが、綱重の好みには合っていた。温かいチョコレートと冷たい生クリームを混ぜ合わせても両者が喧嘩することはなく、一層美味しく味わえる。
 偶然ではないはずだ。これはまさに綱重の為に用意された物なのだ。
 温かいチョコレートが通過したばかりの喉がぶるりと震える。
 ――こんなの別に大したことじゃない。
 心の中で呟いて、カップの残りを一気に掻きこんだ。
 与えられることには慣れていた。命を狙われたり学校に通えなかったりといった不自由はあっても、それらを補って余りある豪奢な生活を送ってきた。
 ザンザスのように、出された料理が気に入らないからといって皿を投げたりはしないが、自分より一回りも二回りも年上の人間を傅かせることには何の抵抗もない。子供の頃から、誰かが自分のために動くのを当然のように受け入れてきたし、今もそうだ。弟が後継者に指名されてからも、争奪戦のあと軟禁状態にあっても、周囲に守られ尽くされる状況は変わらなかったのだから。
 ヴァリアーの幹部たちに世話を焼かれるのも、これが初めてというわけじゃない。ザンザスが深い眠りについている間、綱重がヴァリアーのボスであったとき、彼らは部下としてきちんと――自由を奪われながらもザンザスの帰りを待ち望んでいた彼らの状況を思えば、嫌でもそうせざるを得なかっただけだろうが――仕えてくれていた。
 こんなもの、心動かされる何かではない。大したことじゃない。心の中で何度も繰り返した。そうしている時点で、とっくに動揺を自覚しているのに。
 そもそもザンザスが何かを持ってきてくれるなんて、空から槍が降ってくるのを真面目に心配しなくちゃいけないほどの事態だ。色々有りすぎて深くは考えなかったけれど、昼間から何度も同じような異常事態は起こっている。着替えを用意して、浴槽に沈む体を引き上げてくれた。城内の傷跡を、死体を、見せないようにしてくれた。
「……」
 じわりと目頭が熱くなるのを感じて瞼を下ろした。
 事実から目を背け続けるにも限界があって、そして涙を堪えた分、別の場所が決壊するのは当然だった。
 綱重は観念し、溢れだしたそれをようやく認める。
 十年後の彼らが、よく知っている彼ら以上に、安心や喜びといったものを与えてくれること。
 彼らの何気ない言動から自分の知らない己の軌跡を見つけて、戸惑ったり、庇護されることに苛立ちを覚えつつも、心のどこかでは嬉しいと感じていること。
 隣にいるザンザスは自分が求めているザンザスとは違う、そう思っているくせに、居心地の良さに負けそうになっていること。
 出来れば認めたくなかった。どれだけ与えてもらっても、綱重が彼らに応えられることは何もないとわかっていたから。これ以上自分の無力さを思い知りたくなかった。匣兵器を使いこなせなかった。それだけでもう、充分だ。
 せめて何か少しでも返せたら。そんな思いから、指先が白くなるまで握っていたカップをテーブルに置き、その横に懐から取り出した匣を並べた。柊が装飾された匣だ。
「これ、ザンザスなら使えるんでしょう」
 白いライオンが纏っていた炎の色は橙。トナカイが灯す炎と同じだった。
「何度も言わせんな。これはテメーのもんだ」
「十年後の、だろ。僕じゃない」
 大空の匣兵器はレアだと言っていた。だったら上手く使えない自分が持っているよりもザンザスが持っている方がいい。
 思った瞬間、カタカタと匣が揺れ出した。何かを訴えるようなそれにザンザスが言葉を重ねる。
「そいつは俺の命令を聞かねえ」
「っ、僕の言うことだって聞かなかった! ……僕が本当の主人じゃないとわかってるんだ」
 綱重の言葉に答えることなくザンザスは立ち上がった。匣には触れる素振りも見せず、カップだけを持って。
「もう寝ろ」
 そう言って去ろうとする男の袖を掴む。
 無意識だった。匣兵器をその手に握らせようなんて意図はなく、ただ単純に、まだ行って欲しくなかった。
 思いがけない己の行動に驚いているうち、隣に戻る気配。テーブルの上に戻される空のカップ。何でもない気にしないでとは今更言えなくなった。
「…………奴等のことは知らねえが」
 ――やつら?
 単語が指し示す者たちの見当もつかなければ、ザンザスが何について話し出したのかもわからない。
 困惑する綱重の頬に触れる手。羽根で撫でられているかのように優しく、親指が肌の上を滑っていく。
 綱重は息を呑んで目の前の男を見つめた。彼もこちらを見ている。紅と琥珀が、互いの色だけを映し合っている。
 ザンザスは続けた。
「お前だけは、俺が、必ず過去に戻す。……いいな?」
 文節を区切りながら、はっきり発せられた力強い言葉は、実にザンザスらしい。なのに、最後に付け足された言葉だけがどうしようもなく浮いていた。
 意見を聞くなんて。
 二度ほど大きく瞬きした後、綱重の瞳からは涙が零れだした。
 ザンザスが眉を寄せる。怒っているように見えるが、驚いているのだと綱重にはわかる。
「ごめん」
 感情を抑えた所為で平坦な声になった。
「十年も経てば色々変わるんだなって思ったら、なんか……」
 袖口で乱暴に涙を拭うけれど、すぐに腕を掴まれ止められた。溢れそうで溢れないまま下瞼のきわに留まる涙の所為で、目に映る真紅がぼんやりと、しかしキラキラと輝く。宝石みたいだ。見惚れる間もなく、頬に触れたままだった手が下りてきて、顎のラインに添えられる。
「変わらねえもんもある」
 元より視界を占領していた紅い瞳が一層大きく目の前に広がっていく。
 ――だめだ。
 はっきりとそう思った。
 近付いてくる顔を押し退けるように突き出した手は、先程ザンザスを引き留めた無意識のそれとは明らかに違っていた。意思を持って、寄せられる唇を拒んだ。
 ザンザスの眉間にきつく刻まれた皺を見て、綱重は身を竦めた。今度のそこには、驚きだけじゃなく、見たままの苛立ちが現れていたからだ。
「……ザンザス……」
 違うんだ。首を横に振る。嫌だったわけじゃない。僕はただ。
 弁明の言葉は上手く発せられなかった。口が動かなかった。口だけじゃない、体から力が抜けて、ぐんにゃりとソファーに沈みこむ。強烈な眠気に襲われていた。
「ど、して……?」
 視界が狭まる。上と下の瞼に強力な磁石が取り付けられているみたいだった。
 抗いきれない欲求に白旗をあげる直前、テーブルの上のカップが目に入り、綱重は全てを悟った。


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