19

 連れていかれたのはバスルームだった。綱重の意思などまったくお構いなしである。文句を言おうと振り返るものの、すでに扉は閉められていた。
 一人きりの空間で、綱重は自身の肩口に鼻を寄せた。……汗くさい。十年後の世界にきてから飛んだり走ったり忙しかったのだから、当然だった。
 眉を寄せたまま己の体を見下ろした綱重は、より一層、顔を顰めなければならなかった。裾どころか全体に泥が跳ねたジーンズ。両袖が裂けて血に染まっているシャツ。今まで気づかなかったが酷い有り様だ。
 これでは仕方がない。ザンザスの判断は正しいし、彼が不快に感じるのも納得だ。綱重だって、もしこんな格好の男が側にいたら即座に風呂を勧めただろうと思う。無論、もう少し穏やかに、だが。
 剣と銃、それからナイフなど持っている武器を全て置き、服を脱ぎ捨てる。シャワーを浴びるだけで良い、綱重はそう考えていたが、浴室内に足を踏み入れると同時にそれは掻き消えた。琥珀色の瞳が見つめる先には、日本式の深い湯船が設置されていた。

 マフィアには何故か日本好きが多い。これもその恩恵の一つだ。もしかしたら、“10代目ボンゴレ”の指示なのかもしれないが。
 肩まで湯に浸かりながら綱重は深く息を吐いた。
 風呂から出たら、現在のボンゴレについて聞かなければならない。何故、自分や弟たちが十年後に連れてこられなければならなかったのか。あの男――白蘭の話はどこまでが正しいのか。ザンザスをはじめとするヴァリアーの幹部たちは無事でいてくれた。だが、ボンゴレの被害状況となると、本部がこの状態では察してしかるべきなのかもしれない。漏れる溜め息を無理矢理押し留め、綱重は、それに、と、このままではどこまでも沈んでいきそうな思考を無理矢理切り替えた。
 匣兵器。あれに、非常に興味をそそられている。指輪から発せられる炎は、ザンザスや綱重が出せる生まれついての炎とは少し違うようだ。ルッスーリアは使える人間は限られていると言っていた。
 ――自分にも扱えるだろうか。
 微かな期待が胸をよぎった。十年後の世界にきてから初めて、綱重の中で生まれた希望の感情だった。
 もしも扱えたならば、これ以上情けないところを見せずにすむかもしれない。上手くすればザンザスの役にも立てるかもしれない。それは綱重にとって、何よりも喜ばしいことだ。ここが十年後だろうが関係ない。八年以上前から綱重の望みはただ一つ変わらないのだから。
 ザンザスの益。いつも、ひたすらに、それだけを望んでいる。
「……」
 唇が音もなく彼の名をなぞり、指先は首筋をなぞっていた。そこに残る紅い跡を確かめるために。もちろん触れた感覚など何もない。それでも触れずにはいられなかった。
 湯船に浸かる前、体を洗いながら見つけた小さな印は、綱重の心臓を跳ね上げさせるのに十分な効力を持っていた。目にしただけだというのに、ザンザスの唇が落とされたあの瞬間と同じくらい、胸が高鳴るのを感じた。……あのとき、いきなりの口付けに面食らったものの、行為自体はけして嫌ではなかった。そして今は、この跡がずっと消えなければいいのにと思っている。このたった一つの小さな痣が、十年後も綱重たちの関係が続いているという証明だからだ。
 無性に叫びたくなって、衝動を抑え込もうと綱重は湯船に沈みこんだ。湯がぬるいと感じるのは、それだけ顔や体が熱くなっているからだろう。恥ずかしいのか、嬉しいのか。綱重は自分の気持ちを上手く言い表すことができなかった。ただ、息が苦しくなるまで沈んでいれば、胸の内側で跳ね回っているこの想いも少しは落ち着くような気がした。今のままではとてもじゃないがザンザスと顔を合わせることは出来ないだろう。視線を交わしただけでその場から逃げ出したくなるに違いない。
 まだ苦しくない……もう少し……あと二十秒はいける……。
 綱重の挑戦は、彼の肺が悲鳴をあげる前に終わった。腕を掴まれて、引き上げられた。
「声をかけても返事しねえから見てみれば、まさか風呂で溺れてやがるとはな」
「っ、お、溺れてたわけじゃ、」
 カアッと顔に熱がこもる。顔を合わせる準備はまだ整っていない。
 しかし、溺れていたのでなければ何だ、と問いかけてくる紅い瞳の鋭さは、口を噤むことを許さなかった。
「…………どれぐらい息を止めていられるかなって……」
 自分でもくだらないと思う内容を堂々と口にできる人間はいない。俯き、湯船の中で膝を抱え、口内でモゴモゴと言葉を転がした。
「……」
「……」
 数秒待っても何の反応も返ってこなかったので――特に何を言ってもらいたいわけでもなかったが――不安になって顔を上げる。不明瞭な説明が聞き取れなかったのか、理解した上で呆れているのか、どちらともつかない表情をザンザスは浮かべていた。
「……もう出ろ。のぼせる」
 湯の中からちょこんと覗く膝に視線を戻し、綱重は首を横に振る。
「もうちょっと温まってから」
 何も言わずに踵を返したザンザスを綱重は横目で見送った。
 シャツの右袖、肘から下の部分の色が変わっている。綱重が沈んでいるのを見て、慌てて、濡れるのも構わず引き上げてくれたのだろう。
「…………」
 扉が閉まる音がする。待っていたかのように金色の頭は湯船の中へと戻っていった。
 綱重が風呂から上がるにはもう暫く時間がかかりそうだった。


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