08

 大きな水槽が目について、ああ、これに浸けられていたのかとぼんやり考える。今まで生きてきた中で、一番最悪の目覚めだった。ちょうど薬が切れかかっていたようだが、そうでなければ溺死させられていたかもしれない。
 体を起き上がらせようとするが、床についた腕は力をいれた途端にがくりと崩れ落ちた。
「暫くの間、ベッドの上から一歩も動いていないんだ。すぐには動けないよ」
 片頬を床に押し付けたまま眼球だけを動かして、声のした方向を見やる。白い髪の男が笑っていた。薬の切れ間に何度か見た顔だ。それ以前にも写真でなら見たことがある。
 男の手が伸びてくる。手を貸そうとしているのだとわかったが、触れる直前に自由のきかない体を無理矢理に起こして逃れた。たったそれだけの動きで息が上がり、床に手をついてようやく座った体勢を維持できる有り様だ。
「大丈夫かい?」
 緩く首を横に振る。
「……お陰様で、子供のとき海で溺れたことを思い出したよ」
 それは悪いことをしたと男が笑う。
「白蘭」
 口にした名前が、目の前の男のそれであることを確認するため、相手の表情を窺う。ニッコリ。そんな擬音が相応しい、完璧な微笑みを男は返してきた。
 間違いない。彼がミルフィオーレファミリーのボス、白蘭だ。
「……何故、僕なんだ?」
 言葉遊びをする余裕はまだなかった。浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「僕なんかを連れ去った理由はなんだ?」
「噂通り、自己評価が低いね。綱重クン」
 白蘭の唇がニィッと引き上がる。
「……自惚れているよりかはいいだろう」
 ふと、濡れた髪から滴が零れ落ちそうなのに気付いて、思わず目で追った。決して向けられる笑みから逃げたかったわけじゃない。
「君自身に力は無くとも、君は“力のある人間”にとって大切な存在だ。その価値は自覚するべきだと思うけど?」
 髪の先からゆっくりと落下した水滴は薄い水色の布地にあっという間に吸い込まれていった。病院でよく見る検査着のような、薄手の服だ。膝上までしかない裾から伸びる足は、確か怪我をしていた筈だが、少しの傷跡も残っていない。しかし、自分のものとは思えないほど細く衰えており、これでは立ち上がるのすら難しいだろうと思う。
「さっき綱吉クンと話をしたんだけど、君が僕のところにいると知って、とても動揺していたよ。兄想いの優しい弟だ」
 目の前の男に視線を戻す。出された弟の名に反応したと思ったのだろう、どこか満足げな色をした瞳を見返して、綱重は小さく息を吐いた。
「あれから何日が経った?」
「んー、君がボンゴレの本部で戦ってた日から数えると……」
 衰えた筋肉から推測はしていたが実際に数字として出されると、衝撃は大きかった。敵に囚われてもう一月近くが経過しているという事実は綱重の心にずしりと重くのしかかる。
「戦況を知りたい?」
 向こうからわざわざ話を振ってくるということは、それだけでもうこれから口にする内容を説明しているようなものだ。今の自分と同じく、ボンゴレの置かれた状況は良くないらしい。
 分かっていても、聞きたくなくとも、しかし綱重は聞かなければならなかった。
「変わらず、ボンゴレの劣勢さ。一部の同盟ファミリーと一緒に何とか持ちこたえているけれどね。9代目と10代目が殺られた時点で諦めればいいのに、よっぽど無駄な血を流すのが好きなんだね」
 全て予想していたことだけに動揺は少ない。眉一つ動かさず言葉を受け止めたが、中に引っかかる言葉があった。
「先程、綱吉と話をしたと言わなかったか?」
 気付いた矛盾をつくが、白蘭は何でもないことのように答える。
「綱吉クンは綱吉クンでも十年前の彼でね」
「……何?」
「十年バズーカって知ってるでしょ?」
 ミルフィオーレは、本来なら五分で元に戻ってしまう体を留めさせる装置を開発したそうだ。そして、弟とその守護者たちを十年前の彼らと入れ替えたと白蘭は話す。何故わざわざそんなことを、と尋ねようとして、口を開く直前に綱重は気が付いた。
 十年前にあって今はない物。白蘭に子供を惨殺する嗜好でもない限り、理由は一つだ。
「ボンゴレリングか」
 呟きの苦々しさを白蘭は聞き逃しはしなかった。
「そういえば綱重クンが真っ先にリングの破棄を進言したらしいね。君の推すザンザスくんには必要のない物だし、この機会に無くなればいいと思ったのかな? ごめんね。全部無駄になっちゃって」
 揶揄するような口調に眉を顰める。9代目や弟の死を伝えられたときには抑えきった感情を露にしたのは、つい気を抜いたからではない。
 確かに、その考えは綱重の頭にあった。それも弟にリングを破棄するべきだと話したときだけでなく、そのずっと前から考えていたことだ。ボンゴレのボスに“血”が必要なのは、代々受け継がれてきたリングが理由だから。リングさえなければ、実力で選ぶならば、ボスに相応しいのは――。
「それから、実に言いにくいんだけどね」
 ハッと目の前の男に意識を戻す。見れば、申し訳なさそうに歪んだ顔の中で、唯一男の本当の感情を表している笑んだ双眸が綱重を見つめていた。反応を窺うかのように、じっと。
「――残念だけど、そのザンザスくんももうこの世には居ないんだ」
「嘘だな」
 言葉に被さるようにして、否定する。
「嘘じゃないよ」
「いや、嘘だ」
「超直感でわかるって? でも、嘘だと思いたい気持ちがそう思わせているだけじゃないのかな」
「超直感がなくても解る」
 綱重は白蘭をギッと睨み上げた。
「それだけは、絶対に、有り得ないからだ」
 言葉を区切り強調する。
 感情を抑えるなんて不可能だった。声に、瞳に、怒りの感情がこもるのを止められない。ボンゴレを貶されるのは我慢できる。己のことも。家族や、仲間のことも。だが、彼を馬鹿にすることだけは絶対に許せないし、許さない。
 いいか、と人差し指を向けて忠告する。
「今度くだらない言葉を吐いてみろ。その時は、」
「殺す?」
 笑い混じりの問いに大きく首を横に振る。
「舌を噛みきって死んでやる」
 一瞬の間のあと、ハハハッと高らかな笑い声が室内に響いた。
「確かに自惚れた言動はみっともないね。今の自分の立場が解ってる? 僕は別に君が死んだって何も困らない」
 せせら笑いはすぐに消えた。大きく開かれた口に、見せつけるように伸ばされた舌、覚悟を決めギラリと輝く琥珀色の瞳。上下の歯列に舌が挟みこまれる直前に、白蘭の手が綱重の顎を掴む。
「命を粗末にしたらだめだよ」
「それをお前が言うか?」
 二人の視線が交錯する。折れたのは白蘭の方だった。
「わかった、撤回する」
 綱重の前に膝をつき、白蘭は神妙な顔で、まだ君に死なれたくないと言った。わざわざ連れてきた意味がなくなるから、と。
「……それで、他に聞きたいことはあるかい? 今なら正直に答えてあげるけど」
 今日初めて握る主導権を噛み締めるように、綱重は大きく瞬きをする。そして白蘭の顔を見据え、ゆっくりと口を開いた。
「二ヶ月――いや、もう三ヶ月前になるのか――家に、花が届いた。送り主はお前か?」
 それは白蘭にとって意外な質問だったようだ。目を丸くした彼は、しかしすぐに笑みの形に戻し、頷いた。
「うん。受け取り拒否されて結構傷ついたんだよ。花は嫌い?」
「差出人が誰かも解らないのに受け取るわけがないだろう」
「“白蘭より”って書いたカードをつけたら受け取ってくれた?」
「冗談」
 馬鹿にした笑いを浮かべる綱重。あまり性質の良いものではなかったが、目を醒ましてから初めて浮かべた笑みだった。同時に、白蘭に向ける初めての笑顔でもある。そう指摘して、綱重の顔を顰めさせた白蘭は肩を竦めながら尋ねた。
「僕が君に送った花が何か、覚えてる?」
「……薔薇、だったか」
「ああ、それも白い薔薇だ。白薔薇の花言葉を?」
 横に振られた首に白蘭は微笑む。無知を揶揄する笑みではなく慈しむようなそれだった。だからか、挟み込むように、白蘭の手が頬に添えられても綱重は何も言わなかった。代わりに、小さい子供が内緒話を持ちかけるような、笑いの混じった声が綱重に囁く。
「教えてあげる」

 綱重には、選択肢があった。嫌なら嫌と言うこともできたのだ。拒否しても白蘭は怒らないしあっさり身を翻すだろうと綱重は理解していた。
 そして白蘭は、そんな綱重に選択の時間を与えるかの如くゆっくりと顔を近づけていく。だが白蘭は、綱重が全て受け入れると確信していたので、実際には逆に綱重を言い訳のきかない状況へと追い詰めたかっただけだ。
「――“僕は君に相応しい”、だよ」
 言葉が落とされるのと同時に二人の唇が重なった。


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