もしもあのとき助けなかったら
夜の闇に支配された大海原を一艘の小型船が進んでいた。ライトも点けず、エンジンが悲鳴をあげるほどの全速力で走行するそれの乗客が、正規の渡航者であるはずがない。
彼らは刑務所を脱獄してきたばかりの犯罪者集団だった。
クフフ、と笑みを零したのは、船の中央に腰かける少年だ。船を操縦している人影に向かい、親しげな様子で話しかける。
「来てくれるとは思いませんでした」
「白々しい。毎晩毎晩夢に出てきて、ああしろこうしろって煩かったくせに」
「てんめー! 偉そうにするなびょんっ。骸さんに助けてもらったこと忘れたのか!」
顔に傷のある少年に怒鳴られて、青年――といっても、少年たちと然程変わらない年齢だ――は眉を顰めた。
「助けてほしいなんて言ってない」
微かに開いた唇が漏らした小さな呟き。発した本人にしか届かないはずのそれを拾い、少年の耳が動物のようにぴくりと動く。
「なんらとぉっ!」
「やめなさい、犬」
いきり立つ“犬”を“骸”が止める。
青年は大仰な溜め息を吐いてから、少年たちに言葉を投げた。
「今夜、借りは返した。もう僕に関わるな」
全てを突き放すような冷たい声音。しかし骸に怯んだ様子はない。
「次はボンゴレを狙う予定です」
頑なに前方だけを見つめていた青年が振り返った。驚きに見開かれた琥珀色の瞳に、骸は満足げに頷く。
「一緒に来ますか?」
「骸ちゃんったら。人手が要るなら私を誘えばいいじゃない」
「ええ。必要なときには勿論連絡しますよ、M.M」
自身の横に座る女へ微笑む骸を、未だ動揺の残る眼差しで青年は見つめる。
「……僕はお前たちと違ってマフィア全体を憎んでるわけじゃない」
「“憎むべきマフィア”はボンゴレではないのですか?」
口を噤む相手に畳み掛けるように続ける。
「ああ、父親ですか。確かに君を見捨てたのはボンゴレというよりも、」
「父さんは僕を見捨ててなんかいない!」
荒らげた声に一番驚いたのは発した本人のようだ。気まずそうに口を押さえたあと、無理矢理に感情を殺した声が続けた。
「父さんは僕が死んだと思ってるんだ」
「それなら生きていることを知らせてあげればいい。何故会いに行かないんです」
ギロリと骸を睨みつける琥珀色の瞳には明らかな敵意と殺意が浮かんでいた。犬と、帽子を被った眼鏡の少年――千種が、骸を庇うように二人の間に立ちはだかる。
会いに行けるわけがない。
殺されたというのは偽装で、実はペドフィリアの殺し屋に気に入られて、何年も何年も地下で暮らしてきたと、話せるとでも?
マフィアを憎悪し、これまで何百人とその手にかけてきた少年たちに助けられるまで(成長した体に興味を失った殺し屋が、僕を“貸し出した”マフィア。そいつがたまたま骸たちの標的だったというだけだ。骸に助ける意思はなかった。僕も助けを求めた覚えはない)僕がどんな風に生きてきたのかを父に知らせろと?
「本当は、父親に受け入れてもらえないと気がついているのでしょう」
「いいや。父さんは僕が生きていると知ったら喜んでくれる」
もちろん母さんもそうだ。それからあの小さかった弟も、きっと僕のことを覚えてくれているはず。だって僕はお兄ちゃんだ。『ツっくん』のお兄ちゃんなんだ。
家族からの拒絶が怖いんじゃない。怖いのはただ一つ、自分が壊れてしまうことだけ。
ずっと縋りついていた幸せな記憶に、今の僕は存在できないとわかっている。冷やされたガラスを急激に温めたら砕け散ってしまうように、僕は、きっと死んでしまうだろうと思う。
「喜ぶというのなら何故、君の父親は君を探すのをやめたんでしょうね。敵対ファミリーが雇ったとされる殺し屋がいくら超一流でも、君そっくりの少年の遺体写真が出てきても、必死で探し続けているはずでは?」
「ッ父さんは騙されたんだ! あいつが……っ」
あいつが、嘘をついたに違いない。僕が殺されたところを見たと父さんに嘘を言ったんだ。
浚われたあの日あの瞬間、口を塞がれて体を押さえつけられている自分を、見ていた人間がいる。
彼の名前はもう覚えていない。ただあの瞳だけが、燃えるような紅だけが、瞼の裏に焼きついて離れない。
助けて、と口で言えない代わりに視線で訴えた僕。見間違いだったのだろうが、そのときは確かに彼が小さく頷いたように思えた。だから猿轡をされて車のトランクに押し込められたときも、心の中で何度も繰り返していた。大丈夫、助けに来てくれる。あの紅い瞳を思い浮かべながら何度も何度も何度も僕は、
「……初めて会ったときに言った言葉を覚えていますか」
声が近い。青年はそこでようやく、自身の目前に骸が立っていることに気がついた。
「僕ならあなたの“居場所”になれる。今でもそれは変わりませんよ」
「お前は僕の“体”が欲しいだけだろう」
握手を求める手を叩き落とした青年の手のひらには、炎が灯っていた。
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まさかの骸さんルート(笑)
と見せかけて、
「お前の所為で、僕は……っ」
「俺の所為だと?」
ハッと嘲笑い、ザンザスはその手に力を込める。後ろ手に掴まれた腕を強く捻りあげられて、青年の口からは苦悶の声が漏れる。
「恨むならテメーの弱さを恨め、ドカスが」
「ふざけるな!」
首だけで後ろを振り返り、強く睨みつければ、紅い瞳が僅かに細められた。
「……そんなに不幸自慢がしたいならどうやって生き延びたか話してみろよ」
耳元でそう囁かれ、青年は、体がカッと熱くなるのを感じた。
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殺伐萌えになったらいい