舐めれば良いって訳じゃない


”いおりんごめん!
補習がちょっと長引きそうだから先に駅に行って時間つぶしてて!!”

 そんなメッセージを確認したのは昇降口を少し出たところの日陰だった。
 数日前に行った中間テストの結果が分かったのはつい昨日のこと。この辺の高校の中ではそこそこ偏差値の高い私たちの学校では、赤点ではなくとも平均点よりも下であれば補習を受けなければならない。幸いにも、黒崎君と一緒に勉強したおかげか、私の場合は英語も含めて平均点を下回った教科は無かった。だから土曜日である今日の午前の部活にも出られたけど、結希はいくつか点数を落としてしまったらしい。今日の部活終わりにでも中間テストが終わったからどこかへ行こうという話だったが、”補習お疲れ様”という意味も含めて出かけることになりそうだ。
 ”了解”、と。
 結希からのメッセージにポチポチと返信を打ち込み送信する。さて、じゃあゆっくりめに駅まで行こうかな。

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あともう少しなんだけど。

そう考えながら目の前に広がる緑へ、そしてそれに埋もれながらも小さく顔を覗かせる赤色を見やった。

 駅へ向かう途中の公園で子供たちが困っている様子が見えたのが事の始まり。
 話を聞いてみると子供たちが遊んでいたボールが木の枝に引っかかってしまったようだった。その木は誰かの家の庭にあったからそのままその家の人へ事情を話し、脚立もお借りしてボールを取ろうとしているんだけど……。
 思ったよりも取りづらい場所にあって苦戦してしまっている。がさがさと枝や葉をなるべく優しく掻き分け、なんとかボールを取れそうなルートを見つけた。
 よし、これなら大丈夫そうだ、とゆっくりボールへ手を伸ばした時。不意に子供達とは別の誰かに声をかけられる。

「何してるの?岬さん」

「んー、ボール取ってる」

 とりあえず返事はしたものの、集中していたせいで雑な返しになってしまった。
 聞き覚えのある声だな、と頭の隅で思いながらも手は止めずにいると、

「いや、そうじゃなくて!なんでそんな危なそうなことをしてるのかって聞いてるの!」

「っ!、……と。え、黒崎君?」

 自分の指先がボールに届いた所で荒げた声を上げられる。驚いた拍子に脚立が揺れたが、なんとか左手と両足を踏ん張り体勢を整えた。
 脚立から落ちないようにゆっくりと振り返ると、そこには困惑した表情でこちらを見てくる黒崎君の姿がある。

「えぇ、と。もう少しで取れそうだし、取れたら説明するからちょっと待ってて」

「ええ…」

 手をひらりと軽く振ってそう返事をした。下から少し不満げな声が聞こえたけど、今は目の前のボールに集中しよう。

「よい、しょ!」

 そうして木の枝に引っ掛かっているボールをやっと取ることができた。下にいる子供たちのほうへ声をかけて、ボールを出来るだけ優しく落とすと子供たちからお礼を言われる。

「ありがと姉ちゃん!」

「ありがとー!!またねー!」

「またねー。次からは気を付けるんだよー」

 元気良く走り去ってく子供たちの姿を見送った後で、脚立からゆっくりと降りる。脚立って側から見ればしっかり立っているように見えるけど、乗り降りする時も意外と揺れるから怖いな。そう思いながらやっと地面へと両足を着ければ、ふぅ、と安堵の息が漏れた。
 家の人へとお礼を言って脚立をお返しし、黒崎君が待っているであろう公園へと戻る。
 えーと黒崎君は……、あぁいた。

「お待たせ。それでボールを取ってた理由だっけ?」

「いや、いいよ。さっきの子達から話は聞いたし」

 なるほど、ボールを返す時に子供達と黒崎君が何か話していたのはそれか。コミュニケーション能力が高いというか分け隔てないというか。話が早くて助かるけれど、つくづくそう思う。
 次いで、「高校生にもなって木登りをしてる女の子は初めて見たよ」と呆れた口調で言いつつ、私の頭に付いていたであろう葉っぱや木の屑をほろってくれる。

「はい、これで綺麗になった。まったく、困ってた子達のためとは言え、ああいう無茶はしない方がいいよ。怪我してからじゃ遅いんだからさ」

「あ、りがとう」

 一連のスマートな対応から、ああこれかと妙に納得した。黒崎君が、クラスとか学年とか関係なく、女の子達に黄色い声を出されながら追い回されている理由。
 特に気兼ねすることもなく私の頭に付いた汚れをほろい、その綺麗な顔で苦笑いながらも優しい笑みを浮かべて私の心配をしてくれる。
 これには流石に私も心臓が跳ねてしまった。むしろこんなのに慣れている人なんていないでしょ。動揺しない方がおかしい。

 ただ、心配してくれるのはありがたいし、迷惑だった訳では決してないんだけど。
 どうにも黒崎君のこの一連の動作が手慣れすぎているように感じて、ああ、だから学校であんな苦労をする羽目になっているんだな。自業自得じゃないか?と軽く眉間に皺を寄せながら思ってしまった。

 何故か眉根を寄せて無言で見つめられてしまっている状況に、当たり前だけど疑問を持ったらしい黒崎君から「どうしたの?」と聞かれたため、「何でもない……」と小さく溜め息をつきながら答えた。
 黒崎君は私の返答が腑に落ちないらしくキョトンとした様子をしていたけれど、不意に視線を下に落とすと「あっ」と声をあげた。

「岬さん、右手!怪我してる!」

「え」

 右手を顔の前に持ち上げてみると確かに擦り傷が出来ていた。傷の所々から出てきた血が小さく玉を作っている。認識してしまえば途端にヒリヒリとした痛みが手の甲で主張し出し、思わずまた眉をしかめてしまった。

「本当だ。さっき切れちゃったみたい」

「他人事みたいに言ってるけど、まぁまぁ深く切れてるからね!?早く手当てしないと!」

「そうだけど、大袈裟じゃない?」

「だって傷が残ったりしたら大変でしょ?女の子なんだから」

「特に気にしないけど」

「オレは気にするの!」

 もー、と続けながら黒崎君が自分の鞄を漁る。私も言い合いながらティッシュとか絆創膏とか、何かないかと探してみたけれど。忘れてきてしまったようで、ポケットにも鞄にも入っていない。

「うーん、無いなぁ」

「オレも……」

「そっか、まぁ家に帰ってから手当てしても大丈夫だと思うし」

「それはっ、」

 不自然に何か言いかけた黒崎君の言葉は続かなかった。そして難しそうな顔をしながら何か考えているようで、ほんの少しの間の沈黙が流れる。そして不意に、黒崎君が動いた。

「……先に謝っておくね」

 ごめんね、と続ける黒崎君は、私の右手を掴んで自身の口許へと引き寄せていた。突然の出来事に声が若干裏返りながらもなんとか疑問を口に出す。けれどそれはすぐに遮られてしまった。

「く、黒崎君?なにす」

「そのまま動かないで」

「えっなんで、……っ!?」

 ぬるり、と湿った感触が自分の右手の甲から伝わってくる。腕から背筋へ一瞬でぞわっとした感覚が駆けた。
 きず、舐められてる。
 一拍置いてそう理解した途端に頬に熱がのぼり、心臓が早鐘を打つ。動くなと先程言われたことも忘れて自分の右手を引っ込めようとぐいぐいと引いたが。意外にも細めのその腕のどこから力が出ているのかと言うくらいびくともしない。なんなら少し強く握り直されたくらいだ。
 そうして数十秒くらい経った後でようやく右手が解放される。

「……さっきも言ったけど、いきなりごめんね。
でも、これで大丈夫だから。
女の子なんだから、こういうのは本当に気を付けるんだよ」

 ね、と念押ししながら苦笑いする黒崎君の表情は、教室でよく見かけるそれだった。その笑顔に気圧され、逆に冷静になる。そうして、「……はい」と返事を絞り出せば黒崎君は満足したようにうんうんと頷いた。

「それじゃあ駅向かおっか」

「……そう、だね。行こうか、っあ」

「なに?どうしたの?」

「駅に行けばコンビニとか薬局とか、あったな、って」

「あ……」

 自分で言いながら呆れてしまった。さっきの出来事は一体なんだったんだろう。一瞬気まずい空気が流れかけたものの、それを破るのはやっぱり黒崎君だった。

「ま、まぁまぁ!さっきのって応急処置みたいなもの、だし!?コンビニ行って絆創膏買おうよ!ね!?」

「っ、ふ」

「岬さん!?」

「あぁ、いや。うん、そうしよっか。コンビニ行こ」

 さっきまでは呆れてしまっていたのに。黒崎君の慌てようを見たら思わず吹き出してしまった。
 そのあとは他愛ない雑談をぽつぽつとしながらコンビニで買い物をし、ついでに右手に絆創膏も張った後で黒崎くんと別れた。絆創膏は張りづらいだろうからと黒崎君が張ってくれたので、その時ついでにこう言っておいた。

「黒崎君」

「うん?」

「日本じゃ“傷は舐めておけば治る”って言われてるけどさ。実際に、しかも女性にやるのは怒られかねないから、やめた方がいいよ」

「…………はい」

 そうしたやり取りの後、黒崎君と別れて数分後に結希と合流し、前から話していたカフェへと向かった。
 きっと右手のことはすぐに気付かれるから、どうかいつまんで説明するか悩ましいけれど。さっきの出来事と黒崎君のコロコロと変わる表情を振り返りながら。
 今日は変な日だったなと、小さな笑いがこぼれた。
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