境界を彫る

 ここに店を構えようと決めたのは、まだ九才の頃、叔父につれられはじめてやってきた日のことである。私をこの蓮池につれてきた叔父は美術、なかでも絵をたいそう愛した人で、私が絵のコンクールで銅賞をもらったその週末、私には絵の才がある、感性を磨けば今度こそ金賞がとれるよといって、両親には内緒で私を連れてきてくれたのだ。それから定期的に私は叔父と出掛けるようになったが、両親は叔父のことをあんまりよく思っていなかった。私の家はカトリックだったが叔父はプロテスタントだったし、端的にいうと、変人だったから。だから、叔父は私をどこかに連れ出す際、二人に高級レストランの招待券を用意して、僕がこの子と留守をしておくからと嘘をついた。二人はこのときばかりはニコニコして、じゃあ宜しくお願いしますねと言って出ていく。私と叔父はそのあと、二人だけの短い「感性を磨く旅」に出るのだ。私はこの短い冒険が好きだった。では叔父のことが好きだったかと問われると、実はそのあたりはよく分からない。両親のいう通り、確かに変人だったからだ。叔父は画家をしているらしい。別に有名でもない。趣味みたいなものだと自分でも言っていたが、それでもお金に困っている姿は見たことがなかったし、むしろ私を連れ出すため両親に高級レストランの食事券を用意しているところから察するに、どちらかと言えば裕福だ。
 叔父は「感性を磨く旅」の最中、よく私をほったらかしにしては絵を描いた。叔父が左利きなんだということもその姿から知ったが、私は叔父の絵をそうまじまじと見たことはない。ほったらかしにされている間、叔父から渡されたおこづかいでアイスクリームを買って食べたり、叔父の他に絵を描いているたくさんの人のキャンバスを覗きながら過ごしていたからである。叔父は自分の絵を見られることを嫌っていた。少し覗こうものなら、あっちへ言っていなさいと私を手で払いのけたのだった。叔父はときどき、昔はよかった、昔の絵ならいくらでもお前に見せてあげたのにと溢した。そしてそれ以上「昔の絵」に関して話すことは絶対になかった。
 私が一四才の頃、叔父は病気であっけなく逝ってしまった。死ぬまでずっと私が絵描きを目指しているのだと信じていたらしかったが、実は私は絵以上に、額縁に惹かれていたのである。もう七才の頃からずっとなので、自分の前世はさぞ偉大な額装師であったと確信していた。しかし叔父にその話をすることはなかった。叔父は絵描きを目指している私が好きで、絵描きを目指している私だからこそ「旅」に連れていってくれていると思っていたからだった。美術嫌いの両親に知られるのが怖く友人にも誰にも額装師という夢を話さないまま、半ば隠れるように額縁の勉強を続け、成人してすぐに家を出ると、貯めていたお金を全て使い小さな額縁屋を開いた。九才の頃から決めていた、あの蓮池のほとりに、ひっそりと。


「あれ。ここって額縁工房じゃなかったっけ」
 来店を知らせるベルが鳴り、続けて入ってきた男性が開口一番にそう言った。どこかの美術館から絵画が盗まれたというラジオのニュースをBGMに、筆を動かしていたときのことだった。筆を置いて、こんにちは、そうです額縁屋ですと席を立つ。彼が脇に抱えている風呂敷に包まれた平たい長方形のものは絵画だろう。店に来る際に絵画を持っていない人はあまりいない。あまりというのは、絵の写真とサイズさえあれば額縁が完成すると思い手ぶらでやってくるすっとこどっこいが時々いるからである。
 入り口近くのパイプ椅子を男性にすすめてから筆を流しに放り込み、キャンバスをイーゼルごと奥へ引っ込め、机の上を素早く片してから「ご注文ですよね」と大きな風呂敷を指差す。男性は頷いたが風呂敷を広げることなく、机の端に寄せたスケッチブックの束を見た。 
「キミも絵を描くの?」
「趣味で、まあ。でもこれは額縁のアイデアばかりですよ」
 といいながら私はスケッチブックを一冊、パラパラと捲ってみせた。
「絵は息抜き程度に、一〇号くらいのキャンバスを一年で一枚完成させる程度ですから。あの、ところで依頼ですよね」
「ああ。この絵にぜひ額縁をつけてほしくて」
 男性はそういってようやく机の上で風呂敷を広げた。見事な蓮池だ、場所はおそらく、少し歩けば広がっている、私が一目惚れしたこの蓮池である。しかし最近描かれたものには見えないので、完成したから持ってきた、というわけではなさそうだ。「これはあなたが?」男性はすかさず否定し、見覚えはないかとやや不思議な問いかけをしてきた。まばたきしても眉を寄せても記憶にはない。今度は私が否定する番である。
 五〇年ほど前に一部の間で有名になった画家の絵で、機会があり手に入れたのだと男性は言った。絵の端には走り書いたようにレイという名前があったが、あいにく聞いたことのある画家の名ではない。男が続けた。「ここの蓮池を好んでよくモチーフにしていた画家なんだが、事故で利き手の感覚がなくなったらしい。それから画家も引退してる」活動期間が短いから知名度は低いんだと残念そうに話す様子から察するに、このレイという画家が好きなのだろう。確かに惚れ惚れするような蓮池だ。最近まで額縁がはめられていた跡がある。側面を軽くなぞり、メジャーでサイズを図る。六〇〇×一〇〇〇ミリ。キャンバスをひっくり返し全体の状態を確認する。無名の私に依頼をくれるのは、趣味で絵を描く素人ばかりだ。こんなに立派な絵を取り扱ったことはないのでどうにも緊張してしまう。
「このサイズとなると、お値段も……」
「上限はない。キミの好きなようにつくってほしい」
 リッチな発言である。金持ちには見えないが金持ちらしい。てっきりガラスかと思ったが、こうなると彼がつけている丸い耳飾りも宝石なのだろうか。
 早速話し合いがはじまった。木材にこだわりはあるか、デザインに要望はあるか、今の流行りに乗りたいか、飾る場所はどんな場所か……男性は「キミの好きなように」という言葉を繰り返し、飾る場所に関しても、この絵が最も映える場所だという、曖昧な答えしかくれなかった。好きなようにと言われたものの、木材はオークで良いか、透かし彫りはいかが、バロック額縁がイメージに近いと一応提案してみれば、キミの好きにと私に全てを委ねていたはずの男性は、意外にも一度反対したのだった。バロックは少し仰々しくないだろうか、素人意見だがカルロ額縁が似合いそうだと思っていたと。
「枠の幅を細くしますし、あんまり複雑なデザインは入れないようにします。大丈夫です、絵の邪魔はしません」
「なるほど。分かった、キミの思うようにしてほしい」
 男性はすぐに納得してくれたようだった。
 デザインに大体二週間。絶対とは言い切れないので、デザイン案が出来たら連絡する。そこで意見を聞き、問題なければ製作開始。製作期間はデザイン次第だが最低二ヶ月はみてほしいという説明にも、想定五〇万ジェニーと算出した際も、男性はケロリとした顔で相づちを打ち「なんだそんなものか」と言ってのけたほどだった。
「前払い? すぐに下ろしてくるけど」 
「あ、いえ。納品時で結構です」
 男性はOKと笑って、迷いのない指先で契約書にペンを滑らせた。彼の名前がクロロ=ルシルフルという一風変わった名であることを、私はそこではじめて知った。
 デザインを考える間、出来るだけ額縁のなかに入れるものと共に過ごすのが私のやり方だった。普段なら二階で食べるご飯も絵を眺めながら食べ、あと一息で完成する他の依頼品をつくり、その途中休憩で、絵の前に座り薄い紅茶を飲む。テレビをぼうっと見る代わりに絵を眼差す。そして、あれかな、これかな、となんとなく思い付いたデザインをスケッチブックに書き留める。絵から離れることも大事だ。絵ではない、本物の蓮池まわりを散歩したり、美術館に行ったり、買い物したり、そうしているうちに、これが良いというものが浮かんでくるのだった。私はいつでも自分の頭のなかのものを紙に落とせるよう、出掛けるときにスケッチブックと鉛筆を忘れない。道の端で、誰の邪魔にもならないようにスケッチブックを広げるのだ。レイという画家の蓮池を思い浮かべながら鉛筆を動かし、頭のなかを紙上にうつしたところでスケッチブックを閉じる。
 工房兼自宅に戻ると、ちょうどいつもの配達員がベルを鳴らそうとしたところだったらしく、私の姿を見て「ああ、良かった」と抱えている荷物を目で示した。注文していたオークがもう来たらしい。鍵を開け、サインをしてから木材を受け取る。配達員は小さな機械で配達完了の操作をしながら、そういえば聞きましたかと口を開いた。
「隣街の美術館から蓮池の絵が盗まれたって」
「ああ、ええ。ラジオで流れてたのを、少しだけ」
「不思議な事件ですよね、どうせなら額縁ごと盗めば良いのに」
 額縁は盗まれなかったのだと私は唇のなかで呟いた。
 配達員は工房の奥にある作業台の上の、もう今日中には完成するであろう額縁をちらりと見た。私もつられて顔を向けたが、ここからではあれがどんな額縁なのかはっきりしなかった。ただ私の心のなかにだけ明確な輪郭が存在していた。
「確かに、額縁は絵にしっかり固定されてるから、外すのは手間だもんね。私なら盗んだあとに外すかな……」
 オレもそう思います、随分余裕のある泥棒ですよねと言って配達員は笑った。私はサインペンを配達員に返し、彼がトラックに乗るまでを見守ってから、木材を抱え作業台にまで持っていく。すぐ近くのイーゼルにはレイの蓮池が、白のカバーの下で息をひそめている。この蓮池には、どんな額縁がついていて、どうして外されてしまったというのだろうか。己と世界の境界がなくなったとき、蓮池の水は、こぼれなかったのだろうか。

 
 デザインが決まったという連絡を入れた際、クロロさんは少し驚いた風に「もう出来たのか」と言って、是非すぐに見たい、三〇分後に行ってもいいかと尋ねた。その日のうちにというのは珍しかったが、こちらとしても確認は早いに越したことはないし、特に用事もなかったので二つ返事で承諾すれば、クロロさんはなんと半分の一五分でやってきた。「二週間と聞いてたから五日で出来るとは思わなかったよ」彼の言葉に、私は曖昧に頷いた。私自身もまさか五日でデザインが決まり、しかもそれを描ききれるとは思っていなかったのである。
 レイの蓮池よりも一回り大きな紙を机に広げ、端が丸まらないよう椅子の上に積んでいた本を紙の四つ角に置く。クロロさんは原寸大なんだと呟いてから、デザイン案の前に、紙の四つ角に置いた本に顔を向けた。
「掛軸か。随分マイナーな本があるね」
「あ、ご存知なんですね。一種の額縁みたいなものですから、勉強になるかなと」
「考えたこともなかったな、確かに額縁とも言えるのか」
 彼は面白そうにくすりと笑ってから、良ければ掛軸の本と世界の扉の本を貸してほしいと言った。掛軸は構わないが世界の扉は参考にすることがあるだろうからと謝れば、クロロさんは「今度自分でも探してみるよ」と本から目を離し、じいっとデザイン案を見つめた。真剣な眉だった。沈黙のまま一分が過ぎた。いかがですかと聞くのも野暮な気がして、私も同じようにデザイン案に視線を落とす。三分が経った。顔を上げるが、彼は微動だにせず、しかし僅かに視線だけを動かしていた。五分が経った頃、クロロさんはデザイン案から目を離すことなく後ろに三歩引き、最後に全体像を確認してから、ようやく「完成が楽しみだ」と口を開いた。
「この額縁に飾られた蓮池を見るのが待ち遠しいな」
「ありがとうございます。要望はありませんか? 可能な範囲で修正しますが」
「いや、ない。素晴らしいよ。以前は似合わない額縁をつけられていてね、見るに耐えなかった」
 私は、そうなんですね、と頷いた。
 翌日から作業がはじまった。辺それぞれのパーツをつくり、棹を削り出し、レイの蓮池に合わせ、さらにまた若干削る。一ミリの誤差も許されない作業だ、手元には常にいくつも物を測る道具があった。少しでも集中力が欠けたと判断したときにはすぐに作業を中断した。一日の間で三〇分しか作業出来ない日もあったし、一〇時間以上ほとんど休みなく作業に没頭出来る日もあったが、なんてことはない。私の集中力がまちまちであることを、誰よりも私が知っている。木材に描き込んだ模様を忠実に彫刻刀で彫りすすめているうちに、気がつけばもう一ヶ月が過ぎようとしていた。カレンダーを見て、そういえばもうすぐ叔父の命日であることを、数年ぶりにふと思い出す。お葬式に両親は参加せず、私と叔母二人だけの、寂しい式だった。泣きじゃくっていた叔母の隣で私はただ、一筋の涙も流さずに叔父の墓を見つめていた。いや、墓じゃない。墓の傍に供えられた、可哀想な何かに意識を奪われていたんだ……。何だっただろう。可哀想だと思ったことだけは覚えているのに、叔母の泣き声が邪魔をする。
「これはね……」
 ああ、そうだ、その叔母が、細い声で言っていたじゃないか。
「あなたの叔父さんが、手を痛める前に描いた絵なのよ……」
 あれは境界を喪った可哀想な蓮池だ。私はあの日、はじめて叔父の絵、それも「昔の絵」を見たのだった。


 週末、久しぶりに訪れた隣街の教会で、思わぬ人物と鉢合わせた。クロロさんである。午前のミサの時間が終わった後の誰もいない静まった空間のなかで、私はやや後悔に苛まれながらも、謹み深い気持ちで挨拶を交わした。クロロさんが日曜のミサに参加するような清い信徒だとは微塵も思わなかったし、そんな彼がいるところに、聖徒でもない私がフラリとやって来たことが、なんだか申し訳なく思えたのだ。
 カトリックだったんですね、と私はひそひそと告げた。教会のなかではそれすらも響いたほどだった。
 クロロさんは目を丸くして、クスクスと笑いながら、いや違うよ、確かにミサには参加してみたが、ちっとも神聖な気持ちにはなれなかったと言った。祭壇を背にして、神もその子供も恐れていない口振りだった。
「オレに安息日はないし、知恵の実があれば喜んで食べるしな。それよりキミこそ信徒だったのか。ミサでは分からなかった」
「違うんです、ミサにも参加してません。両親はカトリックでしたが」
「へェ。なのに洗礼は受けてないんだ?」
「叔父叔母がプロテスタントだったので、どちらの洗礼を受けるかで揉めたんです。それで、結局受けずに済みました。あんまり教会でする話ではないですけど」
 私は祭壇に磔にされたイエスキリストには届かないよう、クロロにさんにだけ聞こえるように最大限注意を払いながら声を出した。そして、教会にくるのは祭壇を見るためなのだと続ける。絵画と額縁の起源である教会の祭壇を見るために、私は苦手な教会に足を踏み入れるのだ。確かに同じひとつであった絵と境界は、どうして私達の都合で、切り離されてしまうことになったのだろう……。
「クロロさんは何をしに教会へ?」
 私は思い切って尋ねた。
「さあ。キミは何だと思う?」
「……、懺悔、とか」
「ハハハ、そうきたか。罪はあるだろうが悔いてはないよ。神の許しも必要じゃない」
 私は曖昧に頷きながらも、どうしてか、まるで自分にこそ罪があるような感覚に陥った。それは例えば幼い頃、無邪気ゆえに殺した虫に。友人の消しゴムを盗んでしまったときについた嘘に。罪を見て見ぬ振りするこころに。
「どれくらい進んだ?」
 作業は、とクロロさんが問うた。あと一ヶ月あればお渡し出来ますよ私は答えた。額縁づくりは順調だった。もしかしたら、彼以上に私こそが額縁にはいったレイの蓮池を求めていたのかもしれないと思う。クロロさんは本当に嬉しそうに「楽しみだな」と口角を上げた。私は祭壇の美しい境界線を眼差しでなぞったのち、少し迷ってから、なぜ私に依頼したんですかと尋ねた。私の瞳はじっと、境界線を追いかけている。
「オレは、才能とは血だと考えている」
 しばしの沈黙の後、クロロさんがそう静かに口を開いたので、祭壇へ送っていた視線を隣に向ける。耳元で僅かに揺れている丸い耳飾りの深い色は、まるで彼の静寂の本質を表しているかのようだった。
「人間とは生まれつき才が決まっている。環境だ努力だと言う奴もいるが、生憎オレは思わない。もちろん努力も大事だよ。それは常々感じるところだが」
 唇を閉じ、そこでようやくクロロさんはこちらに顔を向けた。うしろでギイと重い音が鳴る。誰かが教会に入ってきたらしい。
「これが答えだ。オレが何を言いたいのか、キミ自身が一番理解しているだろう」
 私はこたえなかった。こころのなかに、左手で絵を描く叔父の後ろ姿を浮かべるばかりだった。
 教会からの帰り道、絵画が盗まれたという例の美術館に行った。日曜日ということ、そして、盗難があったというニュースからか、チケットカウンターから随分待たなければいけなかった。並んでいる絵画をそれなりに観賞しながら歩き続け、とある一点で立ち止まる。壁には、守るべき中身を失った額縁だけがぽっかりと掛かっている。本来キャプションボードがある位置に作品が盗難に遭ったこと、はやくこの額縁のなかにあの美しい蓮池を返してほしい、という旨の張り紙があった。違うわ、と首を横に振る。額縁は絵画のための境界であり、守るべき絵画に、寄り添わなければいけないものなのだ。美とは調和である。互いの美しさで互いを殺すことなどあってはならない。私は、この額縁に入っていた頃の蓮池を頭に描いてから、彼の言葉を思い出し微笑んだ。
 これは確かに似合わないね、クロロさん。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -