白夢

 なんとなく眠れず、なんとなく散歩でもしようかと、クロロはまだ陽もほとんど昇っていない街を歩くことにした。向こうの空からはぼんやりと白色の光が見えるが犬の散歩にも早い時間だ。人通りは極端に少ない。適当にぶらぶらした後コンビニで何か買ってから戻ろうかと考えていると、ようやく誰かが歩いている姿を見かけた。フードで顔はよく見えなかったが、若い青年だ。すれ違いざまほんの僅かに塗料独特の重たい匂いがクロロの鼻を掠めたが、特別気にすることもなく彼は住宅街を歩き続けた。どこの家も明かりはついておらず、まだまだ眠りに包まれている。静寂。クロロの足音がそれを脅かすことはなかった。街はあまりにも静かで安らかだった。世界を股にかけるA級賞金首が闊歩しているなんて誰も夢にもみていないだろう。
 通りに出た。並ぶ店はどれもシャッターが閉まり当分開きそうな様子はなく、朝の早いパン屋や花屋ならそろそろ仕込みに来るだろうか、いやそれでもちょっと早いくらいの時間である。コンビニに寄ってから帰ろうと左に曲がろうとした。よく行くコンビニが一軒ある。
 道を曲がろうと顔を左へ向けようとしたところで、クロロはぴたりと立ち止まり、進もうとしていた方向とは反対の、右方向の地面を見た。ペンキが一滴落ちている。別に大したことじゃない。ティーンエイジャーがこのあたりの壁に落書きでもしたんだろう。最近の落書きはクオリティが高いので嫌いではないが、クロロにとって愛でるほどの価値があるのかと言えばそうでもない。ただ通りすがり一瞬だけの楽しみに過ぎない。
 しかし暇潰しにはちょうど良かった。ペンキの具合からしてストリートアートは出来上がったばかりだろう。その近くにコンビニがあったらラッキーなんだがな程度にクロロは右の道に進み、落書きを探しながら街を歩いた。観光向けの街ということもあり、そもそも落書き自体がほとんどなかったため、お目当てのストリートアートはあっさり見つかった。店のシャッターに、スプレーで絵を描いているティーンエイジャーのアート作品だ。随分クオリティが高いな、と感心していて気がついた。最近一部で有名になりつつある素性不明のストリートアーティストの作品に酷似していると。誰も名前を知らないので最初に発見された作品から呼び名がつけられていた、確か「顔なしソクラテス」。
 顔なしソクラテスの作品はクロロもいくつか写真で見たことがあるが、実物を見るのは初めてだった。しかし、なるほど、現段階で見つかっている顔なしソクラテスの作品の場所を考えてみても、活動範囲からそう離れていることもない、いや、むしろ十分範囲内と考えていいだろう。
 クロロはじっとシャッターを鑑賞した。まだ乾ききっていないこの作品の、おそらく発見者第一号となった優越を抱かずにいられるだろうか。他の作品と同様のステンシル技法なので複製は簡単、この場所以外でも同じものが発見されてもおかしくはない。しかし、気付く、絵の全てがステンシル技法ではないことを。スプレー缶で絵を描いている真っ最中の黒い若者はステンシル技法、しかしその若者が持つスプレー缶から出ている鮮やかな青は、おそらく即興の美だ。まだまだ洗練された美しさではないが、若者にしか持てない心の衝動がひしひしと現れている。いや、現したのだ。自身の感情を絵として現すことに長けているからこそ、彼の絵にストリートアート以上の価値を見いだす人間がいる。世界的な話題になってもおかしくない才能だが、今はまだ一部の人間からの評価しか得られていない。おおよその人間は他人の才能を見つけるのが下手だから。クロロはずうっとシャッターを見つめていた。さすがに持って帰るにも持って帰れない代物なのでそうするしかなかった。空が白みがかり、だんだんと色づいてゆく、朝を迎えようとしている。ちらほらと人の姿が増える。
 シャッターの前に誰かがやってきた。絵を遮られたクロロは眉をひそめたが、仕方がない、この店の店主だ。彼はシャッターに鍵をさし込んでから膝を折り、ぐっと力を入れ、ガラガラとシャッター半分ほど押し上げた。一瞬だけクロロを見てから男はシャッターを潜り中へと入った。開いたシャッターからもやもやと焼きたてのパンの良い匂いが漂ってくる。この店はパン屋らしい。焼き上がっているということは今から開店準備だろうか。
 宙に浮いた絵を一瞥してから、クロロはあくびを噛み殺しつつその場を去った。さすがに指先が冷えたなと時計を見れば驚いたことに三時間以上が経っている。眠気が役目を思い出したようにどっとクロロを襲ったので、彼はホテルに戻ると、抗うことなくベッドに入り眠った。
 次に起きたのは一六時だったが、特に用事があるわけでもなかったので、しばらく寝ぼけ眼でぼうっとテレビを見た後、身支度を済ませると二冊の本を持ちホテルを出た。近くのハンバーガーショップに入りチーズバーガーのセットを頼んでから、札を預かり席を探す。夕御飯時ということもあり店内はなかなか混んでいたが、窓際にひとつ席を見つけることが出来たので座る。札をテーブルの端に置いてから本を捲る。五ページほど進んだところで注文の品が届いたので、ハンバーガーを片手に、もう片方の手で器用に本を捲りながら食べ、読み進めた。ハードカバーなら難しい芸当だっただろう。そのあたりを考慮して文庫本を選んだのかもしれない、おそらくクロロは最初からハンバーガーを片手に読書をするつもりだったのだ。
 八割方の意識を本へやりながらハンバーガーを食べきり、ポテトを空にし、コーラを飲みきるが、本はまだ四分の一もすすんでいない。ゴミもトレーも机に置いたまま、クロロは読書を続けた。半分ほど読み終わる頃には机がキレイになっていたが、片付けたのはクロロではなく店員である。
 一冊読み終わった。ちらりと周りを見てみれば、ほとんど満席だった人気はかなり減っている。それでもまだ賑やかさが失われたわけではなく、ティーンエイジャーの集団が何やら盛り上がっている様子が見えた。時計を見れば二二時。クロロはホテルに戻ろうかとも考えたが、すぐに読みたい気持ちもあり、結局そのまま読書を再開した。本は上下巻だったのだ。
 解説まで読み切り、本を閉じたのは深夜三時を回った頃だ。クロロ以外に客はなく、コスト削減のためか、照明も半分ほど落とされている。小腹が空いたのでもうひとつだけハンバーガーを買った。二人しかいない店員は、クロロが注文の商品を受け取るとすぐに中断していた駄弁りに花を咲かせはじめる。嫌でも会話が耳に届く。ボーイフレンドとはどうなったか、今度ダーツにでもいかないかどうだのと……。男の方は女に気があるようだが女はそうでもないらしい。普通に困っている女の姿を横目にクロロは席へ腰掛けた。
 ハンバーガーもすぐになくなった。のんびり食べたが一〇分しか経っていない。
 クロロはトレーをカウンターに返却する際、それを受け取った男の店員に「もうちょっとスマートな口説き方を身につけろ」と言いながら本を二冊とも押し付けると店を出た。人の気配のほとんどない寂しい道を街灯がぼんやりと照らしている。ホテルに戻るのかと思いきやそうではないらしく、足取りは昨夜の散歩と同じコースを辿り、すんなりあのパン屋に到着した。パン屋のシャッターが真正面にくる位置にちょうどベンチがあったので腰掛け、ようとしてからピタリと立ち止まり、何事もなかったかのように膝を伸ばす。それからどこかへ行ってしまった。ベンチ頭上にある街灯がパチパチと力なく点滅している。
 なるほどコンビニに行っていたようで片手にホットコーヒーを持ち戻ってくると、今度こそベンチに腰を下ろした。街灯は少し落ち着きを取り戻したのか大人しく点っている。クロロはコーヒーを飲みながら、昨夜と同じように絵を見つめた。目を奪われるのは、この青……。
 コーヒーはなくなり、空は夜を終えようとしていた。クロロの前を通行人が横切り、はっとする。もうそんな時間か、ということはそろそろ店主が、と考えたところでシャッターの前に誰かがやって来た。言わずもがな店主である。膝を折り曲げ、鍵を差し込み回し、グッと力を入れて持ち上げる。逞しい腕の男だ。クロロはベンチから立ち上がるとゴミを持ち、ホテルへ向かおうとパン屋から顔を背けた。おそらく今日も今から寝て、夕方頃に起きるだろう。昼夜逆転の生活も彼にとってはそう珍しくもない。
「おい、アンタ昨日もいただろう」
 声は真っ直ぐクロロを指していた。
「この落書き、もしやアンタじゃないだろうな?」
 仕方がないので振り向く。
「まさか。これほどの絵心はないよ」
「この店はもともと親父の店でな。オレァ怒ってんだぜ」
「だからオレじゃないってば。散歩していたら偶然その絵を見つけたんだ。気に入ってしばらく眺めてた」
「イキった小僧の落書きをか? 三ブロック先のストリートに行けばもっと見れるだろうよ」
 途方もなく荒れているわけではないが、確かに少し先の通りは治安が良いとは言い難い。そのこともあり店主も警戒しているのだろう。絵を愛でていただけで警察を呼ばれるのは御免だ。
「ダンナ、もう開店かい」
「ああ」
「買っていくよ。腹が減った」
「入りな。準備は出来てっからよ」
 しかし店主もクロロが落書きの犯人と疑っているわけではなさそうである。冗談半分だ。その半分も落書きの犯人としてというより、どちらかといえば強盗として警戒していたのだが、店に入り真剣にパンを選んでいるクロロの様子を見てその疑いもほとんどなくなった。なんてことはない、自己紹介をさせたら趣味は読書だとでも言いそうな大人しい青年だ。それに、いかにもヒョロい。銃でも持っていない限り力でねじ伏せるのは造作もないと思ったのだ。
 クロロはブリオッシュとベーコンエピを選ぶと、店主がせっせと袋に詰めている間に財布を出し、それから店内をちらりと見渡した。カウンター奥に階段がある。おそらく二階は住宅だろう。シャッターを開けるのは開店準備が整ってからか、とそこまで考えてからひとつ疑問が浮上する。
「シャッターなら中から開ければ良いんじゃないか?」
「何がだ?」
「いや……わざわざ裏口から出て表までシャッターを開けにいく必要はないんじゃないかと思ってさ」
 変なことを気にするヤツだなと店主は眉をひそめてから、確認も兼ねてんだよとこたえた。
「ポストが裏口だからってのもあるが、斜め向かいの喫茶店が開いてるかどうかな。何せマスターが歳だ。ぽっくり逝ってもおかしくねェ」
「ああ、なるほど」
「気が向いたら寄ってくれ。あそこのコーヒーは絶品だぞ」
「コーヒー、は?」
「食事は頼まないほうがいいってことだ。オレん店のパンなら持ち込みOK」
「ハハハ。それならせっかくだし行ってみるよ」
「そうしろ」
 ちらりと時計に目をやれば、今しがた針が六時三〇分を指したところである。会計を済ませ店を出ると、クロロは宣言通りその足で、斜め向こうにあるこじんまりとした喫茶店に行った。まだ客の姿はなく、カウンター内で主人がひとり、いらっしゃいませと言いながら新聞を畳みクロロと目を合わせた。パン屋の言う通り確かにかなりの歳に見える。お好きな場所にどうぞと促され、入り口からすぐの席に腰をおろす。紙袋を見た主人が「ああ」とひとりごち、コーヒーはお決まりですか、と尋ねた。
「オススメは?」
「コロンビアですかね。ア・リアから来た方には中煎りストレートをオススメしてますよ」
 クロロはそこではじめてパン屋の名前を知った。絵にばかり注目していたが、ようよう記憶をたどれば、女性の横顔の形をした吊り看板にア・リアと書かれていた気がする。
「じゃあそれを」
 主人は頷いてから、しばらくお待ちくださいと言ってせっせと豆を取り出した。せっせと、と言っても動きは一生懸命だが鈍く、豆を溢すのではないか、そもそも豆を挽けるのかと少し心配になったほどだが、クロロの心配をよそに店主は豆の一粒も落とすことなくミルに注ぎ、ごりごりと豆を挽く姿からは力強さすら感じられる。クロロは店主から目を離し、頬杖をつきながら遠くの窓を見た。鳥の囀りとともに、窓のそばを老人が通りすぎた。

 
「アンタも飽きないな」
「開店を待ってた。パンもコーヒーも気に入ったよ」
「そりゃ結構」
 店主のうしろに続いてクロロも店に入った。もちろんつい先ほどまで顔なしソクラテスのアートを堪能していたに違いないのだが、この店のパンが気に入ったのは本当のようで、昨日にも増して真剣にディスプレイを見つめている。あの老店主が淹れるコーヒーもかなり口にあったらしい、あのあと結局三杯おかわりしており、今日は昨日より多めにパンを買っていこうとクロロは決めていた。
「優柔不断だなァ」
 店主がレジの現金を数えながら言った。
「よく仲間にもからかわれるよ」
「ハハハ、好かれてんだなアンタ」
「?」
「早く決めてくれ。こっちがイライラしちまう」
「ああ……うーん」
 急かされてもなお悩むのはやめられないようである。クロロは結局ディスプレイの前で一〇分以上悩みパンを四つ選んだ。その間に祖母のお使いでという若い女が一人来たが、パンを六つ選んだにも関わらず、彼女は五分もせずに帰ったので、店主はますますクロロに呆れてしまった。昨日あれほどすんなり選んでいたのがウソのようだ。混雑時なら迷惑だが早朝とも呼べるこの時間帯はまだまだ暇なので、短気な店主もクロロが選び終わるまでを辛抱強く待った。
「ア・リアって女の名前?」
 店主がパンをトングで袋に移している途中、クロロが尋ねた。レジの前にこの店の名前を掲げた女の子の人形が置いていた。
「死んだ妹の名前さ。親父から継いだときはお袋の名前だった。うちの家計は女が短命なのさ」
 店主は淡々とこたえながら最後のパンを袋に移した。カウンター内のうしろの壁に、六切りサイズの家族写真がかけられていることに気付く。まだ若き日の店主と、おそらくその父親と、そして隣に立っているのが妹だろうか。母親の姿はない。
「不躾なことを聞いて悪かった」
「構わねぇさ。みんな聞く。読書が好きでな、オレァ男遊びのひとつでもしろと言ってたんだが」
「読書の方が楽しいよ」
 財布から八〇〇ジェニーを取り出しながら軽く笑うクロロの姿に、やっぱりコイツも読書好きかと店主は思った。
「アンタ、オススメの本ないかい。毎月一冊供えてんだ」
「好みの作家は分かるか?」
「作家は分からねぇが、ミステリーが好きだった」
「なるほど。有名どころは読んでそうだな……マニア向けの作品で考えてみるよ」
 袋を受け取り店を出た足でコーヒーを飲みに行くと、一時間ほど寛いでから今度は書店に向かった。よく読む作家の新作が出ていたので迷わず手に取り、その流れで目についた本をさらに二冊脇に抱え、もう一冊欲しいなと吟味していた途中ではっとする。書店に入って一歩目にして忘れていた。肝心の本を探していない。海外の作家の本棚から著者名を指でたどり一冊の本を抜き取ると、合わせて計五冊の本を購入した。ちゃっかり自分の分をもう一冊選んでいる。受け取った袋にレシートを突っ込み店を出たところで、近くに停まっていたタクシーでホテルに戻った。それからすぐに寝た。完全に昼夜逆転の生活である。
  二一時を過ぎたあたりで目を覚ます。空腹感はなかったので、顔を洗ってからベッドに腰掛け今朝購入した本を一冊、袋のなかから取り出した。その際、はらりと床に落ちたレシートが、ちょうど靴の上に乗った。クロロは一間考えて、靴を履き、拾ったレシートをゴミ箱に捨て、本を二冊持ち部屋を出た。ロビーを抜けやや冷たい風に当たりながら、ふらふらと適当に開いている店を探し歩く。あくびを噛み殺す。
 深夜一時まで営業しているファミリーレストランに入ると、ミートスパゲッティを頼んで早速読書をはじめた。一〇分しないうちに商品が届いたのでフォークを片手に読書を続けようとして、気付く。まずい、これは流石に汚れる。仕方なくページに紙ナプキンを挟み本を閉じるとミートスパゲッティをずいずいと食べすすめた。あっという間に食べた。口元を紙ナプキンで拭い、水を二口飲むと、すぐに読書を再開した。出来るなら営業時間内に読み終えたいという気持ちがあったのだが、クロロの頑張りもむなしく、というか早く読もうという努力も途中から忘れ、残り五〇ページのあたりで店員から「閉店です」と追い出された。最初からファストフード店に入っていればよかったと若干後悔しながら、クロロは少し歩いたのちにハンバーガーショップに入るとホットコーヒーを頼んでから、残りのページを読みきった。もう一冊も読んでしまおうかと目次に目を通していたとき、コーヒーのおかわりはいかがですか、とやってきた店員と視線が合った。相手が驚き、あの時はありがとうございましたと勢いよく頭を下げた。クロロが首を傾げる。
「何が?」
「本くれたじゃないすか。つい昨日ですよ。スマートな口説き方を身に付けろって」
「んん……」
 そう言われてみればなんとなく思い出した。気もする。本当になんとなくだが。
「帰ってすぐ読んだんすけど、これがめちゃめちゃ面白くて、いや〜、これでも昔は本読むの好きだったんすよ。これ文系男子でいけると思いません? 気になってるコがいるんすけどね、そのコも実は読書好きって情報ゲットしたんすよ。運命感じません?」
「さあ、感じるかもしれないな」
「お兄さんここよく来るんですか? オレ深夜二時から朝七時まででシフトよく入ってんすよ。そこから大学で。あ、コーヒーいります?」
「ああ」
「や〜、やっぱ読書いいっすね。アニメもマンガもいいけどやっぱ文すよ。想像力膨らませなきゃ」
 クロロはその店員としばらく取り留めのない会話をしたのちに読み終わったばかりの本を押し付け、店員が仕事に戻ったところで二冊目を読みはじめた。これも読了したらさっきの店員に渡すつもりである。ちょうどいい貰い手がいたものだ。例え邪魔でも本をゴミ箱に捨てるのは気が引ける。
 四時手前に店を出た。まだ暗いが、僅かに朝のにおいが近付いている。
 段々とパン屋のシャッターが見えてくる。描かれている絵もしかり。目にするのはこれで三度目にも関わらず、何時間も観賞済みにも関わらず、視界に触れた瞬間はっと意識を引かれるのだから素晴らしい。クロロは何度目になるか分からない感嘆のため息を吐き、絵を見ていた。この青だ。この青……。残念に思う。持ち運びがもう少し楽なサイズならば迷わず盗っていただろうに。
「アンタそのうち風邪引くぞ」
 店主がやってきた。もうそんな時間かと軽く伸びをしながら、シャッターがガラガラと上げられる様を眺めた。どおりで小鳥の囀りがうるさいはずだ。指先もすっかり冷えている。季節はますます冬に近づいているらしい。
「そうだ。持ってきたよ」
 店に入るなり、クロロは脇に抱えていた単行本を店主に差し出した。
「買ってくれたのか」
「ああ。かなり良い自信がある。ミステリー作家ではないから読んでいる可能性も低いしな」
「妹も喜ぶぜ。金は払わせてくれ」
「自分の買い物ついでだ。気持ちだけ受け取っておくよ」
 今日も時間をかけてパンを選んだが、本のこともあってか店主は文句を言わずじっとクロロを待った。お会計の最中、墓参りは一週間後に行く予定だから、そのときにこの本を供えるよと店主が言った。気に入ってもらえるといいなとクロロは返事をしてから店を出て、斜め向かいの喫茶店に入るとコーヒーを注文した。ルーティンになりつつある朝の一連の流れも悪くない、むしろ心地好いと言ってもいいくらいである。
「今日、店を午前で閉めるんです」
 豆を挽きながら主人が言う。
「孫の発表会でしてね。吹奏楽をやっとるんですよ。熱心に練習していると娘から聞いたもんで、こりゃいかねばと思いまして。ご近所にも宣伝してまわったら、恥ずかしいからやめてくれって怒られましたわい」
「お孫さんが通われているのは中学校ですか?」
「いやいや。とっくに卒業しました。高校三年生です。よかったらどうです、一緒に行きませんか。孫はトランペットなんですがね、ソロパートをもらえたんです」
 クロロは特に迷いを見せることなく、二つ返事でお邪魔でなければ是非お願いしますと頷いた。手を止めた主人がカウンターをぬけ、どうぞ見ていてくださいと演奏プログラムを渡し、また戻り豆を挽く。演奏プログラムには隣街にある学校の名前が書かれていた。一二時三〇分開場で開演は一三時。終了予定は一五時だ。代表的なクラシック音楽でまとめられているが、愛の喜びからはじまり運命で終わるプログラムは、組んだ人間の妙なユーモアを感じる。プログラム表を閉じ、携帯で会場の場所を表示した。ここからならおよそ三〇分といったところか。
 主人は宣言通り午前で店を閉めると手早く支度を済ませ、一二時には店を出た。タクシーを拾い、会場に向かう。到着するや否や主人のご近所さんらしき数人が、すぐにあらマスターと言って駆け寄ってきたので、クロロは少し離れたところでその光景を見ていた。一二時四五分、受付は済ませていたい時間だが、連れて来てもらった身なので急かさず待った。
「お待たせしました。すみませんね」
「とんでもない。行きましょう」
 挨拶を終えた主人がクロロの元へやってきたので、二人はようやく会場内へと入った。広いホールということもあり満席ということはなく、人は半分も座っていない。クロロと主人が真ん中あたりの席に腰をおろすとほどなくして照明が暗くなり、舞台の幕が上がった。主人が満面の笑みで、手が赤くならんばかりの盛大な拍手を送っている。クロロもそれに倣い、いつもより少しだけ大きな拍手を送った。指揮者が腕を上げる。学生たちが光に照らされた楽器を構える。一瞬の静寂。
 ホールに音色が響き渡った。


 眠たそうだなと指摘され親指で目の下を擦れば、寝不足かいと店主がさらに続けた。クロロはディスプレイから目を離すことなく、まあな、とこたえながら一つ目のパンを決めた。ミルクパヴェである。 
「喫茶店のマスターに、お孫さんの発表会に連れてってもらったんだ。最近の学生はレベルが高いな。楽器が楽器ならプロの演奏と聴き分けられる自信がない」
「あのじいさんアンタまで誘ったのかい。全く見境がないな。断っても良かったんだぜ」
「いや、面白かったよ。もう一時間聴いていたかったな」
 本心である。喫茶店の主人の孫のトランペットソロも学生ならではの初々しさと焦りと緊張、しかしそれを上回る努力の結晶が見え素直に感心してしまったし、プログラム終了後のスタンディングオベーションの先陣をきったのはおそらくクロロだ。「お人好しだなァ」と店主は呆れたが、クロロは二つ目のパンを選びながらすかさずその言葉を否定した。
「オレがお人好しならこの世は悪党だらけだぞ」
 店主は眉をひそめた。クロロは二つ目のパンに、クレセントロールを選んだ。
 眠気のせいか食欲もあまりなかったため、結局今日は朝食用にパンを二つと、夜食用のカンパーニュを買い喫茶店に向かった。主人が昨日のお礼といい、今日は好きなだけコーヒーを飲んでくれとクロロにすすめたので、彼は言葉に甘えてそうした。パン一つにつき一杯、食後にブルーマウンテンを飲んでいる途中で、昨日発表会に来ていた近所の老人たちがやってきた。五、六人ほどで、昼まで昨日の発表会について語り合った。いやあ良かったねえ、あんな演奏滅多に聴けないよ、とみなそれぞれいかに学生たちが素晴らしかったかを口にした。若い才能を言葉の限り褒め称え、その場はお開きになった。主人はその場の全員にコーヒーをご馳走してくれた。
 ホテルに戻り、クロロは少ない荷物を整えてから眠りについた。ここに来てそろそろ一ヶ月が過ぎようとしている。心地好い街だ。住んでしまうのも悪くない。しかし、ここで暮らしていく自身の姿を想像したとき、しっくり来ないのも確かだった。ここは自分にとって、通過点に過ぎないという謎めいた確信がある。そんなことを考えながら、眠りに落ちた。
 夢を見た。まだあの街を出ていない頃の夢だ。楽しげな少年の笑い声が聞こえると思ったら、それは自分の声だった。息が弾んでいる。駆けているのだ。一体どこへ向かっていただろうか? 分からない。でも、楽しいから、いいや……。このままで……。
「クロロ」
 どこかで自分を呼ぶ声が聞こえた。誰の声だっただろうか。振り向くが、誰もいない。
「クロロ……」
 また聞こえた。誰の声だろうか。オレはどこへ向かっているのだろうか。どこへいくのだろうか。オレたちは。
 そこで目が覚めた。夢を見ていた気がするが、あまり覚えていない。時計を見れば既に日付を跨いでいたが、気にすることなくシャワーを浴びて、歯を磨き、テレビをつけてニュースを軽く流し見てから、ルームサービスでワインとチーズを頼み、今朝買っておいたカンパーニュをナイフで切りそれらと共に食べながら、本を読んだ。オリーブも頼めばよかったと途中で気ついたが二度手間なので注文せず、そのまま読書の片手に食事をすすめ、読み終わってから、その本を持ってホテルを出た。深夜三時。クロロはハンバーガーショップに行くと、あの男の店員を探したが、見当たらなかったので聞いてみようとレジカウンターに立っている店員に近付いた。
「少しいいかな」
「はい?」
 丁寧にも店員はカウンターから身を乗り出した。
「この時間帯によく入ってる大学生の、男の店員なんだけど」
「ああ、××くん。が、どうしたんですか?」
「この本を渡してほしいんだ」
「××くんから借りてたんですか?」
「いや、そうじゃないんだけど」
 店員は不思議そうな顔をしたが、それ以上追及することもなく「昨日も今日も無断欠勤してるんで、もう来ないと思いますよ」とひそひそ遠慮するように話した。クロロは、そうか、ありがとうと礼を告げ店を出た。
 歩いた感覚もなく、気がついたらパン屋の前に立っていた。絵を眼差す。なんだか不思議な気分である。この青……。ついさっきまで見ていた夢は、この青だった気がしてくる。青の夢を見ていたのだろうか? 違う気もする。妙な気分だ。不快という意味ではない。今この瞬間も、夢のなかにいるような。しかし夢心地という言葉を使おうには、あまりにも輪郭がはっきりしている。
「おう、待たせたな」
 店主がやってきた。ハンバーガーショップから来てまだそう経っていないと思っていたが、時間はあっという間に過ぎていたらしい。クロロは店に入り、ディスプレイをまじまじと眺めながら、店主に「なあ」と話しかけた。店主も手元から目を離すことなく、お金を数えながら短くなんだいと返事をした。
「シャッターの絵を見てて、不思議な気持ちになったことはあるか?」
「んなしっかり見たこともねェが、不思議か……こんだけ店並んでるなかでわざわざウチに書きやがったのが不思議だよ」
 クロロは微笑み頷いた。店主がそれを見ていたかは分からない。
「その絵だがな、今日の閉店後には消してもらえることになったよ」
「……そうか。この世からなくなるのは惜しい絵だ」
 大層な言い方だなァと店主は笑った。彼にとっては最初から今日まで一貫して、ただの迷惑な落書きという認識でしかないのである。
 クロロはお会計を済ませている最中、今晩にでも街を出ていくよと店主に告げた。「世話になったな」クロロの言葉に「そうかい、達者でな」と店主は短い挨拶を返しパンの入った袋をクロロへ渡した。ついでに、受け取ったばかりのコインも一緒に。
「すっかり忘れてたよ。本の代金だ。借りを作るのは性に合わなくてな」
 返されたコインをポケットに突っ込みクロロは店を出た。コーヒーを飲みながら主人と他愛ない話をしたが、街を出ていくことは最後まで話さなかった。店主はクロロを見送る際に「また明日」という言葉をつかったが、クロロは言葉ではこたえず、片手を挙げるだけだった。
 ホテルに戻ると買い溜めていた本の最後の一冊を読み、それから眠った。深い眠りだ。夢は見なかった。見ていたが覚えていないだけかもしれない。とにかくクロロは久々にすっきりした気持ちで目覚め、ルームサービスで食事を済ませ、ベランダに出てぼうっと街を見つめてから荷物を全てまとめた。主に捨てるものだ。クロロは手ぶらで、一ヶ月も滞在していた人間には見えないラフさで部屋を出た。フロントには一応明かりがついていたが誰の姿もなく、部屋の鍵を受付に置いて自動ドアを抜けた。閑静である。空気が澄んでいるので星が綺麗だ。この空に憧れていた頃もあったが、それも遥か昔のように思える。
 街はまだ夜につつまれているが、遠くには朝が見えた。どこへ行こう。目的地は決めていなかった。どこへでもいけるさとクロロはひとりごち、それからクスクスと小さく笑った。ああ、どこにでもいける気がする。でも、それが気のせいだということも分かっている。己のいるべき場所はひとつしかないのだから。なぜ今こんなことを考えてしまうのだろう。あの青のせいだろうか。人のいない道を歩き続ける。
 クロロは街を出る前にあえて遠回りをしてパン屋を通り、シャッターの前で一瞬だけ立ち止まったが、そこにはひとつの色もなく、ひとときとはいえ確かに愛した芸術の、欠片すらも残してはいなかった。

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