落ちてしまうまでひとめ惚れなんてまるで信じていなかった。信じる、というと些か語弊が生じるかもしれないが、自分のこの身に起こる事とはまさか夢にも思っていなかったのだ。ひとめ見たとき、心地よい電流が頭の先から足先まで一瞬のうちに駆け巡る。脳髄に甘い痺れをもたらして、全身がむず痒くなる。眼の奥からじわじわと鈍痛がして、視界が霞んでしまう。ちくちくと、端に毒をつけた針で、心臓を小刻みに突かれるような、そんなもどかしくて、少し痛くて、それでも気持ちがいい。そんなのだから、夢中になって、中毒になって、これが恋と謂うものなのだろうか。恋と謂うものは、こんなにも様々な、気持ちいい痛みを伴うものなのか。






ひとめ惚れというものを、経験してしまったようなのです。恋と謂うもの、私にはよく分からないけれど、神秘的な、耽美的と信じていたものが、まさかこんなにも通俗的な状況の元、自分に訪れるなんて思ってもみなかった。通学途中の電車の中、いつからか、離れた所にいる、窓に映る彼をそっと眺めるのが、月曜日だけの日課になっていた。どうしてか、彼はどんなに車内が空いていても席に座ることはしなかった。どうしてだろうと思い始めた時点で、私はもう彼が好きだったのだろうか。ところで、ひとめ惚れという現象を裏付ける説は二つあるらしかった。一つは発達心理学の観点からのもので、似たもの同士に沸く、親近感によるもの。もう一つ、多分、私の場合はきっとこちらだった。生物学の観点からのものである。自然淘汰の状況において、子孫を残すには遺伝子がお互い遠いほうが有利という。それを本能によって嗅ぎ分けたもの。私は多分、彼の私とは全く違う部分に魅かれてしまった。ひとめ惚れとは双方に起こるものでもあるが、圧倒的に多いのは片思いなのだという。そしてきっと、私の場合においては、後者に違いなかった。







ひとめ惚れのレシピなるものを自分は知っていた。材料は顔見知りの二人。互いの好意をからめてよく混ぜると出来上がり。この恋はひとめ惚れに違いなかったが、彼女と自分は顔見知りというわけではなかった。自分は彼女の名前をよく知らない。四天宝寺の制服を身にまとっていることから、同じ学校であるということだけが辛うじて分かる。どの学年かも分からない。どうも自分は、毎週月曜日、学校帰りの電車に揺られる15分間、そこでだけで彼女とは出会うというこのシチュエーションを楽しんでいるらしかった。そこで見る彼女はいつも本に目を落として時間を潰していた。たまにふと目を上げては窓の外を眺め、しばらくそうした後にまた本を読んでいた。本が好きなのだろうか。ページを捲る細く白い指先が、とても綺麗で、ぼうっとそれを眺めるのが、日常と化していた。いつもいつも、毎週月曜日にそうしているだけだった。話したいと思わなくもなかったけれど、一生懸命に本と向き合う彼女を眺めるだけでもいいかとも思っていた。そのため学校でもあえて意欲的に探すことはしていなかったが、ところが今日、そうもいかなくなってしまった。今自分の手には、彼女のものである、携帯電話があるのだ。







私が論じたいのはひとめ惚れの何たるかという事では決してない。どうすれば、この恋を成就させられるのかという事についてだ。まずはどうやって話しかけようか、という所から始めるべきであった。彼が私を知っているわけがないから。私は彼の事を知っている。財前光くん。私と同学年でありながら、かの有名なテニス部のレギュラーだった。図書室へよく通う私は、そこでも彼をよく見ていた。テニスコートがちょうど見える窓側の席、そこは、毎日の様にコートを囲んでいるような、テニス部にご執心な女の子達には知られていない、私の特等席だった。財前くんは何と言ってもかっこいい。それはなにも見た目だけに限った事ではない。三年の先輩にも臆せずに勝ちに行くその姿勢が、とてもかっこいいと思っていた。ひとめ惚れ、とそう言ったけれども、確かに最初は電車内で、それは起きた。けれどもう私は何度も何度も財前くんを見ていて、そうしてその度に好きになっていく。テニスをしている時だけじゃない彼を垣間見れるこの電車での時間は短いものだったけど、私を財前くんに夢中にさせるには充分すぎた。







どうしたものか。すぐに返すというのが勿論最優先にすべき行動なのだが、自分は彼女の事をよく知らないために手段を取り辛い。次に出会えるのは来週の月曜日になる。一週間も携帯電話が側にないというのは不便以外の何物でもないと想像するのは容易かった。かと言って、学校で彼女を探すのも難しい。落し物とはいえ、落とした相手を知っているのでは中を調べるのも忍びなく思う。第一今の自分は、この機会を利用しようと考えている、下心も若干あるので、余計に慎重になっていた。どうせなら効果的に使いたい。何か、いい方法はないか。







ひとめ惚れのレシピというものがあるらしい。材料は顔見知りの二人。互いの好意をからめてよく混ぜると出来上がり。それは映画の受け売りなのだが、私はその映画の主人公のような恋がしたかったのかもしれない。財前くんと、正面から向き合うなんて私にはできない。本当に、私と彼とでは住む世界が違うように思っていた。眺めていただけで楽しかった。話ができるのなら話してみたいとも思うけれど、私はそうでなくとも充分だった。その映画では落し物をしたのは主人公の思い人だったけれど、現実で落し物をしてしまったのは私のほうだった。いつのまに落としてしまったのだろう。電車を降りて、ホームに出たとき、携帯を入れていたはずのポケットが妙に軽いことに気がついて、顔からさっと血の気が引いていくのが分かった。慌ててポケットを弄ってみるとやはり、そこには入れていたはずの物がなかった。落としてしまった。一瞬の内に真っ白になる頭は、発車を合図する笛によってすぐに正常に戻る。急いで記憶を起こして考えてみると、電車に乗り時刻を確認したときは手元にあった。とすると、落としたとすれば、車内の他ありえなかった。だが気づいたときにはもう遅かった。振り返ってみるけれどドアはもう既に閉まっていて、再び乗り込むのは不可能だった。何もできずに呆然とその車体を眺めていた、その時、窓ガラス越しにこちらを見ていた財前くんと、目が合った。そこから目の前がきらきらと輝き始めて、また何も考えられなくなってしまった。やがて電車は動き出したけれど、財前くんと私の目線は引きつけられたかの様に、互いに外れることはなかった。







電車を降りていく彼女を追いかけていこうとしたけれど、それは自分の眼前で無情にも閉まったドアによって阻まれてしまった。カーディガンのポケットから滑り落ちたのに気づかないまま座席を立って歩いて行ってしまうので、自分がそれを拾ってから声をかける暇もなかった。何もできずに閉じたドアの窓ガラス越しに彼女を見ていると、ホームにいた彼女の歩みがふと止まるのが見えた。不思議に思いながらも眺め続けていると、彼女は突然に振り返ってこちらを見た。どうやら、携帯がないことに気がついたようだった。そしてそれを電車で落としたということにも気がついたようだった。その表情は茫然自失していて、彼女の視線は確かにこちらを向いていたが、それは俺だけに注がれているものではなかったのかもしれない。けれど、自分には、初めて彼女がこちらを向いて存在を認識してくれたように思えて仕方なかったので、不謹慎ではあるが、とても嬉しくなった。







落ち着いて、家に帰ってから、もしかしたらポケットではなく鞄に入れていたかもしれないと思い隅々まで探してみたけれど、そんなシャボン玉のように淡い期待はすぐに弾けてしまった。落としてしまったということで事実は確定して、もうため息をつくしかなかった。見つかる確率はかなり低いだろう。誰かが拾って駅なり警察なりに届けてくれているかもしれないが、放置されているとも限らない。普段それ程使うほうではなかったけれども、ないならないで、やはり不便に思う。誰かが拾ってくれているならば。今から携帯に電話をして、拾い主と話をしてみようか。拾ってくれた人はどんな人なのだろう。変な人の手に渡っていなければいいけれど。考え始めると不安は募っていくばかりで、一縷の望みを見つけた私の、番号を順に押す指は震えていた。







妙案も全く浮かばず手持ち無沙汰で悩み始めてから2時間程が経った頃、机の上で今までびくともしなかった彼女の携帯が、ついに震えだした。ただ何をするでもなく視界にあったそれを眺めていたら突然動き出したため、少し驚いて体が跳ねる。一人挙動不審な自分に恥ずかしさを覚えて顔が赤くなってしまい、それを誰かに見られていないだろうかと一人部屋であるのに周りを確認する自分は相当緊張していたのだろう。表にある液晶画面を確認すると、着信 自宅≠ニいう文字が見えた。薄々感じてはいたけれど、いざその文字を目にすると中々手が伸びなかった。一瞬だけ止まった息はすぐにまた元に戻ったけれど、それに呼応するように心臓が脈を打ち始めた。どきどきする。今自分の体の中で動いているのは心臓だけのようにすら思えた。体は鉛のように重くなって、じわじわと眼の奥に鈍痛がする。意識がぼうっとしてきたけれど、きっと彼女からの電話であろうその着信は頭で鳴りっ放しだった。早く取らなければ、切れてしまう。その事がはっと浮かんだ瞬間、ひどく重かった体はそんな事などなかったように軽くなって、とても自然に、反射的に伸びた手は、通話ボタンを確と押していた。






「……はい」

「あっ!え、っと、あの」

「明日朝、8時に学校前駅、来て」







さあ、

めよう。