※主人公がひどい。観月くんもドエム。 夜の寮は淋しさに包まれている。少なくとも、私はそう感じている。入学して、寮に入ったその夜から、ふいによぎる風の冷たさは、思春期の年頃の私に、突き刺すような、心の隅を静かにえぐっているような痛みをはたらかせる。 どうしてだろう。 私にも、そんな感情があったのか。最初は静かに、自分を見つめていた。地上にいる、というよりも、私が上の辺り、雲よりも高い場所で、淡々と観察する、と述べた方が正しい。 子供の頃から、そのような性分をしていたもので、親から陰で、子供らしくない子、と嘲笑っていたのを、今から三年程前、つまり、私が小学六年生の頃に初めて知った。その時に、幼かった私は知るのだ。 ああ、所詮は血の繋がりなんて、意味も無い。 私の家は、地元でも有名な、旧家であった。未だに続いている、名誉と、先人の遺した、金なら、ある。そんなことぐらい、私、知っているんだよ、母様。そんな、子供にはそぐわなくても、暗い感情をひたかくしにして、私は寮のある学校を探した。もちろん、両親ののぞむ、名門で、格式の高そうな学校を。両親は反対なんてせずに、笑顔を貼付けていた。私の入学した学校、聖ルドルフは、歴史は浅いものの、キリストを信仰していたのが決め手となったのだろう。先祖は、異常なまでにキリストへ執着していた。手始めに、家の敷地内へ小さな教会のような建物をつくりあげた。戦後の、信仰の自由が保証された頃に。 それ故に、皮肉ではあるものの、血は争えないのか両親はキリストを熱烈に拝んでいる。 神様なんているわけないじゃないか。 私は愚かな肉親に吐き捨ててやりたい。信じることで未来が変わる神様なんてこちとら願い下げなんだよ、胸元で揺れていたロザリオは、もう、無い。金属ゴミの日に収集されたらいいのではないかと思い、捨てようとした、が、阻まれた。あの男子によって。 「罰当たりな人」 観月はじめ。それが彼の固有名詞の一つだ。その頃、私は確か、彼の名前を知らなかった。人の名前を覚えることは、機械的な作業であり、頭の中のスペースがそれで埋まるのは、非生産的だ。名前を理解するぐらいならば、他のことを考えていたい。 観月はじめは(その当時彼の名称など知らなかったがそう呼称する)白い長袖のシャツに、暖かそうな、血を暗く、濁らせたようなカーディガンを羽織っている。 自信家そうな笑み。 私は真っ先にそう思う。 水と油のように相容れない人種のようでもあった。 「生憎、キリストなんて、信じていないものだからね。無意味なんだ」 十字の形をした金属は、重い。それを指先に絡み付けているのは、どうにも心地が悪かった。観月はじめは笑っている。彼は鈍感なのではないか。人が抱いている長くの憎たしさ、しがらみから解放されようというのに、彼はその瞬間を邪魔している。よっぽどの物好きか、鈍感か。 私の見ている世界と、彼の見ている世界は違う。人の問題に首を突っ込むことなんて、無意味である。これは私の持論だ。世の中は諸行無常であり、死んでしまったら何も残らない。名誉も、富も、なんにも。死んだらなくなるものに頑張るのも、馬鹿馬鹿しい。 「無意味だというのならば、それを僕にくれませんか?」 「罰当たりなものを、君は受け取るのかい」 滑稽そうに疑問を投げかける。本当は、なんとも思っていない。彼がロザリオを受け取ろうと、明日の朝にはゴミ収集に遭っていたのだとしても、それはどうでもいい話なのだ。きっと、顔には表れていないのだろう。代わりに、取って付けた様な両親と同じ笑い方が、私の顔に浮かんでいる。 「ええ」 観月はじめは笑う。指先に絡まっている、金色の繊細な鎖を、慈しむように、愛おしそうに。私には分からない。この金属のなにがそうさせるのか。 「貴女と、触れ合っていたものを欲しいと思うのは、いけませんか?」 朱で染まっている白い肌は、得体のしれない。私を真っ直ぐに見据える瞳なんて、さらに、なにがなんだか分からない。眺める行為というのは、感情を起こさせない。ただ、波のない海にいるように、私は落ち着いている。その代償と呼ぶべきなのか私はいつからか必死でしあわせなふりをしていた世間一般的な人よりも、ひとの苦しみが、喜びが、感情が、理解できない。 「……私には、理解できなさそうだ」 観月はじめは、金色に触れる。細長くて、白魚のような、探るような指先に、侵されているようだった。 気分が、悪くなる。 入ってくるなよ、君と私は違う、理解なぞされてたまるものか、領域を、侵されてたまるものか。傲慢な主張が胸に蔓延る。 やがて、その触り方は変わる。金色ではなく、私の指先へと、対象は移り変わる。私は、指を振り払った。 「……やめてくれないか」 私の目には、嫌悪が滲んでいる。初めてだった。感情をあらわにしてしまうことが。しかも、名前も知らない他人に。 観月はじめは驚いたように目を見開いてから、恍惚したような、表情をした。光の無い瞳は、熱を帯びている。 その顔に吐き気がするようだった。 乾いた音が、観月はじめの白い肌をした頬に走る。私の手が、動いてしまったのだ。 「それ、あげるよ。だからもう、私に触るな」 すたすたとスリッパで歩いていく私は、ある意味全力であった。混乱している。動揺を隠すように、後ろを見ないで、速く、速く、歩く。生まれて初めて、人を殴ってしまった。どうしよう、どうしよう、どうしてなのだ。自分が、初めて理解できなくなった。 その夜、なんともいえない気分で眠りについた。 次の日、観月はじめの部屋のドアの隙間から、―――私にとって存在価値を無くした―――、ロザリオが見えたらしい。 らしい、というのは情報の発信源が私ではなく、他の女子だからだ。その女子は焦がれるようにしてひめやかに観月はじめへの想いを他の女子と集団になって語る。それが私のものだと知ったら、どうするのだろう。怒りの矛先は、私に向かうのだろうか。 「おはようございます、名前」 「おはよう。私の名前を呼ばないでくれる?はらわたが煮え繰り返りそうでね」 彼は、んふっ、と特徴的な笑い方をした。それだけで、苛立ちが走る。私の名前を呼ぶ声はひどく甘い。 「それと、昨日はすまなかった。頬は大丈夫?」 「心配、してくれるんですね」 「苛立ったとはいえ、悪いのは私だからね」 見たところ、頬に異常はなさそうである。観月はじめが自分の頬に触れて、恍惚としているのは見なかったことにしておきたい。 「いえ、まさか、名前に触れられるとは思いませんでしたよ」 「あれをよく、触れられたなどと言えるね。ポジティブシンキングにも程があるだろう。あと、名前を呼ぶな」 「随分と、勇ましい性格をしているようですね」 彼の一言一言が私の癪に触った。ああいらつく。他人にペースを崩されそうになっている。らしくない。 「そちらは随分、こちらの気に障るねえ」 私は皮肉を込めて笑う。観月はじめは私が嫌そうな表情をしていても、愛おしそうに見つめてくる。気持ちが悪い。 君、被虐願望でもあるの?私が問うと、観月はじめは、貴女にだけですよ、と猫撫で声のような、媚びた音を発する。彼は落とそうとするものすべてにこのような声を出す。そこまでして、好かれようとするのに、何の意味がある。私には、理解が出来ない。 「私は君が嫌いだよ」 「僕は貴女が好きです」 それから、私はまた無視をするように離れた。朝の寮は、眩しすぎて、目が眩みそうになる。まるで、あのロザリオの金色のように。 その次の日から、観月はじめとは毎日、朝と夜に一度ずつ会うようになる。その度私は眉を寄せ、彼はあの笑みを浮かべた。ねちっこい、媚びるような笑み。 最初は虫酸が走りそうなぐらいであった。そのため、時間帯を変えてみたり、寮へ向かうルートを変えてみたりした。けれども、無駄だった。彼は余裕そうに、先回りをしている。 そして、私は言うのだ。 「私は君が嫌いだよ」 観月はじめは決まったように答える。 「僕は貴女が好きです」 観月はじめの背は、私よりも数センチ程高い。テニスをしているのだったか、それにしては線が細く、中性的だ。汗が似合わない。 「近い、離れろ」 「それで僕が離れるとでも?」 「出来れば半径一メートル以内に入らないでくれ」 ここまで棘のある言葉を人にぶつけてしまうのに、葛藤するべきなのだろう。それでも、そんな気持ちは更々無かった。なんというか、束縛されているのだ。名前も知らない相手に、見えない圧力をかけられるのは、苦痛でしかない。 「私は自由が好きだよ。名前も知らない君なんかより、ずっと、私は自由を愛しているんだ」 「ならば、僕がその自由になりましょう」 それと、僕の名前は観月はじめです。 彼は悔しそうに、顔を歪め、すぐに隠すようにして、余裕にした。 観月、はじめ。 綺麗な名前だと思った。彼らしい、聡明そうな名前。長い睫毛に縁取られた瞳は優しくない、淋しさと同じようなえぐる目つきをしている。観月はじめの好意とやらは、純粋なそれではない、私ははっきりと、確信する。詮索するような、その目、気に入らない。それは、支配欲に近い。どうやって捕らえようか、考えている、おぞましい肉食獣や、人間の瞳。 ああ、彼は満たされている幸福を知っているのだね。 私にとっての淋しさとは、孤独であり、孤独は自由だ。 私は多数派になんてなれなくていい。明るい方へいれなくていいから、氷の上にそびえ立つ、自由を手にしたかった。自由は、明るいものなんかじゃない。静けさと淋しさを伴う、痛みのような権利。 それによって私はプライドを満たすことが出来る。私の自由は、私が決めるものなのだ。彼が決めつけることではない。 「……ねえ、観月くん、といったね。私の自由は私の自由で、君は君だ。私の自由にはなれない」 「勝手に、貴女は決めつけているのではないのですか」 「ああ、そうかもしれないね」 だけどもね、観月くんとやら、君の好意とやらは、私にとっては信用が出来ないのだよ。 唇の端を上げ、目を細める。観月はじめの瞳が、激しい怒り、とでもいうべきか、そのような類の感情で、染まっていく。目には、自尊心一色、そうだ、これでいい、私も、君と同じ。君と同じ、プライドがあるのだ。 「悔しいだろう、私がものにならなくて。君はやすやすと私が堕ちると思っていたようだがね。生憎、私は自由でいたいんだ。君からの愛情とやらは、ゲームにしかみえないものでねえ。ねえ、観月くん、いい加減、腹の探り合いは、やめにしようか」 唇に指を当て、私はくつくつと笑う。観月はじめはいらついたように、癖のついた髪を弄ぶ。彼が激情家であることはもう、気がついている。 「……腹の探り合い、だなんて、そんなこと、しませんよ?」 「見え透いているねえ。一体、君はそれで、何人、手玉にしたのだろう」 大袈裟に私は肩をすくめる。しかし、私には謎が残っている。何故、彼はなんのメリットのないゲームを選んだのだろう。 「楽しかった?私が苛立つ姿を見て、君は楽しかったとでもいうのかい?」 「ええ」 観月はじめは素直に肯定をした。迷いもなく、光の無い瞳で、あの時のように恍惚しとて。 「貴女がそんな風に見つめるのは僕だけだ。まるで、蔑んだように、ゴミを見下す姿、それだけで、―――興奮した」 「被虐願望も、大概にしてくれないか」 ふふ、と上品に笑ってはいるものの、彼の目には、焦がれるような、甘すぎる情が宿っている。私がその対象にされるのには、些か抵抗がある。少なくとも、彼は私の自由にはなれない。彼は私を、欲望の対象としているだけなのだから。私をまことに理解しようとはしていないのだ。自分の欲望を突き付けている、醜く愚かな、可哀相なひと。 「私があいしてあげようか。君が嫌がる純粋な愛を、君に与える。君は私が蔑めば蔑むほど、興奮するのでしょう。だったら私は君の嫌がる扱い、正反対のことをすればいい。だから、あいしてあげる」 にこお、と目を細める。彼は期待するような顔付きをした。ああ、分かっていない。 「つまり、これはゲームだよ。私が飽きるまで、恋人として、私は接しよう。君が私になんにも性的興奮が沸き上がらなくなったら、その時点で終了。それでも君がいいというのならば、私は諦めよう」 観月はじめの髪、頬、睫毛、唇を、聖人のごとく私は触れる。あくまで、柔らかく、優しく。 「……つけあがらせる気ですか」 「ああ、その気にさせておいて突き落とすのもいいねえ。それで興奮する人種なのだろうけれどね、君は」 「よく、分かっているようだ」 「勝つ気でいるのかい?」 「当然です。それに僕は、被虐願望だけでなく、普通の愛情も、貴女ならば性的興奮を抱くものですから」 「私は、狡いよ。君が思っているよりも、ずうっとね」 仮面をつけるように、私は微笑んでみせる。スカートのプリーツが、風で揺れた。しかし、その風はもう、淋しくなんかない。私は、淋しさを蹴散らす手段をようやく見つけたのだ。大人の考える楽しみよりもずっと愉快な、向こう見ずな、今しか出来ないゲーム。 「あいしているよ、はじめくん」 嘘だけどね。心の片隅で呟いたのを、彼は知っているのだろうか。 |