作品 | ナノ




海へ行きたくなった。
なぜだかわからないけれど、急に。本当は、校則で禁止されているのだけれど、私は一人で、誰にも言わずにこっそりと、学校の帰りに行ってみた。後ろめたさなんてなくって、ひらひらと風に舞うスカートの感覚が、こそばゆい。

暑い。

今は七月だ。夏休みに近づいたぐらいの、七月。もう季節は夏になっていて、夕暮れに近い今の時間でも、蒸し暑い。じわり、と体を舐め回すように、湿り気を帯びた太陽の空気が包んでいく。陽は、未だに衰えない。
からりと晴れた、雲のない水色だけが眼球に映った。
海も、控えめな光が反射されてきらきらしている。
生命が、集結しているみたい、私は息を漏らす。
私は革靴と白いハイソックスを脱いで、手に持ち、生命のような色が混じり合って、透明をした海に足を踏み入れた。
ぱしゃぱしゃと穏やかな波が足に伝わる。寄せては引いて、引いては寄せる、呼吸に似ているね、口の端を小さく私は上げる。
私は突然、海へ帰りたくなるのだ。本当に、ふいに、突拍子もなく。それはとても懐かしくて、かじかむような、眠りたくなるような、言葉じゃ形容できないぐらいに複雑な根底。故郷みたいに出身地に帰るのではなく、胎内に回帰したくなる、というのが一番近い。海というものは、広すぎて、胎内、という言葉が似合わない。

「随分と、楽しそうだな」

誰だ、恐る恐る、私は目を向ける。低めで大人びた声色をしていたので、大人に、見つかったのだと、想像してしまう。
振り返ると、予想は大きく裏切られた。

「や、なぎくん……」

昨年まで、同じクラスだった。少しだけ、話したことがある。近寄りがたいかと思えば、ユーモアに溢れていて、かと思えば器用にするりと逃げていく、喰えないひと、それが、柳くんの印象。私は図書委員会に属していたので、わりと柳くんと顔を合わす機会はあった。世間話程度であったけど話すことも、ごく稀にあった。柳くんのことは別に嫌いではない、クラスで浮いている私に、話しかけてくれたのだから、いいひとだと思ってはいる。
柳くんの、第一ボタンが開いたシャツ、緩められたネクタイ、ぱつん、と切り揃えられた緑のかかっている黒髪が、潮風に揺れた。

「あ、その、ごめんなさい」

「どうして、謝るんだ?」

「だって、校則破っちゃったし、柳くん、生徒会でしょう。私は違反生徒なんだよ。だから、ごめんなさい」

俯きながら、当たり障りのなさそうな言葉を連ねる。海から、陸へ歩くと、気持ちの悪い感触が、足の裏へ伝わった。砂の、粒のような感触。
柳くんは私を咎めるような視線で、見てはいないようだ。ただ、興味深そうに、穏やかな笑みを浮かべている。読めないひと。

「謝るよりも、自分のことを心配したらどうだ。その足で、靴は履けそうもないだろう」

柳くんに微笑されて、私は自分の足を眺める。淡い茶色や濃い灰色がこびりついていた。
手で、柳くんの近くに招かれ、私は情けなくひょこひょことついていくと、コンクリートの階段へ、座らされた。

「足を、伸ばしてくれ」

「う、うん」

私は素直に足をコンクリートへ投げ出した。足にかかっていた水がコンクリートに吸収されて、灰色が、黒に近い湿りを帯びる。
柳くんは鞄からタオルを取り出す。

「安心しろ、使ってはいない、ただの予備だ」
と諭すように言って。

「柳くん、いいよ、私なんかにそんなの、悪い」

「仮にも名字は女性だろう。生憎、放って帰したくはないたちでな。それに、名字が裸足で帰ろうと考えていた確率、八十五パーセント」

淡々と述べていく柳くんに、私は度肝を抜かれた気分になる。たしかに、そうしようとはしていた。その気になれば、裸足で帰ることは出来るはずだし、近くに水道とかがなかったら、それでもいいと、思っていた。まさか、それを読み取られているとは考えてもみなかった。確率なんて、どうやって求めるのだろう。
その瞬間に、水が、どぼどぼと砂のついた箇所へかけられる。押し寄せる冷たさは海水とは違う。本来、飲料水としてつくられた水を、洗い流すためだけに使うのはなんだか憚られた。

「贅沢」

小さく、声に出すと、柳くんは

「自販機で売っているようなものだが……」

と呆れたように言う。今度は砂ではなく、水を被った足を、タオルで拭いていった。 それでも、贅沢なようにしか思えなかった。使うべき用途で使わないことは、私にとっては贅沢なのだ。

「あの、タオル、自分でやるよ」

「いいんだ、俺が勝手にやっている、お節介のようなものだ」

柳くんは、やっぱりいいひと、私は感心する。世の中には善人がいるんだなあ、と。ミネラルウォーターを私の足に使ってしまおうとするなんて、たとえ安いものであったとしても私には出来そうもない。まず、私からその人は離れていくか、拒絶されてしまうか、そのどちらか。

「柳くんは、いいひとだね」
私は目を細める。

「下心があるのに、か?」

「だとしても、いいひとだよ。私を放っておかないで、近づいてくれるんだから」

はたして、下心とはどういうものか。私に、下心。私によく見られて、なんになる。既に、よく見られているし、人望だってあるじゃないか。
柳くんは、驚いたように、目を開き、それから滑稽そうに笑う。

「近づくのには、意味がある」

「意味?」

「少なくとも、すべての事柄に無意味なことなんてないと、俺は思うぞ」

だとしたら、柳くんの行動にも、意味なんて、あるのか。柳くん、柳くん、その名前もまるで得体の知れない魔法みたい。

「気づいては、いないようだけどな」

その表情があまりにも悲しすぎて、綺麗だった。柳くんは綺麗。涙を堪えるような、そんな笑い方をする。柳くん、泣くのだろうか。柳くんってなんだか、器用すぎて可哀相になってしまうひとだと思う。だから、誰かがいたら泣けない。弱いところを、見せたくないから。能力は優れているのに、なにかが追いつかなくて、その齟齬のようなものが生まれるのだろう。

「柳くんって、砂で出来たお城に似てるね」

「砂の城、か」

「そう。柳くんっていいひとだと思う。だけど、そのせいで、周りに弱いところを見せられないんだよ。私、柳くんのこと尊敬はするけど、辛そうに見えることがあるから、可哀相。
勝手な解釈だし、失礼で、ごめん」

声帯から放たれる、この甘ったるい声が、私は嫌いだ。小さくて、細くて、高くて、加護欲をそそる声。私には、似合わないし、自分の一番嫌いなパーツ。きっと、柳くんにもそんなしがらみのようなジレンマが在るのだろう。私には理解できない、柳くんだけのジレンマ。

「ならば、名字は海のようだ」

「海?」

「穏やかかと思えば、荒々しく、なにも知らずに波となって壊していく。砂の城も、すべて」

私は、砂の城を壊してしまったのだろうか。飲み込んでしまったのだろうか。
柳くんに、なにか、したのだろうか。

「名字。俺も、海に入ってきてもいいか」

「なら、私は水を買いに行くよ。柳くんみたいに、砂を洗い流す」

「お前と、一緒に入りたい。駄目か?」

「一緒に?」

ああ、柳くんの言葉は懇願しているようで、声はひどく穏やかだ。私は拒まない。さっき洗ってもらった足をまた、裸足にする。柳くんの隣に行って、肩が触れそうな距離になった。私は顔を逸らす。柳くんは嬉しそうで、それで柳くんが波のおそろしさを忘れてしまえばいいのに、なんて思った。
海はオレンジ色になっている、夕日も、沈みかけて、シンデレラのタイムリミットみたい。

「おとぎばなしは、嫌いか?」

「心でも読んでしまったの、すごいね柳くん」

「口に出ていただけだ」

シンデレラは響きはかわいらしいのに、意味は灰かぶり、灰を被っていても、お姫様はお姫様で、ハッピーエンディングの資格があるのだろう。

「柳くん、今日だけは砂の城じゃなくて、お姫様になろうよ」

「俺が姫なのか」

「うん。たまには、お姫様の気持ちになってみなくちゃ。遠くから眺めるのは、魔法使いの仕事。柳くんは今までずっと魔法使いだったじゃない。だから、今日は私が魔法使い」

「どうせだったら、俺が王子で、名字が姫になればいいだろう。魔法使いじゃ、王子は幸福になれない」

柳くんは、私の手をとって、海へ足を踏み入れる。制服のスラックスを捲りあげて、手についていた、黒いリストバンドのようなものを外して。王子はどうやって幸福になるのだろう。隣に美しいお妃様がいて、国王に君臨していれば、幸福なのかしら。そんなの、人魚は泣いて泡になってしまう。

「王子はどのようなお姫様をご所望で?この魔法使いが連れて来て差し上げましょう」

「魔法使い、というよりも、商人や家来のようだな」

くすり、と柳くんは笑った。私も笑う。

「ならば、魔法使いさん、俺のものになってくれ」

「嫌ね、そんな冗談。あなたには、他に幸福にする姫がいるでしょう。こんな渇いた手、つないじゃあ、駄目」

今の私は老婆だ。皺くちゃな、白髪で埋まった忌まわしき象徴のような姿。
美しいものは、美しいものと結ばれなくちゃいけない。魔法使いは、呪いにでもかかったように、願いを叶えていくだけ。

「冗談なんかじゃない。どんなひとがいても、俺はあなたを選んでいた」

「一種の、気の迷いでしょう」

「本気だ。魔法使いさん、いいや、
―――名字名前と言った方が正確か?」

現実に帰ったようだった。沈んでいく夕日はあまりにも現実すぎて、私は逃げられなくなる。

「一時でも手に入ればいいとも考えた。だけど、かりそめじゃ満足できそうもない。姫も、魔法使いも、いらない。名字が、名前が欲しい」

不思議と、名前を呼ぶその声は、馴れ馴れしく感じることはなかった。その声に、私はくつくつ笑うのだ。

「ねえ、これって心中してるみたいね」

私よりも高い背丈に、背伸びをして、首の辺りに手を伸ばし、抱きしめる寸前のような形になる。
私の声はひどく甘い。
柳くんは泣きそうにあの綺麗な微笑を浮かべた。
私は抱きしめることはしない。触れれば届く距離に在るのに。
柳くんの、さらりとした髪が、頬にあたる。頬に両手を添えられて、唇に、感触。
目を閉じる前に、夕日が沈んでしまった気がした。
魔法の時間は、もう終わり。
砂浜へ、歩く。じゃりじゃりとつく砂が、煩わしい。ミネラルウォーターの余りを掛け合って、私は柳くんの足を拭った。柳くんの足は、白く、華奢なようで筋肉質な、逞しい足。
私の足が拭われる時に、

「ちゃんと、食べているのか」

と聞かれた。私は曖昧に笑う。それから柳くんも追求はしなかった。きっと信じてはくれない。
静かになってしまう帰り際に、柳くんはずっと手を繋いでいた。振り返らずに、なんにも話さずに。分かれ道になって私は後ろを見ずに、

「さよなら」

と気まずそうに唇を動かす。柳くんは、歩くのをただ、見ていたのだろうか。それでも、手を、名残惜しそうに離して、私はその瞬間、背徳を抱く。あんな風に、泣きそうに、綺麗に笑っているのかしら。
ああ、でも私には柳くんを抱きしめられる権利なんてない。抱きしめちゃ、いけない。今更、気づきたくなんかなかった、魔法使いのままでいたかった。
柳くんの前で、名字名前になってしまった、唇の熱と、塩の香りが、おもねるように残っている。



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