聞こえなかったふりをした
りりりん、と。古臭い黒電話のような着メロが鼓膜を震わせた。着信音の個別設定など幸村がしている筈も無いのだが、何故だかディスプレイを見ずともそれがあの橙色の頭をした男であると予感して、それが当たっていることを確信していた。
「鳴ってるぜ、電話」
「知りませぬ、父上か兄上であろう」
慶次を泥に汚れた雪の上に押し倒したまま淡々と嘘を吐いた。父や兄を粗末に扱うことは絶対にしない幸村を知っている彼に通じる嘘とも思っていないし、そもそもこれは予想だ。嘘ですらないのだろうが幸村にとっては立派な嘘だ。電話を鳴らす相手とは魂が繋がっているのだ、解らない筈がない。
「…急用だったらどうするんだ?」
「後で怒られまする」
「今日のアンタ、可笑しいね」
慶次が言い終えると同時に、ぴしりと側の湖に浮かぶ氷のひび割れる音が着メロの合間に小さく聞こえた。
「慶次殿、某を連れて行って下され」
此処でなければ何処でも良い、そう、我が儘を言えばこの着信音が鳴らない、電波も届かない異国の地が良い。あやつから逃げられるならば、何処へでも。
「幸村が望むなら何処へでも連れてってやるよ。でも、な」
穏やかな笑み、慶次特有の優しげな微笑みは冷え切った幸村の内側を暖かくする。風来坊と呼ばれていた彼ならば、太陽のような彼ならば、己を必ず救ってくれる筈なのだが。一瞬だけ頬を掠める指先は酷く冷たく、背筋の毛が逆立つような感覚に襲われた。
「逃げられないよ、因果からは」
優しげな笑み、それに加えた穏やかな声だけは一つも変わらないのに。まるで冷水を浴びたように血が冷えていく。背中に、視線。
「旦那、主従は三代って言葉…忘れちゃったの?」
ひやりと底冷えする声が鼓膜を引き裂くように響き、耳元を冷気のような吐息が掠めていった。首筋にはぽたりぽたりと水が垂れていく。当たり前だ、彼は、佐助は先ほど、喧しい電話と共にあの湖へ、沈めたのだ。ならば何故この携帯は鳴り止まない、何故佐助が、ここに。
「あと一回、ころして魅せてよ」
そう言って佐助はげらげらと笑った。けたたましく、狂ったように──否、元より狂っていたのだお互いに。側に在りすぎてお互い本来大切にしたかったものを見失ってしまった。
幸村は蒼白になって未だ着メロを流し続ける電話を湖に放り投げたが、りりりんりりりんと佐助の笑い声と共に頭を揺らす。気が触れる、そう思って頭を抱えて慶次の胸元にうずくまる幸村の背に優しく背に頼りがいのある腕が回された。そして、塞いだ耳元の隙間から密やかに明るい声が吹き込まれた。
「さぁさぁ、何処へ行こうか」
<<20081215>>