ましろの花





 い、え、や、す。
 名前を呼んだら「どうしたんだ」と返事が返ってきた。優しい声が頭に響いて、発狂してしまいそうだ。
空気が濡れている。もう、何日も雨が降り続いていた。そう、あの日からずっと。どこもかしこもじっとりと水分を含んでいて、息苦しい。身体も重い。三成は突っ伏した。横たわる男の胸元に。
 臭い、嫌な臭いがする。血と泥と黴と、腐った肉の臭い。太陽の香りはすっかり消えうせてしまった。
これもすべて、この、雨のせいだ。

「い、え、や、す」

 深呼吸をするようにもう一度名前を呼んだ。口を開くと臭いがどっと飛び込んできて咽そうになった。
 しかし、それを癒すように、優しい手が背中を撫でる。

「なにをそんなに泣くことがある」
「わたしは、全部うしなってしまった」

 水分が次から次へと溢れ出てくる。止め処なく、己の血液さえも、外へあふれ出してしまうような気がした。不安の渦が竜巻のように身を取り巻くのだ。逃れられない。ああ、逃れたくない。

「貴様に、すべてを奪われた」
「そうだ、ワシが奪った」

 それは必要なことだった。密やかに囁く声が、腐った畳に当たって、跳ねて、次には砕けた。
 奇麗事を、嘯くな!ほんとうの事を言え!

「殺してやる、殺してやる!」
「もう死んでるよ」

 憎悪が輪廻する!死んでは蘇り、何度も貴様を殺す夢をみるのだ。
 身体を起こす。そして、ぽっかりと口を開いたまま閉じることのない孔に、刃を突き刺した。冷たく、ぶよぶよとしている。気持ちが悪い、だが心地が良い。何度も抜いては刺した。赤黒い刃がしとりと濡れて、蛞蝓のようだ。

「いえやすう、いえやすうう」

 ぐじゅぐじゅと濡れた音がする。瓜が弾けて汁が零れる。皮膚が弾けて、体液が零れた。ぱあん。柔らかい音。ずん、と腰が重くなる。吸い付く感触に戦慄いた。

「あ、あ、うあ、ああああ」

 ごぽりと白が溢れた。家康の孔は、既に真っ白だった。それに上塗りするかのように白が重なっていく。粗相をして、汚いやつだ。ぼんやりとそう思った。
 家康の顔は安らかな顔のまま、止まっている。触れてみるとぶよぶよとしていて、引き摺りだした腸の表面のようだった。
顔から首筋に視線を移すと、そこには赤黒い線が一本。扼殺痕が残っていた。それに添うように、首に手を回した。ぴたりと当てはまる。
 そうだ、私は家康をころしたのだ。
 家康は死んだ。これを、もう殺すことはできない。絶望がぷかりと浮かんできた。絶対的な浮力を持って。

「い、え、や、す」

 もう、返事は返ってこない。
 咄嗟に枯れ果てた油皿の側にある、火打石を取った。
かちん、かちん。何度か打つ内に、火花が散る。赤が、家康の腹に落ちた。そこから、忽ち火が上がる。触れてみたくなるような、柔らかい、灯。

「いえやす」

 火はどんどん侵蝕していった。家康の身体を舐めるように。その様は、何かを彷彿させた。それが何であるかなど、今となってはどうでもいい。
 
「きさまは、あたたかく、うつくしいのだな」

 どんなに薄汚く朽ち果てようとも、太陽の如き輝きを放つのだ。
 肋骨の覗く胸に頬を寄せる。心臓はない。とうの昔に、三成が喰った。
 空腹を誘う香りがした。何度も嗅いだことのある、人間が焼ける臭いだ。
 熱い。全身が燃えるように熱い。水分も何もかも奪いつくされてしまう。眼球だけで、家康の顔を見た。そこには微笑を浮べて、悦楽に誘うおんながいた。背中に、手が回される。母親が子を抱くように、あたたかい。

「い、え、や、す」
「みつなり」
「いえ、やすううううう」
「共にいこう」

 行く先などない。あるとするならば地獄修羅道。永久にころしあうのだ。
 なんどでもこ、ろ、し、て、やる!
 
 どろりと眼球が蕩けた。
もう何も見えない。















≪20101108≫








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