幼馴染の距離



菊は本が大好きだった。昔から人と関わることが苦手な菊が、逃げ込んだ先が本の世界だった。
おかげで本の知識は豊富になった。それこそコミュニケーション能力の低さをカバーできるほどの知識量で、愛想はないが本屋の店員としてはかなり優秀な働きを見せていた。

「菊ちゃん! なんかこう、キュンキュンする恋愛小説とか読みたいんだけど、いいのない!?」
「……どうしたの、好きな人でもできたの?」
「そうなのよ、聞いてよ! 実は隣のクラスのね……」

女子高生の恋愛話に耳を傾けたり。

「菊ちゃんや、昨日テレビで紹介されとったアレ、置いとるかのぉ」
「アレですね、取ってきます」
「ありがとねぇ」

抽象的な言葉だけでも、客がなにを求めているのかを察したり。

「学校の宿題で、どくしょかんそうぶん書くんだ! どれにしたらいい!?」
「えっと、そうだね……キミは普段どんなことが好きなの?」
「サッカー!」
「なら、この辺の……」

子供の目線で本を探したり。

聖としては、正直、菊がここまで人と話せるとは思っていなかった。本質的な部分は聖もよく知る昔の頃とあまり変わらないようだったが、それでもやはり、この幼馴染についてなにもわかってはいなかったのだと、改めて実感した。

菊には、嫌われているのだろうと思っていた。
突然拒絶され、避けられたのだから。理由はわからない。知らず知らずのうちに菊の気に触ることをしてしまったのかもしれないが、話してくれなければ改善しようもなかった。
だが、忙しさにかまかけて、歩み寄ることをやめてしまったのは自分だ。

菊の祖母からバイトの話を持ちかけられたとき、もちろんありがたいことだったのだが、菊はそれでいいのかと考えなかったわけではない。ただでさえ嫌われているのに、その上この状況だ。どう考えても、菊の平穏を壊す存在だろう。
ではなぜ、聖は今ここにいるのか。
あの日、身を挺して聖を止めようとした菊の表情が、忘れられなかったからだ。

「菊、昼食にしようっておばさんが」
「え!? あぁ、うん、わかった。もうそんな時間……」

街の片隅の小さな本屋では、客足はまばらだ。ちょうど店内には誰もおらず、菊はレジカウンターに呼び鈴を置いて居間へと戻った。

開店から閉店まで働く聖と菊には、菊の祖母お手製の昼食が振る舞われる。逆に、祖母が店番をしている日は菊が料理当番だ。あの菊がキッチンに立っている姿を想像すると、ヒヤヒヤしてしまうのは仕方のないことだろう。
しかし、流石に何年も続けていればそう事故は起きないようで。菊の料理は彼女らしい素朴な味がして、なんだか込み上げてくるものがあったのは、菊が怪我をすることなく調理を完遂させたことへの関心からだろうか。
この本屋にとってはこれが日常で、そこに聖がひとり加わっただけのこと。

「ここに来てから少し経ったけど、どう? 菊とはうまくやれてるかしら?」
「えっ」

菊の祖母が、突然そんなことを聖に訊ねるものだから、話しかけられた当人ではなく菊のほうが驚いてしまう。

「菊が人に教えるなんて初めてだから、どうなることかと思ってたけど……やっぱり相手が聖くんだからかしら、順調そうねぇ」

祖母には、そう見えているのか。菊のぎこちなさに気付いていないわけではないはずなのに。
菊はこれまで喧嘩もしたことのない祖母のことを、初めて恨んだかもしれない。
そして聖は、内心がどうであれ、きっと当たり障りのない返答をするのであろうことはわかりきっていた。

「ええ、二人ともこんな僕にとても良くしていただいて……感謝に堪えないですよ」

否定も肯定もしない。強いて言うなら肯定。
そこまでは菊の予想通りだったのだが、祖母の孫語りはまだ終わらなかった。

「菊ってほら、危なっかしいでしょう? だから聖くんがついててくれると安心だわぁ」
「任せてください」
「ちょ、ちょっと……!?」

そうして菊を置き去りに、二人で話を弾ませてしまうのだった。



「ねぇ、やっぱりなにか気にしてる?」

話を切り出したのは、聖から。
元々浮かない顔をすることが多かった菊だが、昼食時の会話のあとからはより顕著になった。

「な、なんでもないよ!」
「それ」
「……?」
「菊はさ、昔からなにかあるときそう言うんだよ。なんでもない、って」

それは幼い頃、聖が菊から散々聞かされた言葉だった。結局、なんでもないことなんてなかったから、今このような距離ができてしまっているのだ。

「僕がここにいること、関係してるんでしょ」

それは疑問系ではなかった。そうだと確信している言い方だ。
以前、離れていく菊を追いかけることができなかった。
もう同じ轍は踏まない。
この狭い空間の中で逃げられないことは菊も重々承知しているはずだが、さらに実感させるために本棚に追いやってこれ見よがしに逃げ道を塞ぐ。
そうすればようやく観念して、おずおずと話し始めた。

「なんていうか、その……聖は、嫌じゃないのかな、って」
「僕が? どうして、それはむしろ僕が言いたいことで……」
「え? えっと……」

なんだか話がすれ違っている。それも、多分よろしくない方向に。
深掘りしようとしたそのとき。

「ごめんくださーい! オオワ運輸ですー!」

なんて間の悪いことだ。
菊が「助かった」と言わんばかりの顔をするのが面白くなくて、少し意地悪をしたくなってしまった。

「……また今度、聞かせてもらうからね」

あくまで優しく、それでいて脅すように。
本当に嫌がるなら、そこまで追い詰めたりしない。
けれど、もしそうでないのなら。

聖がここで働くことになったとき、菊は驚いてはいたものの、不快感を示してはいなかった。働き始めてからも、彼女は戸惑いこそすれ、嫌がっている様子は見受けられない。少なくとも、聖の目にはそう映った。
もちろん、顔や態度に出していないだけの可能性もあるが、仏頂面に見える菊も実は顔に出やすい。感情の起伏自体は確かに乏しいかもしれないが、隠すのは下手くそなのだ。

離れていくわけでもなければ、近づいてもこない。
むしろ聖や良衛のしたことを思えば、離れていかないだけでも並大抵のことではない。
それに、あの日の行動だってそうだ。嫌いになった人間への態度というには説明がつかない。

わかり合えないと思っていたのは、わかった気になっていたから。

安心した表情から一変、顔をこわばらせた菊に満足して、聖は荷物を受け取りに行った。

- ナノ -