うつくしくひかるものの嗚咽



厳木菊には幼馴染がいる。
とはいっても、今やその言葉を持ち出すのも気まずいような間柄になってしまった。

相手は、大学の医学部へ進学するほどの頭脳を持ち、居合の腕は達人級。体格にも恵まれ容姿端麗、それでいて驕ることなく物腰柔らかという、全てを兼ね備えたような男だった。
そんな男が、集団生活の中に放り込まれたらどうなるのか。
それはもう、モテるのだ。
対して菊はといえば、これといって優れたところもなく、成績は可もなく不可もなし。顔の美醜については他者に判断を委ねるよりほかないが、身なりを整えることを苦手としており、見栄えはよくないことだろう。しかし特に酷かったのは、運動能力の低さだった。よくドジを踏むし、要領も悪い。体育の授業では常に晒し者のような有様。おかげで学校内での菊の地位は随分と低かった。
そんな女が、人気者である男の側にいたらどうなるのか――。

「幼馴染だかなんだか知らないけど、調子乗らないで!」
「あんたみたいな鈍臭いのは、聖くんの邪魔なのよ! わかんないの?」
「目障りね、聖くんの周りをうろちょろしないでくれる?」

こうなるのだ。

小さい頃は、なにも気にせずにいられた。
内向的で人と関わることが苦手だった菊にとって唯一友達と呼べる存在が、家族ぐるみで付き合いのあった福城聖だった。
菊は物心がつくよりも前に、両親を亡くしていた。幸いなことに、気のいい祖母に引き取られ、その後も特に不自由なく過ごした。夫に先立たれて以来一人で暮らしてきた祖母と、幼いながらに親を亡くし一人になった菊。二人は身を寄せ合って生きてきた。その寂しさに耐えられたのは、同じ年齢の子どもを育てる福城家が、親身になってくれたおかげだろう。
菊の運動音痴は、日常の中でも遺憾なく発揮された。やんちゃをするわけでもないというのに生傷が絶えない菊のことを、聖の母はとても気にしていた。
それもそのはず、彼女は医者だった。息子である聖は、そんな母に憧れていた。菊の手当てをする役目も、聖の母から聖自身へといつの間にか受け継がれていった。菊に世話を焼いてくれたのは主にこの二人だったが、聖の父も、菊が遊びに来ることを歓迎してくれた。外では人と良好な関係を築けない菊にとって、福城家で過ごす時間は心の拠り所だった。
いずれ聖の母は、少しでも多くの子どもたちを救いたいと、医療の届かない国での活動に参加するようになった。寂しくなったが、それよりも誇らしい気持ちが大きかった。菊と聖は、互いに寂しさを埋め合う存在だった。

しかし、平穏は長くは続かなかった。
家が近いのだから当然、小学校、中学校ともに同じ学校に通っていたのだが、学年が上がるにつれ聖と菊の人望の差が浮き彫りになる。聖は男女どちらにも好かれていたが、特に女子からの人気が根強かった。菊が目の敵にされるのは、時間の問題だった。

「菊? なにかあった?」
「な、んでも、ないよ」

聖には、なにも言えなかった。
彼女たちに突き付けられるよりも前から、菊は薄々感じていた。この出来の良い幼馴染との格差を。隣に並ぶには、あまりに不相応だということを。

まずは少しずつ、それとなく離れてみようとした。

「ねぇ菊、足怪我してるでしょ? 見せて」
「し、してない。大丈夫……!」
「嘘。右足庇って歩いてる」
「えっなんで……うわっ」
「どうせすぐバレるんだから、諦めて」

聖は見かけによらず、強引なところがある。よくこうして有無を言わさず座らされ、怪我を診てくれるのだ。菊が自ら進んで診せようとしないものだから、そうなってしまったとも言えるのだが。
菊がもたもたしているうちに、女の子たちの嫌がらせがどんどん苛烈になる。嫌がらせが増えると菊の怪我も増え、その分聖に詰め寄られる。これでは悪循環だ。

次は、ちゃんと距離を取ろうとした。
聖が近づいてきたなら、脱兎の如く逃げる――はずだった。

「ちょっと、菊!? ダメだろ、安静にしないと!」
「あ、わっ!」

菊は兎ではなく亀であり、兎のように速かったのは聖のほうだった。それも、昼寝をしない兎だ。勝ち目がない。
良くも悪くも聖は周りの目を気にしない。自分がいかに女の子たちの振り回しているのかも、わかっていないのだ。
これを聖に伝えるべきか、何度も考えた。
しかし、女の子たちからのさらなる報復が待っているかもしれない。なにより、聖が進む道の妨げになるようなことはしたくなかった。

だから、最後は突き放した。

「菊――」
「もう、放っておいて……」

この瞬間から、聖は菊を追わなくなった。

悪いことというのは、続けて起こる。
聖の母が、無情にも紛争に巻き込まれて命を落とした。最期まで、子どもたちを守ろうとしていたそうだ。
菊ですら、二人目の母を亡くしたような喪失感に襲われた。聖は、もっと酷いはずだ。
けれど菊は、彼にどう寄り添えばいいのかわからなかった。

聖はもう、菊を見なくなっていた。だが、菊は聖をずっと見ていた。
二人は別々の高校へと進んだが、家が近いために近況は自ずと伝わってくる。高校教師だった聖の父は病気を患い、退職して療養生活を送るようになったことも聞いていた。だんだん変わっていく聖の顔つきも、見ていた。
菊が聖を拒否したときの彼の顔だけは、見れなかったというのに。





異変があったのは、桜咲く季節のある日のこと。

「ねえ聞いた? さっき八幡坂で映画の撮影をしてたらしいわよ!」

祖母の経営する本屋で働く菊は、この日店番をしていた。ひっそりと運営している本屋だが、祖母の人脈の広さ故か、常連の客が複数いて、近所の子どもたちもよく足を運んでくれる。特に壮年の女性客たちは、店番をしているのが祖母だろうが菊だろうがお構いなしに、みな気さくに話しかけてくる。菊はほとんど聞いているだけだったが、特に気にすることもなく、話すだけ話して、ついでに本を買って帰ってくれるのだ。
そしてこの日も、いつものように常連客が話を弾ませていた。八幡坂はロケ地として有名で、映画の撮影をしていること自体はさほど珍しくはない。首を傾げる菊に、話好きの常連客は尚も熱く語った。

「それがね、パトカーが大量に来てたり、厳つい車がチェイスしてたり、銃まで使ってたりしたみたいで、もう迫力満点だったらしいのよ」
「へぇ……」
「どんな映画なのか、楽しみねぇ!」

そんな話をしていたのは、まだ昼下がりのことであった。この日は夜から雨が降るという予報だった。その通りに、夕方になるにつれ空が曇り始めた。

ふと、閑静な住宅街に似つかわしくない、遠くからでも聞こえるほどの大きなエンジン音が近づいてくる。そして営業中は開け放たれている扉の向こうに、何台もの車が猛スピードで通り過ぎていくのが見えた。やがて、すぐ近くで停車したのであろう乱雑なブレーキ音や、ドアを開け閉めする音も聞こえてくる。しばらくすると、今度は来た道を戻っていった。
こんな場所で撮影の続きでもしているのか?
――まさか。
嫌な予感がする。車が停まったと思われるのは、聖の家があるほうだ。ちょうど距離もそのくらい。そうでなければ、こんな不穏な気配、我関せずで気に留めなかったはずだ。

「おばあちゃん、ちょっと出てくるね! お店お願い!」

家の奥から返事が聞こえてくるのを待って、店を出た。
そこにはもう車は停まっていなかった。そのまま、恐る恐る福城家の敷地に入る。
玄関は開いていた。中を覗いた途端、血の気が引いた。誰かが、土足で家の中を踏み荒らしたような跡がある。
まだ家の中に人がいたらどうしよう、なんて考えながらも、引き返すことはできなかった。

「聖……? 良衛さん……?」

菊の呼びかけに、返事はない。物音ひとつ立たない。
初めからいなかったのか、それとも。
客間が一番荒れていたが、それよりも気になったのは、聖の父である良衛の寝室だ。そこには良衛の妻、つまり聖の母の仏壇が置いてあるのだが、彼女の写真や周りに置いてあったはずの仏具も床に散らばっている。床には、誰かの血もついていた。
そして、なぜか布団の向きがいつもと違う。聖と疎遠になってからも、彼を避けながらここの仏壇に手を合わせに来ていたものだから、なんとなく覚えていた。その布団に触れて、ぞっとする。まだ、わずかに温かかった。
良衛は先ほどまでここにいて、ここで誰かと争った後、家にいないということは連れ去られたのだ。
どうしよう――。
気が動転して、警察も呼べずに立ち尽くしていた。
すると、玄関から誰かの声が聞こえてきた。咄嗟に、家の奥に逃げ込んだ。

「血や!」
「強引に連れ去られたみてーだな」

聞こえてきたのは、思いの外若い男性の声と、恐らく子どもの声。誘拐犯ではなさそうで、ひとまず胸を撫で下ろした。彼らも良衛の寝室でなにか気付いたようだ。
どういった関係の人たちだろうか、なにか知っているだろうか。菊は気になって、近づいてみることにした。

「誰や!」
「誰だ!」

菊の足音に気づいて、そこにいた二人は勢いよく振り返った。

「うわっ! ご、ごめんなさい……!」

こんな状況で後ろから人が静かに歩み寄ってきたら、当然そうなる。自分で驚かせておきながら、二人の声に驚いてしまった菊は、跳ね上がった心拍数を落ち着かせながら反省した。
目の前の二人は、目をぱちくりさせていた。

「あんたは……?」



互いに、ここへ来た理由を説明した。高校生の服部平次と、小学生の江戸川コナン。彼らは大阪と東京から来ていて、かの眠りの小五郎の手伝いで事件の捜査や宝に関する謎解きをしているらしい。驚いたのは、良衛が大事に保管していた刀を、彼らに預けたということだ。なんでも服部は、関西では有名な高校生探偵だというが――。

「あっ、あとね、ここにはもう一人住んでるんだけど……」

二人は顔を見合わせて、少し言いづらそうにしながら答えた。

「聖さんなら、大丈夫だと思うよ」
「あいつやったら、今別んとこにおるからな」

彼らは聖がどこにいるのか知っているのだ。そしてそれは、言葉を濁さないといけないような場所なのだ。

「せ、せや! コレなんかわかるか?」

話を逸らすように服部が菊に見せたのは、畳に血で書かれた星のマークだった。意図的に北向きに置かれた布団の下にあったもの。

「……なんだろう、わからない」
「やっぱ聖に聞いてみなあかんか……」

彼らに着いて行けば、聖と話せるのだろうか。そう考えもしたが、菊が会ったところで何ができる? 思い直して、やめた。聖が無事だとわかったのだ、それだけでいい。





それだけでいいだなんて、そんなわけがなかった。
ここ数年――特に去年あたりから、聖が思い詰めた顔をすることが増えていたのは気のせいではないはずだ。そして服部とコナンの、聖のことを話すときの困ったような表情。さらには、良衛が拐われた翌日、函館病院で爆発が起こったというニュースまで流れてきた。
間違いなく、なにかが動き出している。

福城家にある車や、聖がいつも乗っているスクーター、そして稽古場に置かれている刀は、何ひとつ無くなっていなかった。誘拐犯はもちろん、聖ですら何も持ち出していないということ。もしも聖がなにか事を起こすのなら、一度家に戻ってくる可能性が高い。
昨日の襲撃があったからか、福城家の入り口には警察が立っていた。後ろめたいことは何もないのだが、今からやろうとしていることは、どうせ警察に話しても止められる。
これは不法侵入になるのだろうか、なんてことを思いながら、菊はこっそり塀を乗り越え、福城家に忍び込んだ。ここにくる直前、家ですっ転んで額にたんこぶを作ったばかりで、ここでもまたドジを踏まないとひやひやしたものだ。ここは火事場の馬鹿力というやつが出てきてくれたのか。人間、その気になればなんでもできるのだ。

「待って」

案の定、現れた聖は刀を持ち出そうとしていた。
彼が何をしようとしているのかなんてわからない。だが、行かせてはならないことだけはわかる。

「どうしてここにいるの……菊」

聖と言葉を交わしたのはいつぶりだろうか。昔と違い、彼の声は冷え切っていて、思わず身震いをしてしまった。



菊では、聖を止められないこともわかっていた。そんなことは火を見るより明らかだった。
だったらなぜ、彼の前に立ったのか。理屈ではないのだ、体が動くというのは。ただ、たった一人の幼馴染を、失いたくなかったのだろう。
気がつけば、菊は稽古場に寝かされていた。夕陽を浴びてオレンジ色をしていたはずの空は、すっかり色を落としていた。

もう遅いだろうか。でも、もしまだ間に合うなら。
一縷の望みに賭けて、ポケットからスマートフォンを取り出す。
昨日登録したばかりの電話番号。何かあれば、すぐにかけろと言われていた。
発信ボタンを押せば、すぐに繋がった。電話口からは、バイクの音が聞こえる。
こんなこと、本当は高校生にお願いするものじゃないのに。

「お願い、聖を……止めて…………」



――幼馴染を、泣かせてんちゃうぞ。
電話越しに、服部平次は怒りを湛えていた。

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