ふたりの隙間を埋める溝



「幼馴染」とは。
幼い頃からの付き合いで、親密な関係をイメージされやすい。それが男女であれば、尚の事。平安時代の物語でさえ幼馴染の恋模様を描いているほどで、遥か昔からそれは変わらない俗識なのだ。
だが、福城聖にとってのそれは、なんらの意味も持たない言葉だった。

――子どもの頃からの、単なる知り合いか。

自宅の庭先で服部平次にそう言い放ったのは、なにも彼への対抗心や当てつけなんかではない。聖はただ、そうであることを身をもって知っていただけなのだ。



「聖さんは、医学部なんだよね?」

眼鏡の少年にそう問いかけられた。剣道大会の会場で和葉に自己紹介をしたとき、この少年もいたから覚えていたのだろう。
この少年と隣に座り込んでいる服部平次は、先ほどまでここ函館の街で斧江拓三の手下やらカドクラの一味やらとド派手なチェイスを繰り広げていた。なんとか逃げ切ったものの少し怪我をしてしまったようで、聖はそんな彼らに手当てをしていた。この二人を助けたのは、また和葉に会えるかもしれないという打算ありきだったのだが、医学生として怪我人を放っておくわけにもいかなかった。

「亡くなった母が医者だったからね。その影響かな」

少年の額に絆創膏を貼ってやる。聖の母もこうして、よく子どもの面倒を見ていた。そう、最期の瞬間まで。

「それに、昔からよく怪我をする人が近くにいたから……こんなふうに手当てする癖が自然と染み付いちゃって」
「へぇ……それってもしかして、聖さんの大事な人?」

確かに、これだけ聞いたらそう捉えられてもおかしくない。迂闊だった。聖としてはただ事実を述べただけだったのだが。しかし滑るように口から出てきてしまったのだから仕方がない。

「別に、そんなんじゃないよ。ただの知り合い」
「ほーん。つまり、幼馴染っちゅーわけか」

昨日の聖の発言を返された。高校生ながら探偵を名乗るだけあって、やはり鋭くて嫌になる。

「それが、なに?」
「なるほどなァ。昨日オレにああ言うたんは、お前自身心当たりがあったからや」

突然現れた恋敵に対し、敵意むき出しにしていた高校生探偵だったが、これは面白そうなものを見つけたと、途端に楽しそうな顔をした。

「せやけど気づいてへんか? ただの知り合いや言うわりには、そう思てるような顔とちゃうかったで」
「は……?」

いったい、どんな顔をしていたのだろう。
それを知ることはできなかった。

「それって、どういう……」
「――福城聖。お前の刀の鞘から、久垣弁護士の指紋が出た」

殺人の容疑をかけられ、逮捕されてしまったからだ。





結局、鞘が真犯人によって入れ替えられていた可能性があるらしく、刀の再鑑定さえ済めば聖の疑いは晴れそうだった。
ほっとしたのも束の間のこと。西村警部にある写真を見せられたことで、事態は一変した。

「こいつでなにか思い当たることはないか?」

畳に血で書かれた、五芒星。
聖か取り調べを受けている間に、父親である良衛がカドクラに拐かされていた。その際、良衛が書き残したものだという。

「わかりません」

嘘だ。わからないはずがない。
これは、他の誰でもない、聖に向けられたメッセージだ。

人間、その気になればなんでもできるらしい。留置場で一晩を過ごした聖は、翌日の取り調べ中、トイレに行くフリをして、見張りの警官を気絶させて警察署を抜け出した。スクーターも無しになんとか自宅へたどり着くと、そこにも警察の見張りがついていたが、忍び込むのは容易かった。広々とした敷地の中にある稽古場へ向かい、保管してある刀へ手を伸ばす。
西村には、刀の再鑑定結果が出れば家に帰してくれると言われたが、そんなものは待っていられなかった。

終わりにしなければ。
なにもかも。

「待って」

刀に触れようとしたそのとき、聖しかいないはずの空間に、別の声が響いた。思わず手が止まる。
警察に見つかったのかと思ったが、違う。この静かで澄んだ声は。

「どうしてここにいるの……菊」

振り返ってみれば、子どもの頃からの知り合いがそこに立っていた。

「なんとなく、ここに戻ってくるんじゃないかと思って」

誰も連れずひとりで乗り込んできたところを見ると、小さい頃からこの家によく出入りしていた彼女もまた、警察の目を上手く掻い潜ったらしい。だけど。

「……君らしくもない、こんな無茶なことを」

厳木菊という人間は、外に出ることが嫌いで、しょっちゅう怪我をするほど鈍臭くて、引っ込み思案で、人付き合いが苦手だった。そうしていつしか、聖からも離れていった。
初めは仲良くしていたはずだった。菊は幼い頃に親を亡くしていて、祖母の家で育てられていたが、親同士の親交が深かったらしいここ福城家で聖と一緒に面倒を見られていたことも多かった。
母のような医者になることを目指し始めた聖は、まず最初にと、母に代わって菊の手当てをするようになった。そんな聖に、菊も懐いていた。少なくとも聖はそう思っていた。

いつからだろう、避けられていると感じるようになったのは。喧嘩をしたわけでもなく、これといったきっかけもない。聖は人を引き寄せるタイプの人間だったために、余計に自分のなにが気に入られなかったのかわからず、もやもやとした感情を抱えることとなった。
しかし、聖自身も母を亡くしたことでそれどころではなくなった。学業や居合の稽古に励むことで、次第に忘れていった。父の意志を継ぐと決めてからは、もっと余裕がなくなった。

結果残ったのは、いくら幼少期をともに過ごそうと、わかり合えずに終わってしまうのだという落胆だった。
どこまでいっても、他人は他人。
血の繋がった父ですら、家族なんかより、忠之という男の残した宝のことばかり守ろうとしている。
幼馴染も、父も、周りの人たちも、誰も。本当の意味で聖のことを見てくれてはいなかったのだ。
ただひとり、遠山和葉を除いて。
この想いは、届くことないまま終わる。終わらせるのだから。
一度止めかけた手を、再び刀に伸ばす。

「聖、行っちゃダメ。行ってしまったら、あなたはもう……!」

さすがの父も、菊を巻き込むようなことはしなかったが、彼女は既に、おおよそのことは察しているようだった。
刀を腰に差した聖を前に、菊は出口を塞ぐようにして立ちはだかる。
わかっているのか、いくら顔見知りとはいえ、目の前にいるのは武器を持った男だぞ。

「どいて、菊。君じゃ僕を止められない」
「わかってる、でも嫌だよ!」

どうしてだ。
こんなに顔を歪めるなんて、こんなに声を荒げるなんて、こんなに思い切った行動を起こすなんて、知らない。聖の知っている菊じゃない。
これまで散々距離をとってきたくせに、どうして今になって。
いや、もう考えるのは止そう。

菊のいるほうに向かって一方踏み出せば、それだけで菊は肩を跳ねさせる。
ほら、やっぱり怖いんじゃないか。
それでも菊は、一丁前に聖を睨みつけてくる。
もっと距離を詰める。まだ彼女は一歩も動かない。身長差があるせいで、かなり見下げる形になる。ふと、聖はあることに気づいた。
菊の額に、仄かに赤くなっているところがある。
前髪が邪魔になってよく見えなかったものだから、優しい手つきでそれを払う。

「……またどこかにぶつけて来たの?」

かつてそうしていたように。昔と同じような声で。
あの日々を惜しむなんてこと、今更するはずがないと思っていたのに。
菊もそれを感じ取ったのか、息を呑み、目を丸くしている。
ダメだ、これ以上ここにいては。忘れたはずのなにかが、蘇ってきてしまいそうで。

「もう、転んだりするなよ」

言うが早いか、すっかり気が抜けてしまっている菊の肩を引き寄せ、無防備な首筋を叩く。崩れ落ちた身体を、稽古場の壁際に寝かせてやる。
自分とは違い、菊はこれからも光の下で生きていく。聖が告げたのは、せめて彼女が健やかに過ごせるようにと願いを込めた、別れの言葉だった。





函館空港の外れに保管されていた、父が忠之から受け継いだという軽飛行機。操縦桿を握るのは聖だ。
計器パネルの中央にあるボタン、それを隠すように、大事に持っていた母の写真を挟み込む。そのボタンは、この軽飛行機に載せられた爆薬を投下するためのものだった。
斧江圭三郎が函館の中に隠したとされる兵器。そんなものは、この世から消し去らなければならない。どんな方法を使ってでもだ。父がそれを成せないのなら、自分が。
父からのメッセージを見たとき、気づいてしまった。聖の刀の鞘をすり替え、聖に濡れ衣を着せたのは――つまり久垣を殺害したのは、父だ。カドクラたちが家を襲いに来たとき、聖は警察署にいたために難を逃れた。偶然ではないだろう。
つくづく、ろくでもない話だ。兵器の存在が、聖たちの運命を歪めていく。
もう戻れないなら、すべて壊すだけだ。覚悟ならとうに決めた。

「お前の夢はええんか!? 母親の後継いで医者になるんと違うんか!」

なのにどうして、服部の言葉が胸に刺さるのだ。

「あの幼馴染のねーちゃんは! お前が助けたらんで、誰が助けんねん!」

服部は、空を飛ぶ軽飛行機の尾翼にしがみついてまで、聖を止めるために追ってきた。見上げた執念だ。
その言葉は力強く真っ直ぐで、眩しい。

「……もう、忘れたよ」

頼むから、もうその光で照らしてくれるな。

「忘れんなや……アホが!!」

翼の上で、刀が交わる。

――先に気を失ったほうが負け。
服部に勝負をけしかけたとき、提案した勝敗の条件。
自分は負けたのだと、気付いたのは函館山の展望台で目覚めたときだった。

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