あのひのぼくよ、おぼえているか



「帰って」

斧を握る力強い手とは裏腹に、その声はとてもか細いものだった。
服装も、前線で戦うにしてはあまりに心許ない。薄汚れた布をまとっているだけのようなもので、身を守るための機能がなにも備わっていない。

サンクレッドは肩透かしを食らっていた。


――ここ最近、ウルダハでとある窃盗団が勢力を増している。
被害者がウルダハの豪商のみならず国外の取引先にまで及んだものだから、いよいよ国際問題にもなりかねず、「暁の血盟」でウルダハの調査を担当していたサンクレッドが対処にあたっていた。
本来ウルダハの不滅隊や自警団が解決すべき問題ではあるが、単純な人手不足か、それともまたなにか裏で思惑が動いているのか、彼らの動きはいまいち鈍かった。そこで痺れを切らしたサンクレッドが、この機にウルダハへの恩を売っておけば今後の調査にあたってもより動きやすくなるかもしれないと、窃盗団を追うことにした。

そしてわかったことが、窃盗団に手練れの斧使いがいるということだ。
最初こそただのコソドロでしかなかった一団が、その斧使いの加入により、敵をことごとく薙ぎ払い破竹の勢いを見せていた。
それ以外は特に大した裏の繋がりがあるわけではない。ただぽっと出の窃盗団が有能な戦力を獲得し、調子に乗っている。純粋な暴力を前に、ウルダハの商人お得意の企ても上手くいかず手をこまねいているようだった。
つまりその斧使いさえなんとかできればいい。

ほどなくして、窃盗団の居場所を突き止めた。
斧使いをおびき出すことは簡単だ。邪魔者だと見なされれば、すぐに潰しに来る。斧使いがいくら強いと言われていようが、所詮はただの小悪党、引けを取るつもりはない。
斧使いを制し、そのまま情報を聞き出すつもりでいた。

サンクレッドはわざと窃盗団に見つかるような動きをした。そうすれば案の定、こちらに襲い掛かってくる気配がある。
短剣と斧とでは威力の差がありすぎる。素直に攻撃を受け止めるわけもなく、さらりと躱す。そして反撃しようと剣を構え、足にぐっと力を入れたところで、ようやく斧使いの正体に気づいた。

小さい、少女だった。

驚く暇もなく、斧使いの攻撃は畳み掛けられる。小さな躰、小さな手からは想像できないほど、重く苛烈な攻撃がサンクレッドを襲う。成程、自警団だけでは手に負えないわけだ。
そのアンバランスさに呆気にとられ反撃できないでいると、斧使いの少女がようやく声を発した。

帰って。と。

聞き逃してしまいそうなほど小さな声。
だがその一言でサンクレッドはだいたいのことを察した。

その言葉は、自分たちの邪魔をされたくないからという意味ではなかった。
まるで戦うことを望んでいないような、人を傷つけることを忌避しているような、そんな声だと思った。

でなければ、こんな苦しそうな顔はしない。

ではなぜ、斧を振るう手を止めることはできないのか。その理由を想像するのは簡単だった。このご時世、決して珍しいわけではない。
なにかしらの弱みを握られ、戦わされている。
身なりを見ても、そうだとしか思えなかった。年頃の女の子だと思われるのに髪はまったく整えられておらず、顔は泥だらけで、そこらの貧民のほうがよっぽどマシな服装をしている。

まったく、レディになんてことをさせるんだ。

そうひとりごちて、サンクレッドはようやく防戦一方だった状況を転じることにした。
少女は重たい斧を上手く振り回してはいるが、躰が軽いため反動も大きい。振り下ろされた斧を勢いよく短剣で弾く。そうして体勢を崩させ、その隙に斧を持つ手に強めに蹴りをいれる。
それこそレディに対する行いではないが、そうでもしなければ彼女を止められない。
その衝撃で斧は少女の手から離れ、少し遠くの地面に突き刺さった。

「すまない、痛かったろう」

少女は返事をすることもなく、ただ顔を顰め、どう反撃すべきか思考を巡らせようとした。ところが、すぐにサンクレッドが思わぬ行動を取ったものだからつい驚いて、勢いを削がれてしまった。
サンクレッドは少女の前で片膝をついて、今しがた自分が蹴り上げた腕を労わるように包み込んだのだ。
そして優しい声で話しかける。

「どうしてこんなことをしているのか、教えてくれないかい?」

少女にとってはわけが分からなかった。
なぜ、こんなにも悪事に加担し、そして今も散々攻撃をしてきた相手に対して、こうも優しく問いかけるのか。

一方でサンクレッドは、かつての自分を思い出していた。
海都で窃盗を繰り返していたこと、ある日手を出した相手がルイゾワだったこと、そこから人生が変わったこと――。

「うぅっ……」

すると突如、少女が空いた片手で頭を押さえてうずくまりだした。

「おい、どうしたんだ!? しっかりしろ!」

腕を蹴りはしたが、頭にまで衝撃は与えていないはずだ。一体なにがあったのか? サンクレッドは慌てて声をかけるも、少女には聞こえていないようだった。
どうするべきか思案していると、少しして少女が意識を取り戻し、なにかを振り払うように頭をぶんぶんと揺らした。

ただの頭痛か、それとも。
サンクレッドにはひとつ、心当たりがあった。
そうならば尚更、話を聞かなければ。
だがそれは、この少女によって遮られた。

「だめ。これ以上話していては、あいつらが来る。だからはやく、帰って」

少女の言う通り、これ以上この場に留まるのは得策ではない。少女がなかなか戻らないとなると、窃盗団の仲間が様子を見に来るだろう。元々斧使いだけを誘き出す算段だったので、そうなれば少し面倒だ。

「わかった。今日のところは帰るとしよう。ただし、君が名前を教えてくれたら、ね」
「え……」

大人しく帰ってくれると思いきや、突然名前を尋ねられて少女は戸惑った。
名前なんて聞いてどうするのか。いや、自警団に情報を渡すつもりならそれも分かる。帰るなり自分の情報を根こそぎ調べまわって告発すると考えるのも自然だ。
だというのに、この男の表情を見ていると、どうもそんなことをするために名前を聞かれているようには思えない。だから、わからない。
口を閉ざしていても、この男は帰りそうにない。ならば、教えてやるだけで帰ってくれるなら、それでもいいかと思った。根負けしたのは少女のほうだった。

「……ネネリ」
「ネネリ、か。いい子だ」

サンクレッドは満足そうにネネリの頭を撫でる。
ネネリは嫌がるわけでもなく、ただ腑に落ちないという顔をした。

「俺はサンクレッドだ、覚えていてくれ。必ず、また来る。今度は助けてやるからな。それまであとちょっとだけ辛抱してくれ」
「もう、来ないで!」

助けると言っても、ネネリは頷かなかった。
自分はもう助からないのだと諦めている。彼女の希望は、もう潰えてしまっているのだ。
それでも、帰れと、逃げろと、そう言った彼女の心は、まだ死んでしまったわけではない。
救い出さなければ。妹のように愛するあの子と同じ力を持っているかもしれない、この少女を。
その感情には、ネネリが同士となる存在かもしれないという、少しの打算も含まれていて。

「な?」

もうひと押し。
名前を聞くだけのつもりが、また酷く困惑させてしまった。だが、どうしても頷いて欲しかった。希望を抱いて欲しかった。事実、助けられるつもりのない人間を助けるというのは極めて困難で、だからこそこの少女には「助けて欲しい」と少しでも願って欲しかった。
祈りが通じたのか、ようやくネネリが躊躇いながらも小さく首を縦に動かした。渋々といった顔だが、及第点だ。
今度こそサンクレッドは立ち上がり、帰って行ったのだった。





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