3




キィ、と、鳴った。
鈍い音を立てるそれは錆び付いた金属。前後に揺れる体を一身に拒絶しているかの様で、キリは思わず俯いた。

伸びた影がその先で夜へと変わっている。暗がりが足元へと広がっている。
キィ、キィ、と、揺れる度に軋む金属音が、キリの鼓膜へ鮮明に響いた。それだけ。たったそれだけが。
誰の声も聞こえない。何の音も聞こえない。
微笑ましさを感じた高い声も、それを見守る優しい声も、駆け足に擦れる砂の音も、誰も、何も。
たったそれだけしか、今は。

武光の部屋を後にして、キリが立ち寄っていたのは公園。ブランコに腰かけ、小さく漕いではいるものの、特に理由はなかった。
無意識にキリが向かっていた先の、その道中にあったから、そんなものだった。

夕日の位置が違うだけで、昨日とはまた異なる表情のそこ。切り取られた様な静寂の中、キリの瞳は迷いを携えて弱々しく揺れ、ただ一心に足元の影を見つめていた。

うまく力の入らない右腕。視線の上がらないキリの脳裏に、つい先程の出来事が巡っていく。



***



ギリギリと力を込めても動かない。何も変わらない。
まるで人の腕ではないかの様な、そんな重みをキリは右腕に感じていた。


『……なんなんだ、くそっ』
『ちゃんと本気出してるか?何なら両手使ってもいいぜ?』
『なめやがって……!マジ、ブッ潰す!骨折させてやる!』


全く以てピクリとも動かない状況と武光の言葉に、キリの怒りは頂点へと上り詰め、キリは左手を右手に重ね、更に力を込めた。
そして徐々に動き出した腕。ゆっくり、ゆっくりと、テーブルへの距離が近付いていった。

しかしそれは武光の手の甲ではなかった。キリの指先。右手に重ねた左の指先が、テーブルとの距離を埋めていったのだ。


『……っちょ!?は、はぁあ……!?』
『楽勝だって』


やがてキリの左肩がその活動圏を超えたために、指先がほどけた。呆気なくキリの手の甲は、コツンと敗北の音を鳴らしたのだ。


『指2本でやっても勝てるな』
『……へし折る』


敗北に重なる挑発にキリは武光の人指し指と中指を握り、同じく力を込めた。
しかし結果は同じだった。わざとやっているのかと訝ってしまう程にゆっくりと、キリの手の甲はテーブルに倒れていった。


『な、んで……』
『……分かんだろ』
『……』
『素直に認めたくはねぇだろうけどな』


そう言われ、キリはしばらくの間ひと言も口にする事はなかった。
ただ茫然と倒された右腕を見つめるのみだった。



***



わずかな気配と足音。キリの視線の先にひとつの影法師が重なった。
まるで決まりごとの様に何かを言うことはなく、キリの背後に居る。
その影法師の持ち主はキリに背を向けて、ブランコの柵に腰掛けていた。

纏う空気、香り、聞き慣れた足音、振り返らずともキリにはそれが誰なのか、ちゃんと分かっていた。
ブランコの鎖を持つキリの両手に力がこもる。何故か泣きそうになったのを、キリは唇を噛み締めて耐えた。
キィキィと錆びた音が浮かぶ。互いの鼓膜を刺激するのはそれだけで、時折流れるそよ風さえ、髪をなびかせる事はあっても、音をたてる事などはなかった。


「……何だよ……」


ブランコの金属音が止んだ。キリの出した小さな声が、驚く程に響き渡った。


「……お前こそ。こんなとこで何してんだよ。お前ん家、逆方向だろ」


同じく後ろの人物、もとい、安形の声も鮮明に響いた。
尚も変わらずキリに背を向けたまま、ブランコの柵に腰掛けている。少し目を細めて、夜に染まる夕焼け空を仰いで、無表情を夕暮れに染めていた。


「……」
「……夜になる前に早く帰れよ」
「……安形」


何も答えないキリに、安形はため息と捨て台詞の様な言葉を吐き出して立ち上がろうとしたが、それをキリが引き止めた。
安形は若干浮いた腰をおろし、キリの声に耳を傾ける。
キリは俯いたまま、ブランコの鎖を依然として強く握りしめていた。何かを吐き出そうと、もがいている様にも見える。


「……あんだよ」
「……武光ん家、行ったよ」
「あっそ」
「…………俺、謝んねぇから。それが悪い事だって、思わねぇし」


そこまで言ったところで、安形が再度吐いたため息がキリの元へ届いた。


「……で、一体なんだってんだよ。わざわざんな事言って、お前は俺を怒らせてぇのか」
「聞けよ!」


安形の言葉をキリは声を荒げて遮った。
しんと静まる公園に、キリの乱れた吐息が少し残る。長い影にゆっくりと、ほの暗い夜が落ちていく。


「っ……、武光は、ダチなんだよ……」
「……」
「……確かに力じゃ負けたよ。両手でやっても、アイツの2本の指にだって、勝てなかった。……腕相撲なんて楽勝だと思ったけど、無理だった」


消え入りそうなキリの声。キリとて未だに、安形の激昂の理由に気付いていない訳ではなかった。

男と女の力の差がどれ程のものなのか、キリは分かっていなかった。
その気になれば何とかなるものではない。特別に鍛えたりしていなくとも、男は男であるというだけで女よりも力があるのだ。
事実、キリは真っ向に受けた安形の力を押し返す事も出来ず、武光に至っては両手でさえも敵わなかった。
男女の差とはそういうものなのだ。力は特に、悔しい程顕著に表れてしまう。

そして、密室に男女がふたりきりでいたら。
そこでお互いが何を思うか、それが何を引き起こすか、何もないという保証はどこにもないのだ。人間には誰しも少なからず本能が存在しているのだから。
仮定を挙げれば切りがない。
その中で万が一にも過ちを犯してしまいそうになったら。女ではなく男がそれを強要してきたら。
その場合、女は決して敵わない。退ける事など絶対に不可能なのだ。

その事を理解していないために、安形はキリへ声を荒げたのだ。
どれだけキリが武光を信頼していようと、安形が同じく彼を信頼する事にはならない。ふたりに直接的な関わり合いはないのだから。
何かがあってからでは遅いと安形は憤慨しつつも、その裏側ではキリを一心に心配していただけだった。


「確かに、俺は自分を過信してた。……だけど、だからダチの家に行っちゃいけねぇってのは、それは違うだろ」
「……」
「武光は男で、俺は女だけど、関係ねぇんだよ」


キリは未だ本能によって起こりうる可能性までは理解していない様である。
ただ、彼女は男女の力の差を真摯に受け止めたその上で、それでも安形に分かって欲しいと、それだけを願っている様だった。
武光は大切な友人であると、安形が心配するような間柄でも、そんな人間でもないと。
理屈ではなかった。キリにとって武光は高校で初めて仲良くなれた友人であるためだ。

俯いたままのキリの顔に夜が落ちている。
色素の薄い銀色は既にその色を深い色に染められて、キリの表情を隠すように覆っていた。

依然としてふたりを包む静寂。だがそこで、ふわりと空気が揺れた後、足音が鳴り始めた。
まばらに転がる砂利を擦る、ゆっくりとした足音が。
それはキリに少しだけ近付いて、そしてすぐ隣の金属音を揺らした。
キィキィと、甲高い音が鳴る。キリが鳴らしていた音と同じ、錆びたブランコの音色が響く。


「……俺がさ、何で昨日、ここに寄ったか分かるか?」


安形の声にキリはゆっくりと顔をあげ、右側に居る安形へ振り向いた。
安形はブランコに座っている。ほんの僅かに残る琥珀色を仰ぎながら、キィキィと錆びた音を浮かべていた。


「…………分かんねぇけど……」
「お前が俺ん家来んのは初めてだっただろ」
「……ああ」
「部屋に上げようか考えたら、柄にもなく緊張しちまったんだ」
「安形……?」
「馬鹿みてぇに平常心保てなくなっちまって。だから、ここ来た意味ってのは、特にねぇ」
「……」
「あんな事しちまったのも余裕なかったからだ。少なくとも、俺にとってお前が部屋に来るってのは、そういう事だったんだよ」


相も変わらず揺れるブランコ。
そのか細い金属音と同じ様な声が、安形の心をキリへ届けた。


「……こんな風に言われたら、流石にもう武光ん家行くなとは言えねぇよ。……だけどよ、俺がどんな気持ちでいたか、それだけはちゃんと分かっててくれよな」


依然としてキィキィと響く音は止まない。
その錆びた音色と共に、安形の想いの丈を聞いたキリは、ひたすらに心の内側を掻き乱されてしまった。

キリは再度顔を俯かせて唇を噛み締めた。
瞳を歪めながら影を見つめ、目の奥から滲みそうになる感情を堪えている。

考えてもいなかった安形の心の内。彼が何を思い、感じていたのか、自分は知ろうともしていなかった。
そして自分が思っている以上に、安形は自分を女として捉えていた。その想いを今、真っ直ぐに吐露されてしまった。
自身を保てなくなる程に、隣の男は自分を想っているのだと。あの激昂の内側には、彼の自分へ向けた確かな想いが存在していたのだ。

気まずさと恥ずかしさから、キリは顔をあげる事も口を開く事も出来ずに居る。
俯いた先で視界に入る、夜に紛れた隣の微かな影にさえ、心臓が大きな音をたてた。


「……安形」


断ち切るようにキリは鎖を握りしめた。握りしめて、噛み締めている唇をほどいて、1度大きく息を吸って、名前を呼んだ。
返事の代わりに錆びた音が止む。何も聞こえなくなり、静寂が夜にその身を預けた。
キリと安形をひっそりと包んでいる。

そして少しの躊躇いの後、キリのか細い声が安形の元へ届けられた。
吐息混じりのそれは消え入りそうな程に小さかったけれど、そよ風の流れる音さえ存在しない静寂の中では、関係のない事だった。











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