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 採点し終わった小テストをまとめ上げ、こぼれたのはため息だった。三年生の秋といえば、部活動も終了して本格的に受験モードが漂う時期である。レベルの高い高校を目指す白石や金色なんかは普段の小テストから気を抜かず勉強しているようで、教師陣の中でも推薦の話が飛び交うほどだ。しかし出席率や成績、素行が悪い生徒に関しては、職員会議で名前が上がる。そのすべてを満たしているのが千歳だった。職員会議ではテスト部の顧問と言うこともあり、他の先生方に千歳のことで相談されることが多い。

「渡邊先生、千歳くんはなんとかなりませんか?」

 よく言われるのはこの言葉だが、俺がどうのこうの言ったところであれが治っているのなら今更苦労はしない。千歳の放浪癖を顧問として何度か注意を促したこともあるが、大好きな部活動だってめったに顔を出していなかったのだから治るはずもない。俺も元々人に厳しく出来る性格ではないし、それ以上は言うつもりがなかった。
 それにしても、これはひどい。先ほど採点し終わった小テストをぺらぺらめくり、千歳の分を抜き出すと再びため息がこぼれた。
 「千歳千里」とやる気のなさそうに丸まった名前の横に記入した点数は見事に「0」だった。いや、俺としては千歳が小テストを受けているだけで感激するのだが、やはり受験生という立場からしてこれはひどいだろう。
 高校は義務教育ではないし、もしかしたら千歳は進学するつもりはないのかもしれない。俺は採点し終わった小テストを担当教師のデスクに提出し、軽く部活に顔を出してから帰路に着いた。

 賃借りしているアパートは、学校の最寄駅からJRで二駅の場所にある。一見小汚いが、駅から近いわりに家賃が安いのが利点だ。近くに銭湯もあるので風呂に困ることもない。
 それにしても朝には鍵をかけて出たつもりなのに、帰ってみたら鍵が開いているのは一体どうしたものか。
 原因は分かっている。案の定、玄関には奴がいつも履いている鉄下駄があり、部屋に上がってみたらもぞりと巨体が動いた。

「オサムちゃん、おかえり」

 年中敷きっぱなしの布団の上に寝転んで、三週間前のジャンプを読みふけっていたのはやはり千歳だった。
 決してきれいとは言い難い六畳のワンルームに、千歳ほどの巨体が横たわるとそれはまあ狭くなるもので、俺は唯一空いていた千歳の頭元にリュックを置いた。
 実はここ一か月ほど前から、うちに千歳が住みついている。千歳の住むマンションはここから一駅先なのだが、ある日ふらっと出かけたら終電を逃してしまった、俺ンちよりオサムちゃんちのが近いし、歩いてそっち行くから泊めて、と公衆電話から連絡があったのが始まりだ。千歳は以前白石とうちに来たことがあって、道を覚えてるらしかった。断る理由もないし、夜の十一時を回っているのに中学生をふらつかせるわけにも行かず、俺は承諾した。
 そこから理由もなく千歳は居座るようになった。しかも勝手に鍵を開けて。

「もう外暗いんやから電気くらい付けなあかんやろ。目ェ悪くなんで」
「ん、ありがと。オサムちゃんは優しかね」

 電気をつけると、千歳は眩しそうに目を細めた。それから何事もなかったかのようにまた三週間前のジャンプをぺらりとめくる。千歳は一昨日も布団に横たわってジャンプを読んでいたような気がする。その証拠にやっぱりジャンプの表紙はぼろぼろになっていた。いつもは立ち読みで済ませる俺がたまたま買ったものだから、それ以来のジャンプはもちろんうちに置いていない。
 普段はほのぼのとしたジブリ作品ばかり見ている千歳は、どうやら戦闘モノ漫画が思いのほか気に入ったらしく、同じところを何回も繰り返し読んでいた。

「たまにはこぎゃん漫画も良かよね」

 しみじみと呟いた千歳は、俺が未だに立ったままなのに気づき、ふと笑って自分の横を軽く叩いた。

「ほら、入りなっせ」

 千歳はいろんなことを結構簡単に言ってのける。千歳がこんなんだし自分もだらしない性格だから、教師と生徒という立場などどうでもいいかと一瞬思ってしまう。自分の生徒が学校も行かずにアパートに入り浸っていることが学校にバレれば、お互いただでは済まないのに。はあ、と絞り出した声は白かった。部屋は寒い。

「オサムちゃんチ、暖房器具なかけんね。布団、あっためといたばい」
「……そりゃおおきに」

 大人しく千歳の隣に潜り込んどいて、自分はよくもこんなことが言えたものだ。一張羅であるコートを着こんだままだと言うことも、千歳の子ども体温があたたかいことも、やっぱり何もかもどうでもよくなってしまう。
 千歳は俺の頭を軽く撫でて、煙草のにおいがすっと、と笑った。

「……なあ千歳」
「んー?」
「……やっぱなんでもない、そんなことよりもうピッキングして入んの辞めや。大家に見つかったら通報されんで」

 千歳がはあい、と珍しく子どもらしい返事をした。でもすぐに首をかしげ、不思議そうに「でもそしたらどうやって入ったらいいんかね?」と言う。俺は何も言わずに、コートのポケットに忍び込ませていた小さな鍵を、布団をかき分けて捕まえた千歳の左手に握らせた。千歳が布団から手を出し、ゆっくりと開く。

「合鍵?」
「そや。明日からはそれ使いや」

 預ける人が何年も居ないまま錆びつきかけていた合鍵だ。

「……せんせえ」

 千歳がその左手を俺の首に回し、ぎゅうと引き寄せる。中学生のわりにがっしりした体型がやはり好きだ。何年も放置されて錆びかけた感情がむずりと動き出す。いやだな、と思う。このまま千歳の良いようにされてしまうのは。
 吐き出された息が耳元にかかってくすぐったいから、少しだけ千歳の胸を押す。

「……ンやねん苦しいわ」
「……俺だって苦しかよ」

 それでも千歳は俺に回した手の力を緩めなかった。
 なんだか無性に煙草を吸いたくて仕方なかったのだが、そういえば小テストの採点をしているときに全部吸ってしまったのだと思い出した。俺は千歳に抱きしめられたまま、ポケットを漁る。へこんだ煙草の箱と、百円ライターの感覚。それからくしゃくしゃに丸めた千歳の小テストが指先に当たった。燃やしてしまおう。何も考えたくなかった。



煙草|0322
きっとこれ以上、何も要らない。