A flower to bloom. | ナノ
僕がメゾン・ド・章樫″に来てから…数週間が経った頃だっただろうか。
確かその日は…透き通った水色の空と、さんさんと光り輝く黄色の太陽が妙に対照的な日だった。
「御狐神君…」
「はい?何でしょう、凜々蝶様」
お利口なその忠犬は、自身の周りにきらきらと星を浮かばせながら答える。
まだ昼食時だというのに、その星の光は一歩たりとも太陽に負けずに輝いている。
…答えた彼の手にはお気に入りの紅茶屋で買った、ダージリンの入った小さな紙袋を持ちながら。
今僕達は、足りなくなった生活必需品を買い足す為に近くのショッピングモールへ買い物に来ている。
僕一人で行こうと思ったのだが、勝手に御狐神君がついてきたということは言うまでもない。
「その位、僕でも持てる。貸せ」
「それは駄目です」
僕が取れないように、と軽く持ち上げられた紙袋。
何とか奪い取ろうと思い、ぐっ…と足に力を入れてジャンプするも…身長145cmの僕に到底届くはずもない、身長186cm。
そんな彼は凜々蝶様の身の回りのお世話が出来なくては自分に価値など微塵もない…―― と、もはや口癖の様に聞こえてくる台詞を語尾につけながら、
「狗馬之心で、凜々蝶様のお世話をさせていただいていますから」
と、至極嬉しそうな顔でいつも通りニコリと微笑む。
―― 狗馬之心…か。
犬や馬が主人に対し、恩を忘れず仕えるように、ささやかながら恩返しをさせて頂くという意味だ。
「ふっ、まぁ君の場合はささやかではなく横柄に…だがな。今のように」
さっきの御狐神君の行為に、多少皮肉を込めて彼を睨みつけてやった。
…まあ確かにささやか″という部分を除けば、確かに彼にピッタリな四字熟語だろう。
そんなやりとりを続けながら、太陽の光を反射している白い石畳の遊歩道を歩いていた僕は、ふと見上げたショーウィンドウに目を奪われる。
すぐ近くを通る車のうるさいクラクションはただのBGMとなり変わる。
「きれ…い」
僕の目には、ショーウィンドウに飾られた白いドレスが映る。
いや、むしろそれしか映らなかった。
シルク地に散りばめられたたくさんの宝石は、まるで雪景色の中で見るダイアモンドダストのようだ。
派手な色使いではないが、控えめなデザインの工夫がされているのが、自分の好みにピッタリだ。
「きっと凛々蝶さまによくお似合いになりますよ」
――… 先日のパーティーのドレスもよくお似合いでしたが…と付け足して彼が言う。
ドクン、
――… え…?
何気ない言葉であるはずなのに、徐々に顔が熱くなってしまう。
彼から言われたきっと世辞であろう言葉に、どう対処していいのか分からないほどに思考回路が麻痺する。
…これは、もしかして…。
いや、待て。
僕に限ってそんなことはないだろう。
最近、よく胸がドキドキして眠れない事がある。
耳にうるさく鳴り響くその鼓動は、無視出来ぬほどに大きい。
――… これは俗に言う、不整脈…!
迂闊だった。
常に買う物、特に口に入れる食べ物は下調べした上、厳選した物だけを選んでいた。
ということは、不整脈の原因は食べ物になく身体の状況にあるのだろうか。
身体の状態…?運動…?
「…最近、運動をほとんどしていない!」
メゾン・ド・章樫に僕が引っ越して来てから、まだ随分と日は浅い。
しかし、体育の授業以外で運動をした記憶が無い。
我ながらなんて不健康な生活をしていたのだろうか…。
「凜々蝶様?」
急に黙りこくり、叫びだし、そしてまたも黙り込んだ僕に御狐神君は、本気で心配しているのだろうか…うるうるとした表情でこちらを見てくる。
「…いや、何でもない!」
きっと彼に不整脈だ、と告げたなら…恐らく御狐神君は、今この場で僕を担いで病院へ連れていくだろう。
それだけは絶対に避けたかった。
僕は、ぶんぶんと首を思いっきり横にふる。
…彼に迷惑をかけたくない。
唐突に生まれてきた、この気持ちの名前は何というのだろうか。
「さ…帰りましょうか、凜々蝶様」
いつの間にかほんのりと赤くなり始めていた空をバックに、僕に手を差し伸べる彼。
「うん、そうだな…一緒に帰ろうか」
無意識に緩んでしまう頬。
優しく吹く風が、マンションへ向かう僕たちを包み込んだ。
―― この気持ちに名前がつくのは、まだもう少し先のお話。