「佐吉ちゃん、転ばないようにね」 「『ちゃん』をつけるな」 彼女は小さい提灯を提げて、すたすた歩いて行ってしまう。佐吉はその後ろを黙ってついていった。昔から彼女は酔狂なことを仕出かす性質で、今も急に「蛍が見たいから」と家の者には言わず、夜中飛び出した。1人で河川に行く気であったらしい。だが佐吉は夜分に道々を歩く彼女を見つけて、やっぱり家の者に言わずについて来た。彼女は拒まなかった。 「あ!ほらほら、佐吉ちゃん、ほたる飛んでるよ」 「だから『ちゃん』をつけるなと……」 口を尖らせたが、不意に黄色い光が頬を掠めていき、言葉は消えた。もう瀬に着いたのだろうか。気付けば、無数の黄色く温度の無い光が辺りを飛び交っていた。当ても無くただ縦横無尽に飛び回っている蛍を呆然と見つめていると、彼女は「これ持ってて」と持っていた提灯を佐吉の手に押し付けた。そして赤い鼻緒の下駄を脱ぐと、薄い着物を少したくし上げ、その浅い瀬にばしゃばしゃと踏み入った。彼女の周りに、蛍が群れ飛ぶ。 「名前!」 佐吉は急に不安になった。彼女がどこか遠くに行ってしまう気がしたからだ。提灯を放り出すと、草鞋を脱ぎ捨て、同じく瀬にばしゃばしゃと踏み入った。突然の水飛沫に対しても蛍は全く同じように飛んでいる。その冷光はゆらゆらと、相も変わらず水面に揺れているだけだった。瀬の中ほどで立ち尽くす彼女のところまで駆け寄ると、佐吉は思わずその袖に取り付いた。 「どうしたの」 「き、急に深いとこがあって危ないから、だめだ」 苦し紛れの言い訳を言うと、彼女はふふ、と笑って、袖をがしりと掴んでいる佐吉の手を握った。「何度も来てるから大丈夫よ、佐吉ちゃんも知ってるでしょ」と。でも違う、でも違う。佐吉は曖昧に首を振る。暗闇の中で感じる手の温かみは、本当に彼女がどこか遠くに行ってしまうような気にさせた。 「佐吉ちゃんって意外に怖がりでしょう」 「ち、違う」 「私も本当は怖がりなの。でも佐吉ちゃんは男の子だから強くなきゃあ……」 「違うってば!」 怖がりなんかじゃない、という言葉はふいっと咽喉から消えていってしまった。蛍が一匹、彼女の頬を掠めたのだ。だがそれだけじゃない。黄色い光は頬を照らす。そしてその頬が濡れていた。決して、瀬の水じゃない。佐吉は頭一個分違う彼女を見上げた。「…ななし…?」 「明日、お嫁入りしなくちゃならないんだって。遠くの家まで」 胸の奥の奥の、そのまた奥の、佐吉自身もよく知らないような部分が強く揺さぶられた気がした。彼女は佐吉に両腕を回す。強く抱きしめてもらっても、悔しいくらいに何も報われない。悪い予想は当たってしまったのだ。 「ごめんね」 でも泣いちゃだめよ、という彼女の囁きは滲んでしまった。彼女の肩越しの夜空に、無数の蛍が星のように瞬きながら飛び交っている。短い一生を燃やしながら、彷徨う。 星の飛ぶ日 (2010 筆) (14'02'10 前サイトより転載) |