ルール違反のバレンタイン
安室さんは、みんなのものだ。
それは普遍的な事実だったし、私だって分かっていた。皆が安室さんに好意を向ければ向けるほど、彼からの距離は一定に保たれる。私がポアロの一員だからと言って、それは同じだった。
それでも皆、その一定のラインをはみ出して、抜け駆けしようと必死だった。その抜け駆けに大きな役割を果たすのが今日。私もまぎれもなくその一員だった。二月十四日。この日が皆にとって勝負の日であり、特別な日でもあった。
はずだった。
それはマスターの一言で打ち砕かれた。ポアロで今年、バレンタインのプレゼントは受け取らない。それがマスターの決めたルールだった。
ポアロを守るためであり、そうして同時に安室さんを守るためでもあった。それが決まったのはバレンタインの一週間前で、そのルールは女子高生を発端に瞬く間に拡散され、皆が溜息を吐いた。私だって残念で仕方がなかった。けれど、同時によかったとも思った。安室さんが、他の女の子からチョコレートを受け取る様なんて見たくない。ましてや他の女の子と何か起こってしまったら。そんなことを考えるだけで頭がおかしくなりそうだった。だから少しほっとしたのは事実だった。
そうして今日がその当日。ポアロの平穏は何とか保たれた。そのルールの抜け穴を探し、プレゼントを渡そうと燃えている女の子もいたが、梓さんの目もありそれは阻止できた。店でパニックが起こることも無く、笑顔を絶やさずいる安室さんに私はほっと胸をなでおろした。
「いいんですか。先に上がっちゃって」
梓さんが言う。困ったような、謙遜するような言葉を口にする割には、その手はエプロンの紐にかかっていた。返答が返ってくる前にその紐を解いていく。梓さんは見た目よりもずっと強かだと思っていたが、やはりその直感に間違いは無かったなと思う。
「遠慮なさらず。梓さんにはしょっちゅう迷惑をかけてますから」
安室さんが答える。彼はしょっちゅう探偵の仕事が入ったなんだとシフトをすっぽかすから、そのツケはいつも梓さんに回ってきていた。私ももう長くバイトをしているが一人で店を回すには心許なくて、梓さんか安室さんが必ずいてくれていた。頼りない自分が嫌になる。でもいつまでも面倒を見てくれる安室さんが好きで堪らなくて、分かることも分からないふりをしていた。
「やだぁ。そんな気を使わなくていいんですよぉ。申しわけないなあ、せっかくのバレンタインなのに〜」
梓さんは遠慮深くそんなことを言いながらも、目にもとまらぬ速さで荷物をまとめていった。本当にごめんね、と私と安室さんを交互に見る。眉が下がって申し訳なさそうだが、どう見ても口元が緩んでいた。
こちらが何か答える前に、じゃあよろしくお願いします!と抑えきれない笑みを浮かべながら梓さんはポアロを去っていった。呆気にとられた私たちは、しばらく呆然とした後、目を合わせてくすくす笑った。久々に帰れることがよっぽど嬉しかったんだろうな。私より年上の梓さんだけれど、そうやって素直な気持ちを出せるところがかわいいと思う。
「さて、ぱぱっと片付けちゃおうか。なまえちゃん」
安室さんが言う。もうすでに店は閉めていて、あとは締め作業だけだった。私は返事をすると、溜まった洗い物たちを片付ける。
私はポアロに来る女の子たちと何ら変わりはない。これだけ安室さんとポアロで顔を合わしていても、帰りにどこか行ったりしたことはないし、プライベートで会ったこともない。それでも、こうやって二人きりの時間を過ごせるのは紛れもなく特権だった。私は洗い物をしながら、コーヒー豆の袋を棚に仕舞う安室さんを横目で盗み見ていた。
店の前を通った車のライトが、安室さんの髪を照らしていた。反射してちらちらと星屑のように光るそれが、どうしようもなく美しいと思った。
もう一度思う。私は、常連客の彼女たちと変わらない。それは重々わかっている。
けれどそんな建前は、鞄に仕舞ったものが明確に否定していた。
何日も前から練習して、一番綺麗にできたチョコレート。やっぱり諦めることなんてできなかった。衝動を抑えることなんてできやしなかった。
「ちょっとお手洗いに行ってくるね」
安室さんが伸びをすると言った。チョコレートのことばかり考えていたから、思わず変な声が出てしまう。裏返った返事に安室さんは喉を鳴らして笑いながら、奥へと消えていく。
静かになったキッチンに、水の音だけが響いていた。私はそっと息を吐くと、その音を止める。手を拭き、鞄へと足を進める。
小さな紙袋を取り出した。安室さんの目の色のような碧の紙袋を見かけて、気づいた時には買ってしまっていた。ラッピング袋だって彼の髪を思い出させるような薄い金色だ。材料を買っているときも、作っているときも、包んでいるときも、ずっと安室さんのことだけを考えていた。それが如実に表れたそれに、我ながら恥ずかしくなる。
――渡したい。心の奥底がそう叫んでいた。
それでも、一抹に残った理性がそれを押さえつける。私は皆と同じだ。いくらポアロでバイトをしているからと言って、そんな抜け駆けをしていいのだろうか。皆はルールという名の足枷のもと、チョコレートを渡すことは許されなかった。皆、安室さんを思ってこの日を迎えたはずなのに。
私だけが渡すなんて、そんなの、ずるい。そんな真似は、私にはできない。
「あれ、どうしたの」
なめらかなテナーが耳を擽る。安室さんがいつの間にか戻ってきていた。振り返ると目を丸くした彼が立っていて、思わず背後に紙袋を隠す。
「い、いや、なんでも……ない、です!」
安室さんは私をちらりと見やる。あまりの挙動不審さに呆れただろうか。不安になる私をよそに彼は、「そう」なんてそっけない返事をして作業に戻る。
見られていなかったかな。よかった。静かに胸を撫で下ろした。やっぱり、これは渡しちゃいけないものだ。マスターが決めたルールに皆従っているのに、私だけ破るなんてことはできない。
「これは独り言なんだけど」
ふと、安室さんが濡れた食器を拭きながら口を開いた。その後に何が続くのか想像もできなくて、私は唾を飲み込んで待つ。
「今日はいちだんと疲れたから、甘いものでも食べたいなあ」
安室さんは手を止めないまま、そんなことを言った。端正な横顔に張り付いたブルーグレーの目が、ゆったりと動いて私を見る。
「例えばここに、偶然、置いてあったりしたら嬉しいのに」
シルクのようにすべやかな声が、私を包む。心臓が煩い。頬が火照る。――良いのだろうか。その意味を、分かってしまっても。
私は震える手で紙袋を後ろ手から前に持ってくる。安室さんが立つシンクの前にあるカウンターに、そっとそれを置いた。
「ああ、こんなところに丁度、素敵なものが」
安室さんが白々しく言う。全身がざわめいて仕方がない。安室さんは食器を置き手を拭くと、それをそっと手に取った。優しい手つきで中身を取り出し、ラッピングをいでいく。
包装紙の中から、生チョコが姿を現した。恥ずかしくて心臓の音が聞こえているんじゃないかと思った。自分がまるで服を脱がされているように感じた。安室さんは料理上手だ。口に合うだろうか。
備え付けたピックでそれをもたげると、安室さんは口へと運んだ。安室さんの口内に、私の作ったものが吸い込まれていく。何とも言えない変な気持ちになった。自分が食べられているみたいな、味見されているみたいな、そんなえもいわれぬ感情が体を支配した。
彼は口を動かして、喉仏を揺らして飲み込んだ。何と言われるだろうか。聞きたいのに、聞きたくない。
かたく目を瞑って、安室さんの反応を待った。やっぱりやめておいた方が良かっただろうか。美味しくなかったらどうしよう。安室さんだってきっと、料理上手な子が好きだ。嫌われたらどうしようか。
「うん。すごくおいしい。きっとこれを作ってくれた子は、たくさん気持ちを込めてくれたんだろうな」
体から力が抜けて、ゆっくりと目を開いた。なぜだかじんわり、涙の膜が張る。体があたたかさを帯びる。この一言を貰えるだけで、生きていてよかったと思った。
顔を上げると安室さんと目が合う。止めようとすればするほど、視界が滲んでいく。その視界の向こうで、安室さんが眉を下げて笑った。愛おしむような目で。
「あと、これも独り言なんだけど」
彼が言葉を続ける。柔らかな表情が、好きで好きで堪らない。
「近くに、すごく美味しい店があって」
こんなに好きで、どうしたらいいんだろうか。皆が彼を好きなのは分かっているのに。
「もしこのチョコレートをくれた素敵な子が、お腹が空いていたら一緒に行きたいな」
安室さんの声に溶けてしまいたい。抜け駆けでも構わない。ずるい女でも構わない。
「これは独り言なんですが」
私は涙にぬれた声で、言葉を紡ぐ。
「すごく、お腹が空きました」
安室さんが微笑む。ルールなんか、皆と足並みを揃えることなんか、知らない。
私はこの人を、独り占めしたい。