いのちの慈雨

 雨降る新宿で、彼の言葉を呑んだ。
 路地裏に停めたFDは、人の声もないそこで、確かに地に落ちる水の音だけを捉えてゆく。くぐもった雨の音が、空間を切り取る。
 隣に座る上司は、それを口にしても表情を変えなかった。ハンドルに片手を預け、背中はシートにもたれ、その様相からは微塵の緊迫も感じられない。
「……承知しました」
 暫く連絡が取れなくなる――そんな彼の言葉は幾度となく聞いた。そろそろ慣れても良いはずなのに、何度聞いても心臓がざわめく。彼の命を宙ぶらりんにして、薄情に頷けるほど私は強くなかった。
「どうした、みょうじ」
 命なんて投げ出したはずだった。それは今でも同じだ。いつでも死ぬ覚悟はできている。ただ、それは自分の命の話だ。私のような凡人がいなくなっても日本に大した影響はないが、彼のような逸材を失うことは警察組織にとって大きな損失だ。
「え……」
「そんな顔して」
 ポーカーフェイスを気取ったつもりだったが、やはり顔に出ていたらしい。彼がこちらに顔を向け、そのまま私を射抜く。雨空の暗さの中でも光るその青灰が、じっとりと湿度を持つ。
「……何日、ですか。本当に無事で帰ってきますか」
 彼の目の前には、本音が漏れ出てしまう。固く結んだはずの口元が、ゆるりと解けて弱音を紡ぐ。
 訂正しようと思う。先に、彼を失う怖さを組織への損失と思ったが、それはきっと建前だった。そんなことよりもずっとずっと前に、私の本心が在る。彼を手放したくない。自分が先に行くことは怖くないけれど、愛する人が目の前から消えるなんて耐えられない。取り残されるのだけは勘弁して欲しい。降谷さんにはずっと生きて欲しい。それはたぶん、エゴであるということも知っている。
「分からないよ」
 彼が眉を下げる。微かに笑った間から見える白い歯に、生命を感じた。彼は今ここで生きている。それを証明できるのは、他でもない私だ。
 私は何か、返事をしようと思った。ここで何を言うのが正解か、頭を回転させて考えた。彼を待つ女として、負担にならない言葉を探した。そうすればするほど、言葉が喉を降りてゆく。
 沈黙が流れる。路肩の蛍光灯を僅かに反射する目の玉を、吸い寄せられるようにじっと見つめた。この職を選んだ時点で、死を恐れることは許されなかった。そんなことは知っていたはずなのに、あまりにも溢れる劣情に口が滑ってしまった。
「ごめんなさい。失言でした」
 どれだけの沈黙かはわからない、短くも長くも感じるそれのあと、私は言った。目を逸らす。上司である以上に、恋人であるこの人を繋ぎ止めたいと、顔を出した女の人格を押し込んだ。目を伏せ自らの膝を見つめ、彼の返答までの時間をやり過ごす。
 トン、トンと乾いたハンドルを指先で叩く音がする。雨の落ちる音とそれが重なって、心地よいリズムを刻む。
「じゃあ一つだけ、約束しようか」
 降谷さんはそのリズムを覆うように、口を開いた。
「帰ったら、セックスしよう」
 思いがけない言葉に、ゆっくりと顔を上げる。その声色は、いつもの低音と違わない。おどけるような素振りも見せず、淡々と言う彼は真っ直ぐに外を見つめている。いつもと変わらない声で言うものだから、やはり彼は掴めない人だと思う。
「生きている限り、僕は君に触れられるし、君は僕に触れられる。何度だってできる」
 ごろごろと鳴る周波数に包まれる。降谷さんがまたこちらを見る。そうして、ゆっくりと指先がこちらに伸びる。
 頬に手のひらが触れた。猫でも撫でるかのように、ゆっくりとさすられる。私の顔を覆ってしまえるくらいの大きさに、図らずとも胸が高鳴った。硬い皮の感触は、いつ触れても変わらない。じんわりと僅かに感じる体温に、彼の生を見る。
「精力と生命力は、案外同じだ。生物は生きていくためにセックスするし、セックスするために生きる」
 大粒がルーフに落ちた。他の雨粒よりも僅かに大きい音が響く。私は目を瞑り、彼の手に頬を寄せる。
「僕も例外じゃない」
「……待ってますから。生きるために」
 言葉が返って来ないので、私はゆっくりと目を開けた。こちらを見つめる彼の目が、僅かに細まる。薄い唇が開いて、確かに動く。
「その代わり、僕が帰って来なかったら」
 眼前で動くそれを、じっと見つめた。僅かな行間でさえ、明確に感じるほどの空間だった。
「他の人とすること」
 刺すようなその言葉に、心が崩れてゆく。逆光になった彼の顔がぼやける。
「……どうして、そんなこと言うんですか」
 暗く陰った顔のまま、微笑むその顔を見た。彼の優しさだと分かっているが、それは同時に酷だということも、この人はきっと知っている。
「人間なんてそんなものさ。どれだけ好きだ愛していると囁いたって、いなくなれば忘れていく。本能に従って、他に胸を躍らせる」
 頬に触れた手のひらが動いて、離れる。
「みょうじにはそうなって欲しい」
「なりません」
 私は目を離さないまま言った。誰よりもあなたが好き、あなたを愛している、一生を捧げる。そんな陳腐な言葉しか浮かばないけれど、それは比喩ではなく本心だ。
「あなた以上の人なんて、私の人生に現れません」
 その陳腐な候補群から選び出した言葉を、私は彼にぶつけた。降谷さんの目が、僅かに開いた気がする。それを逃すまいと見つめる私を遮るように、彼の手が私の頭を乱暴に撫でた。髪が崩れる。
 その手が離れてすぐに、私は目に被さった髪を直して視界を確保する。一瞬に違いなかったのに、既に彼はハンドルに手を置き、真っ直ぐに外を見つめていた。体ももう、前を向いている。
「……どうだろうな」
 降谷さんの掠れた声が、車内に響いた。それが寂しげに聞こえたのも、果たして私のエゴなのだろうか。

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