知らないあなたに命を預けて

 生まれてこのかた、日に当たれない側の人間だった。
 私の父はスナイパーだった。平和なこの日本という国で、ライフルを構えられるのは正義の側の人間か、悪の側の人間か、その両極端だ。警察の部隊のような真っ当な側の人間であれば私の人生も違っていたのだろうが、生憎父は悪側の人間だった。
 いわゆる組織の一員であった父が同じく組織の研究員だった母と出会い、生まれたのが私だった。そんな環境下で生まれた私でも、やはり日本国民である以上は日本の法に従う必要があったし、一応学校は通っていた。法なんて踏み躙る組織で生まれた子供が、その法に付き従って大人しく一般人に擬態する様は滑稽で仕方がなかった。
 普通の人間というものがどんなものなのかも分からないアンダーグラウンドの人間が、日の当たる学校なんて場所に通ってもうまくいくはずがなかった。浮かないようにと、人並みのコミュニケーションをこなしたつもりだったが、その当たり障りのない立ち居振る舞いが余計に人との距離を浮き彫りにし、親しい友人は一人もできなかった。
 体の成長に合わせて皆が人に友情ではない淡い感情を持ち始める時だって、私はその感情も分からず淡々と毎日を過ごしていた。学校なんて意味がなかった。いい大学に通うのはいい会社に就職するわけでもなく、自分の夢を叶えるためでもなく、組織に貢献するためだった。
 大学を卒業し、組織で研究員として毎日を過ごしていた。そんな中だった。彼と出逢ったのは。
 艶々と光る金糸の髪と、少し長い前髪の下で光る瞳は透き通るような碧で、見た瞬間心が波打った。こんな環境で育っていても、こっそり少女漫画を読んだことはあった。ああ、きっとこれが恋というものなんだ、なんて静かに一人で思った。
 バーボン。それが彼のコードネームだ。彼が唯の構成員から、コードネームを持つ幹部に成り上がるまでは恐ろしい速さだった。組織の一員としてのお手本のような立ち居振る舞いに、裏側の人間としての仲間なのだと勇気付けられた。
「起きましたか」
 心地よいベルベットの低音が降り注いだ。目を開き、自分が眠っていたことに気がつく。
 組織の研究所の奥にある部屋が、私の実家だった。小さな窓しかない、ろくに光も差し込まないから昼なのか夜なのかも分からない。そんなところが私の居場所だった。
 バーボンが微笑み、紅茶をベッド脇のテーブルに置いてくれる。こうしてバーボンはよく部屋に来てくれる。組織に来たばかりの頃からだった。
 今は、おそらく朝だ。彼がこうして起こしに来てくれることで、私の体内時計はなんとか正常に保たれていた。
「よく寝ていたようですね」
「……ん」
 寝ぼけ眼のまま、私は返事をする。バーボンがシーツに腰を下ろし、ぎしとベッドが沈む。眼前に迫る笑みにぞくりと体が震えた。この何かを秘めたような幽幽たる笑みが、彼を裏社会の仲間たらしめていると思う。
「バーボン……」
「ん?」
 小首を傾げて私の言葉を待つバーボンのシャツを握った。そのまま私は目を瞑る。こうすれば、彼はどうしてくれるのかを分かっていた。
 唇が覆われる。男を感じる彼だって、唇は柔らかい。角度を変えて感触を楽しむように何度も押し付けられて、私はそれを身をもって知っていた。
 バーボン、キスして。
 いつだったか、そう言ったのは私だった。彼に恋をしていると自覚して以来、自然な距離の詰めかたが分からなくて、彼が部屋に来た時に言ったのだ。
 彼は何も言わずに応じてくれた。私が組織で生まれ育ち、精神的にも良い状態でなかったことは分かっていたのだと思う。
 それに何より、ジンとも対等に話せるような立場にある私を、うまく利用したかったのは彼だろう。そんなことは私が一番よく分かっていたけれど、それでも良かった。
 暗闇の中で生きる仲間が増えたことも、その中で私を受け入れてくれて、希望を持たせてくれる彼が、心の拠り所だったのだ。
 唇が離れて、バーボンを見上げた。
「……なまえさん」
 バーボンが乾いた声でわずかに笑う。
「そんなに、名残惜しいですか」
 顔に出てしまっていたらしい。恥ずかしくて堪らないが、バーボンはそれを拭い取るように頭を撫でてくれる。心地が良くて幸せで、ずっと続いて欲しいと思った。
「今日は僕は任務があります。帰りが遅くなりますが、いい子でいるんですよ」
 いい子。そんな年齢じゃないのに、そう言ってくれるのが嬉しかった。両親に甘えられなかった分を、彼が埋めてくれていた。
「……うん」
 こくりと頷いた私に満足そうに笑ったバーボンは、紅茶に砂糖を入れてそのまま部屋を出て行った。

 研究室でしばらく働いたあと、久しぶりに外に出た。ずっとあんなところにいると、気が滅入ってしまう。
 ジンに見つかると送りを出すと言われかねないので、こっそりと出て電車に乗った。当てもなくふらふらする方が、気も晴れる。
 降りたことのないところで降りてみようと思い、米花町で下車した。昼間に外に出るのはいつぶりかも思い出せないくらいで、日の光が目にしみた。こんな地の下の人間でも、日に当たりたくなることはある。すれ違う人みんなが幸せそうで、羨ましく思った。
 ふとお腹が空く。そう言えば、朝紅茶を飲んだきりで何も食べていない。近くにあった喫茶店に立ち寄ることにした。
「いらっしゃいませ!」
 扉を開けると青空のような明るい声が耳に抜けた。焦茶色の髪を靡かせ、輝くような笑顔を見せるその女性店員に、私たちとは違うな、と思った。
「何名様ですか?」
 眩しいその笑顔に思わず目を細めてしまう。一人です、と答えると席に案内される。歩みを進める時にふと別の席に目を移した。
 心臓が止まったかと思った。
 目に飛び込んできたものは、見慣れた金の髪だった。見間違えるはずがない。その柔な髪質の下に覗くうなじは褐色で、どう考えてもあの人しかいなかった。
 顔が動いて、僅かに横顔が見える。女性客に笑いかけるその男は、紛れもなくバーボンだった。
 それなのに。あの暗闇の中から姿を表して、哀しげに、怪しく笑うバーボンとはどうみても別人だった。少しも翳りを見せないその底抜けな笑顔で、お客を楽しませる。どう見ても、日の当たる側の人間だった。
「あ……お、お客様!」
 思わず踵を返していた。勝手に足が走り出す。女性店員が引き止める声を無視して、そのまま喫茶店を出た。ドアを開けたときふと目を移して、映ってきたものを心に残した。
 喫茶 ポアロ。

 自分の部屋に戻って、混乱する頭を落ち着けようとするがそれは難しい話だった。あれは別人なのか? いや、そんなはずがない。どれだけ私が彼を見てきたと言うのか。あの体つきだって、柔らかそうに見えるけれど触れると硬い金髪だって、見た目よりもずっと男を感じさせる褐色の肌だって、あれはどう見てもバーボンだ。
 ただ、表情があまりにも違っていた。私はバーボンを、闇の側の人間だと、自分の仲間だと思っていた。それなのに。
 裏切られた気持ちだった。地の下にしか居場所がない私とは、彼は違ったのだ。あんな表情だってできるのだ。日の当たる場所に、居場所があるのだ。
 そう思うと無性に死にたくなった。闇の中で生きる人間として、元々希望なんてなかったけれど。彼が仲間でいてくれるなら、同じ側の人間なら、生きようと思えていたのに。
 ぼんやりと立ち上がると、クローゼットからベルトを取り出した。それをベッドの柵に括り付け、深く息を吸う。
 こんな人生なら、彼が仲間でないなら。私の人生、生きている意味がない。
 そうしてそこに首を入れ込もうと、ベルトを握り締める。
 その手が、硬直した。
「勿体無いですね」
 聞き慣れた声の所為だった。いつの間にか部屋に入ってきていた男。黒いベストに青いストーンのループタイ。いつもの、バーボンだ。
 口元に笑みを携え、下瞼を押し上げて笑っている。笑顔なのは昼間のあの男と同じなのに、まるで違っていた。今目の前にいるのは完全に、裏の世界の人間の顔だ。
「どうせ死ぬなら、僕にその命、預けてくれませんか」
 彼が歩みを進めて、私の手からベルトを抜き取る。座り込んだ私に、バーボンはしゃがんで目線を合わせてくる。
 私の顎に彼の指が触れた。白い手袋越しでも、その硬い指の感触を感じる。
 聞きたいことはたくさんあるのに。この射抜くような双眸の前には、全ての言葉が萎んでしまう。
「死ぬ時は僕が殺してあげますから」
 バーボンが口を動かすたびに、白い歯が覗く。心臓が音を立てる。その私の心まで見透かすような視線から逃れたいのに、彼は私の顎を掬い上げて、逃れようにも逃れられない。
 唇に柔いものが触れた。バーボンの唇だ。油断して開けたままだった口の間を割って、舌が入り込む。
 私の舌を舐め取って絡めてくるその舌に、知らずとも応えてしまう。分からないことも、昼間味わったばかりの絶望も、全てをうやむやにされているのに、それさえも心地よく感じてしまった。
 柔らかいけれど弾力のある肉の感触が、口内で這い回って息苦しい。苦しいのに、こんなにも幸福に思うのは不思議だと思う。体が火照るのも、もっと交わりたいと思うのも、本能に刻まれたそんな感覚は理屈では理解できない。考えようとする前に蕩けた脳がそれを阻む。
 絡め合っていると、自ずと音が鳴った。水の跳ねるような音が部屋に響いて、肩が震える。頭がぼやけてゆく。何も考えたくない。目の前の彼を感じたくて、夢中で舌を動かす。
 絡め合っていた舌が解けて、口内から去っていった。音を立てて唇が離れる。生理的に滲んだ涙の膜の向こうで、バーボンが口を開く。
「だからそれまで」
 きつく横一文字になったその口元が、真剣な面持ちで言う。
「勝手に死ぬことは、この僕が許さない」
 目の前のこの人は、誰なのだろうか。いつも怪しげに笑っているバーボンとも、昼間見た柔な笑みの男とも違う。いつも敬語だったその口調が外れて、命令のような口調だって初めてだった。
「……はい」
 分からないまま、頷いた。知らなかった。知らなかったけれど――この人は、私の知らない以上の顔を持っているのかもしれない。
 この男に、人生を委ねるのも。すべてを押し付けて、この男の許しが降りる時まで生きるのも――それは、悪くないのかもしれない。

×
「#お仕置き」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -