You Are the One
三つ四つでも年が離れれば、世代のものは大きく変わる。一回り以上離れたならば、それはもう別世界の住人だろう。宇宙人にさえ見えているかもしれない。
そんな相手とまさか二人でグラスを傾けることになるなんて、神様はよほど意地が悪い。と、同時にグッ・ジョブとサムズアップして差し上げたくもなった。直帰を許された外回り、そこに割り込んだ大雨という神の思し召しにより、図らずとも私たちは居酒屋の暖簾をくぐった。
彼の明確な年齢は知らないが、噂や地位から鑑みても一回り以上離れていることは明白だった。雨で少し湿った前髪は、いつもよりも僅かに掻き上げられている。おかげで中央に寄りがちな眉がよく見えた。女の私の丸い額とはまた違う、直線で作られた形の良い額が惜しげもなく顕になっている。
意識しないよう努めるが、それは無理な話だった。背中が僅かに湿るのは、ゲリラ豪雨のせいだけではない。
「課長。また同じものでよろしいですか」
空になりかけたグラスを目端で捉え、その人へと問いかけた。私が半分を飲む間に、この人は二つのグラスを悠々と空にしてしまう。
課長はザルである、社内では通念なりつつある噂の一つだった。聞いた時はその表現にあまりピンと来なかったのだが、眼前で繰り広げられる光景に納得する。先人は詩人だと感心した。網目を抜け酒を落とすのに、一寸も崩れず平気で形を保つ。まさにそんな人を目の前に見ていた。
「ああ。だがいい、自分で頼む。そう気を遣わなくていい……このご時世だ。俺がパワハラで訴えられちまう。……いや、アルハラっつうんだったか? ハラハラうるせえな」
かのリヴァイ課長は渋い顔を保ったまま、冷えたグラスを一気に傾けた。顰めてしまう程濃いはずのハイボールも、この人は真夏のミネラルウォーターの如く流し込んでしまう。
「訴えるなんて、そんなことしません。私が……したいからしてるんです」
口はなんだかよく回る。目の前のグラスはまだ残っているのに、止まることなく湧き上がる熱は口にも伝播する。
「この時世に珍しい趣味だな」
彼は柔らかく蒸されたおしぼりを通り過ぎ、バッグから取り出したウェットティッシュで机の滴を拭き取った。度が過ぎる潔癖症も、こう目の前で見ると少し不安になる。私は彼に不快な思いをさせていないだろうか。いつ何時も、綺麗でいられているのだろうか。
忙しない店員にハイボールを頼んだのに、そのすぐ後生ビールを投げるように置かれた。声をかけようと腰を浮かした時、深く豊かな声に制止される。
「これでいい。そろそろ生でも良いかと思っていた」
私の言葉も待たず、彼はすぐさまジョッキに口を付ける。彼なりに部下に気を遣わせまいとしているのを嫌でも理解してしまう。
内から滲み出る熱が嵩を増す。じわじわと上り、両頬を皮膚の下から染め上げる。この人はこういう人なのだ。好きになるなという方が難しい。
居酒屋の喧騒の中でも、私たちの座る席だけ切り取られているようだった。それは隅の席だからか、それともこの人しか映らないからか。慌ただしい食器の音も、酔っ払いの笑い声も、外の世界になりつつあった。
心地よいその空間に身を委ね、流れる沈黙を味わう。滅多にないこの機会、何か気の利いたことを話したいのに、脳内で生まれる案は泡になっては消えていく。それでもずっとこうしていたくて、飲み終わった時に生まれる帰宅の選択肢が怖くて、数ミリ単位でしかグラスは傾かない。チューハイは蟻の餌ほどしか流れてこない。
強い雨音が窓を何百回と叩いている。木の枝のような硬いものがそれに混じった時、口を開いたのは彼だった。
「……まあ、なんだ。ミョウジ、お前普段楽しみはあるのか」
「楽しみ?」
予想だにしていなかった質問に拍子抜けし、目が丸くなったのを感じる。
「仕事ばかりじゃストレスも溜まんだろ。何かしら息抜きがねえと」
ああ、この人なりに心配してくれているのだと。心の中の翻訳機はうまく働いてくれている。営業仕事は甘くない。投げられた厳しい言葉は忘れたはずだが、きっと体のどこかに蓄積している。
「ああ……そうですね。人並みには、あると、思います」
それがリヴァイ課長のお側にいることだなんて、言えたらどんなに楽だろう。そんな変態じみた言葉はきっと、この人は求めていない。
「男はいんのか」
思わずむせてしまいそうになった。今日は突拍子もないことばかり降り掛かる。表情は一ミリも変わらないのに、この人も少しは酔っているのだろうか。アルコールは人の距離を縮める、手助けになり得るのだと身をもって知る。
「俺らの若い頃はそういう話ばかりだったが……最近の若い奴らはあまりしねえだろ。興味がねえのか? 俺にはよくわからん。これもセクハラになんのか」
思考回路の掴めないこの彼の、人間味を垣間見れている気がする。遠く離れた年の男性は、同様に手も感情も届かないと思っていた。けれどこう話してみれば同じ人間で、この人はこの人なりに歩み寄ろうと努力しているのだと知る。
「いえ、大丈夫です」
敏感な世の中なのは認めるが、何でもかんでも跳ね除けていれば人は歩み寄れない。小さな居酒屋のテーブルに同じ高さで並んで話せば、そして少し酒場の雰囲気を拝借すれば、今、彼の領域とも少し交われるような気がしている。
「若い子達も、しないことはないですよ。むしろ多くなってるような気もします。目に見えづらくなっただけで。出会い方が多様化して、自由奔放な子も多いですし」
「多様化? たとえば」
彼が興味を持ってくれたことが嬉しくて、口はひとりでに言葉を続ける。
「そうですね……アプリとか」
「ほう……アプリ。何のだ」
若者の話は、酒の肴にも足り得るらしい。それがなんだか不思議に嬉しい。そうして新たな文化に興味を隠さず、好奇心に溢れた子供のように尋ねる彼が、烏滸がましくも可愛く思う。
「マッチングアプリです。私はしませんが、周りだとしている子が多いです。
写真やプロフィールから好みに合うかを判断して、食事などで顔を合わせてお付き合いするか判断します。……私はしてませんが」
余計なことだと思いつつ、憧れの人に嫌悪されるのだけは避けたかった。世代が違えば出会い系と呼ばれていたそれに、彼がどんな印象を抱いているかは分からない。ましてや潔癖なこの人に、私は清廉なのだと証明したかった。
「やけに強調するが……かえって怪しいぞ」
木の皿に盛られた塩キャベツを、男の白い歯が噛み砕く。美しく生え揃ったその歯に、私の虚栄心も共に咀嚼されてしまう。
「……すみません。嘘をつきました」
この人の鋭い眼光の前には、取り繕いは無意味なのだと知った。ありのままの姿で綺麗だと思ってもらえる方がずっと、誠実な愛なのだと思い出す。
「一度だけ……男性と会いました。ずっと一人な私を見かねた友人に勧められて」
歳上の上司に長く恋慕を抱き、猶もろくなアピールさえできない私は、友人の心配の対象になっていた。そんなに好きなら伝えればいいのに。無理だよ。当たって砕けろじゃん。
言われるたび、砕けたら元に戻る自信がなかった。大袈裟な学生の恋とは明確に違う、次なんて浮かび得ない重たい感情だった。
「ほう、そうか。いいじゃねえか」
ひとつも変わらないその声色が残酷だ。少しくらい動揺してくれたら、私だって夢を見続けられるのにと、身勝手にも思う。
「そ、その人とは食事に行ったきり、ですから」
聞かれてもいないことを付け足し、口は必要のないアフターフォローに奔走する。
「そうか」
また沈黙が舞い戻る。気を抜けば唇が震え、瞼は濡れてしまいそうだった。余計なことを口走った自分が悪いのに、どこか期待していたのだ。もしかしたら、もしかしたらと。
ぬるくなったグラスを握り締め、雫が手の内に沁みる。異性に慣れた女の子なら、ここで気の利いたことを言えるのに。雨を言い訳になんてしなくても、次の店にだって行けるかもしれないのに。
「……俺の話は面白くねえだろ」
唇を噛み切り内へと篭ってしまいそうになった時、また彼の声に引き戻された。課長の言葉は突然だ。脈絡がない。驚きと焦りとともに顔を上げると、真っ直ぐになった眉の下、碧い瞳は斜め下へと落とされていた。
「できる限り話題を広げようとしたが、今だってこの有様だ」
自分でも呆れてしまうほど、この人が読めない。そんな努力を、このお方が私のために。
口内はすでに乾き切っているのに、喉が勝手に動いてなけなしの水分を嚥下した。ほのかに苦い、アルコールの味がする。
「その何とかアプリでは、饒舌に女を口説き落とせるような男が人気なんだろうな」
緩められたネクタイも、柄にない弱気な言葉も、高みで羽ばたく上司を人間に引き戻す。
「ミョウジもそうじゃねえのか」
「ち、違います!」
ごとん。分厚いガラスは音を立て、木のテーブルへと置き去られた。代わりに軽くなった口が、抑えきれない感情を乗せて運ぶ。
「私は……私は、どちらかと言うと、多くを語らない方が好きです」
落とされていた視線が、ぬるりと動いて私を見る。射抜くような視線に体は上気し、沈黙に耐えぬく技量を失い去る。
「ご、誤解されがちだけど、でもたまに話すと驚くくらい優しくて、周りのことをよく見ていて……怖そうに見えるけど、誰よりも周囲のことを考えてる、そんな、人…が…」
枷を無くした口が猛スピードで回り続けた。かと思えば出ていく言葉に我に返り、勢いづいたはずの声は尻すぼみに失速する。
「まるで告白じゃねえか」
視線がまた落ち、短くも生え揃ったまつ毛が動き、男の喉はごろごろと鳴った。歳下の女の剥き出しの好意を、どこか困ったように笑って受け止める。
「……言われなくても、よく知ってる」