夜灰
床が沈んでゆく。一歩を踏み出すたび、わざとらしいほどの悲鳴が上がる。昼間なら数多もの革靴の裏に紛れているのに、皆が寝静まった夜半、それはひときわ際立った。低く軋む音は宿舎の歴史を物語る。ブーツは履いていない。いくら調査兵団に心臓を捧げた身でも、湯浴みの後くらいは脱ぎ去りたい。
ランタンも持ってはいなかった。宿舎には見張りがいる。僅かな睡眠を削りほつき歩くのは兵士の自由だが、闇の中での灯りはあまりに目立つ。
それに何より、持つ必要がないという方が大きかった。足は道順を嫌と言うほど覚えている。巨人が寝静まった後に森を歩いた、そんな不本意な経験が私の多少夜目を鍛え上げてはいたが、たとえその経験がなくとも足はひとりでにそこへ向かうだろう。
廊下を十歩進んだら、角にぶつからないよう曲がり、そうして小股で五歩。あの人はそこにいる。
体に染みついた通りに、扉が眼前へと現れた。右手を差し出せば僅かにひやり、ドアノブはぴたりと寄り添う。手首を右へと傾けて、擦れる金属音は視界を広げる。隙間から光が漏れ出る。
橙の灯りに包まれて、見慣れた形がそこにいた。隅のソファに腰を下ろし、背中を丸めた男。開かれた両膝の上に互いの肘を置き、右手には布、左手には見慣れた鋼を携える。
ドアノブよりもずっと重みのある鋼が、揺れて音を立てていた。巨人の命を削ぎ、幾度となく血を飲み重みを増した刃。男はそれを、真白な布で愛撫する。
「……何しに来た。帰れ」
私がドアを閉めたと、確信を得てからだった。こちらに一瞥もくれず、代わりに声だけを渡される。低く沈んで低空を伝い、そのまま私の体に伝播するその声は、いつかの芝居で聞いたテノールに等しい。昼間より僅かに太く、たしかに低い兵士長の声。
「夜這いに来ました」
後ろで手を組み、小首を傾げて言った。こんな小手先の仕草が、この人に響くとは思っていない。けれども悪足掻きくらいはさせて欲しいし、好きな人の目には少しでもいじらしく映りたいと、乙女は思うものだろう。
一歩を踏み出すたび、ワンピースの襟から空気が入り込む。それは何の抵抗も受けず、肌に直接沿い足先まで落ちる。何の色気もないパジャマだが、中の布をすべて脱ぎ去りここに来たのが、私のせめてもの意思表示だった。床は生々しく軋み、これから起こる何かを胎は勝手に期待する。
「ませた言葉ばかり覚えやがって」
変わらず布はブレードを拭く。刃物の手入れは永遠だ。粉を打ち、拭き、油をひき、切れ味が鈍ればまた同じことを繰り返す。私含めた兵士達は求められた時にのみ――それも嫌々――行っていたが、兵長に関しては全く別だ。彼は何に関しても手入れが好きらしい。武器、服、履物、掃除だって空間の手入れと考えれば頷ける。そうして彼の周りにあるものは、何だって隙なく輝く。
「覚えさせたのはあなたじゃないですか?」
彼の隣に腰掛けた。腰を曲げ、顎を引き、救い上げるように見上げた。殺気を帯びた人類最強の兵士――の顔よりは僅かに穏やかなのかもしれないが、それも私の思い込みかもしれない。それほどに読めないお人だ。依然として人類の剣を握ったまま、目線をそこから離さない。
「ナマエ。……テメェ、大人をあまり舐めるんじゃねえぞ」
手首を返してブレードを裏返し、その出来を確認する。彼のわずかな機微に沿い、鋼鉄はカチャカチャと音を立てる。丁寧に、慈しみ、隅々まで手入れされる武器に、思わず自分を重ねてしまう。
「何も知らねえガキが」
無意味だと知りながら、顎を引き肩を捩り、精一杯の蠱惑を目指す。
「……知らないことだらけです。だから、教えてください」
橙が彼の頬を照らしていた。堀の深い眉間から鼻には影が落ち、そのまま同じ顔が刃に映る。
「兵長」
熱を帯びさせ呼びかけたつもりでも、この人は少しも応えてくれない。表情のひとつも変えず、自らの育てた愛刃を神経質に確認する。
沈黙は炎と共に揺れ、終わりは来ない。彼の動きに従う鉄が、動くままに鳴くだけだ。
「……わかりました」
沈黙を破ったのは私だった。いつまでも重ならない目線を捨て、ソファに沈む体重を減らす。
「“ガキ”は大人しく帰ります」
当てつけのように言ってしまう。腿に張り付いた革が、1センチずつ、1ミリずつ離れてゆく。もう少し、少しと、最後の1ミリになった時、そんなそぶりを見せなかったくせに、けれどもやはり、彼は動いた。
「……何ですか」
手首を掴まれていた。1ミリどころではない、ソファの革へと私は沈む。
「ませガキはやっぱり口だけか」
鋼は机に置かれ、金具の音が体を痺れさせる。彼の手入れの標的が、ブレードからこちらに移った合図だろう。
「……帰れって言ったのは兵長じゃないですか」
年下の女を弄ぶ大人の余裕に、つい声が尖る。羞恥、悔しさ、押し寄せるそれらは私の顔に熱を帯びさせる。年齢差が縮まることはないのと同じで、いつまでも追いつけない。
彼の伏せられていた視線が、ゆっくりとこちらを向く。合わなかった視線が、初めて絡む。オレンジに染め出された碧の目は、肩が震えるほどの色香を放った。
「毛布に抱かれる方が良けりゃ勝手にしろ」
縮まった眉間が、眼窩に沿う窪みが、年上の男を魅力的に演出する。重心が後ろに倒れ、背中が革に沈みはじめ、髪の束が放射線上に広がる。
「私の答えなんてわかってるせに。 ……ほんと、ひどい上官ですね」
見間違いかと思うほど僅か、けれど私にはしっかり分かる。たったその程度だけ、彼の口端が上がった。細められた目をずっと見ていたいけれど、焦点が合わないほどに近寄ってしまえばもう見えない。
「クソ生意気な部下には似合いじゃねえか」
彼の顔は余すことなく見たいのに、羞恥には抗えず瞼が落ちてゆく。鼻腔をくすぐるわずかな石鹸の匂いも、毛束の落ちる音さえ聞こえる距離も、ひとときの安寧の上に成り立つ。
誰もが寝静まる夜、あの巨体もまだ眠っている。日が登れば顕になる絶望も、闇は隠し通してくれる。愛しさだけを見て、何もかもから目を瞑りたい。この時間だけは、巨人にだって邪魔はさせない。