あなたの母になりたい
あの鋭い眼光はどこへやら、そこにあるのは宙を見る虚ろな瞳だ。
顔は熟れすぎた果実のように赤らみ、いつもはピンと張ったはずの背筋は丸く萎み、薄い唇からはひっきりなしに咳が漏れ出た。げほ、ごほっ、と重くのしかかるようなそれを繰り返すたび、背中が大きく揺れ、私はそこを撫でざるを得なかった。
「兵長。大丈夫ですか」
口も目つきも悪くて、小柄な背丈を感じさせない肉体と振る舞いを持つこの人が、風邪なんてものにここまで弱らされるとは、人類最強もあくまでホモ・サピエンスの一人なのであった。咳をするたびに揺れる背中は火傷しそうなくらいに熱く浸食され、かたい筋肉でさえも弱弱しく感じた。
ヒストリアが女王に即位し、未だ問題は山積みとは言え、以前に比べたら少し息をつけるようになったのは事実だ。きっと疲れが出たのだろう。兵長は普段から表情をほとんど変えないし、疲れも見せない、そして休んでいるところなんてほとんど――そもそもこの人は眠るのかさえ定かではないが――皆見たことがない。そんな生活をしていれば、いくら兵長といえども体調を崩すこともあるだろう。
それらの疲労が熱として出て、彼の体を苦しめている。クラバットで首元をかたく守り、清潔と几帳面を体現したような普段からは考えられない、今の彼は淡いブルーのシャツの首元を緩め、まさしく弛緩した様相であった。
「ああ、だ、いじょうぶ、だ……悪い、な……」
低く威厳に満ちたはずの声は弱弱しげに震え、掠れ、鼻声じみたそれは、得てして庇護欲をくすぐった。こんなことを言うのは不謹慎なのだが、あの人類最強の兵士も、三九度の熱には勝てないのだと思うと――ひそかに胎の奥がざわついた。
汗で滲んだ皮膚から汗がこぼれ、首筋を流れ落ちる。先程まで額に乗せていたタオルは、体温ですっかり熱くなっていた。
「タオル、濡らしてきますね」
「ああ、すまねえ、な」
瞼の半ば被さった目を向け、途切れ途切れにそんなことを言われる。背中と肩に手を添え、その硬い体をベッドに横たえた。その動作でさえも咳を誘発させてしまったようで、彼は咄嗟に私に背を向け、反対側を向いて咳をした。片手で口元を押さえ、本当はもっとひどい咳なのだろうに、目をかたく瞑り、くぐもった声でできる限り抑えているのがわかる。もう片方の手ははシーツをかたく握り締め、小さく震えていた。こんな時にまで部下を気遣い、できるだけ耐えようとする姿が、兵士長を兵士長たらしめるのだろう。一回り以上離れた上司が、その気遣いなのか男の見栄なのか定かではないが、どちらにしろ我慢する男の姿はどうして、こんなにも。
その感情の先をぐっと飲み込み、こちらに向けられた背中をまたゆっくりと撫でた。上司であるリヴァイ兵士長の体に、部下の私が触れることなんてそうそう許されるものではない。筋肉の鎧を纏った大人の男の背中は、私にとっては今日が、初めて触れた日だった。
咳が収まったのを見計らい、そっと手を離す。「ちょっと待っててくださいね」
兵長がかすかに頷いたのを見て、私は部屋を出た。炊事場に行くと汲んだ井戸水がある。その水を洗面器に入れ、タオルを浸す。
エレンやアルミンたちは皆、揃って会議に駆り出されている。この所エレンの実験とヒストリアを中心とした会議ばかりだ。今の所は情勢も落ち着いてるとは言え、いつ何があるかわからないし、皆も疲労が溜まっていることだろう。誰が次倒れのかも分からない今は、まずはリヴァイ兵長に体調を治してもらうことが先決だった。
「リヴァイが言うこと聞きそうなのはナマエだね。頼んだよ」
ハンジさんが言ったそんな言葉を、みな当然のように飲み下していったが、改めて考えると押し付けられた感が否めない。なんでもイエスと言う私を見越してのことだろうが、私は例によって首を縦に振った。
猛獣の世話を押し付けられた気分だったが、実際はさながら弱った子犬のようで、少々得した気分になった。熱で潤んだ瞳も、火照った肌も、衝動的に撫でてしまいたくなるほどだ。リヴァイ兵長を格好良いと思うことは数知れずあったが、可愛いと思ったのは初めてのことだった。そもそも大人の男にそのわうな感情を持つこと自体、今まで経験がなかった。
かまどに目を移すと、先程から微かな火種で煮込んでいたスープが頃合いだった。火を消すとそれを器に注ぎ、盆に洗面器と共に乗せて部屋へと戻る。
兵長は横を向いて枕に顔をうずめ、また咳き込んでいた。慌てて駆け寄ると盆をテーブルに乗せ、また背中をさする。兵長が上を向いた半身側の左手を弱弱しく上げた。すまない、という意思表示なのだろう。律儀だと思う。
咳が収まって、彼の体勢を仰向けにさせた。「兵長、スープを作りました。少しでも食べましょう」
汗のにじんだ顔で、彼は私を見る。「いや……いい」
そんなことを言って背を向けるものだから、私は焦って言葉を返す。
「だめです。昨日から何も食べてないでしょう? 少しでいいですから。栄養取らないと」
「いやだ……お腹空いてねえ」
せっかく作ったものを否定されているのに、その少年のような独特の口ぶりがかわいくて、腹立たしさどころか口元が綻んでしまう。兵長は口を慎まず言えばガラがかなり悪いのに、たびたび子供のような言葉遣いをするからずるい。彼がこの風体で地上で受け入れられているのも、勿論彼の実力ありきのものだが、この可愛さも一役買っているのではと思う。
「ひとくちだけ、食べましょう。みんな兵長を心配してます。人類が希望を、あなたに預けてるんですから」
私の言葉に僅かに肩を震わせた彼は、もぞもぞと体を動かし始めた。兵長も皆に愛されている実感は嬉しいのだろうか、などと勝手に考えてしまい、無礼だと自分を制す。
背中に手を添え、起き上がるのを助ける。ベッドの背に背中を預け、うなだれたままこちらを見つめられる。荒い息を吐く彼は、立体機動で飛び回っている時でさえ見たことがなかった。私は器とスプーンを盆から手に取り、腿の上に置く。
「はい。兵長、お口を開けてくださいね」
「いい。自分で食う」
おぼつかない手つきのまま、器とスプーンを取り上げられた。正直、兵長相手にどこまでしてよいのか分からなく、彼がそう言うのならと、私は黙って見るしかなくなる。
彼は背中を丸め、こちらが不安になるような手つきでスプーンを動かした。食器が戦慄いている。スープを掬う。スプーンが口に近づき、唇に触れる。
「あっ、つ、」
辛うじてひっくり返しはしなかったが、兵長は体を跳ねさせて声を上げた。
「だ、大丈夫ですか」
「いい。少し当たっただけだ」
「だめです。やっぱり危ないです」
私は思わずそんなことを口走り、血管の浮き出る、無骨な手からそれらを取り上げた。
「兵長はいま、病人なんですから。ふうふうしてあげます」
「ふうふ、って……お前、な」
眉を顰め、微かに顔を赤らめたような兵長に、なんだか今の彼になら、無礼だとかそういったものは存在しえないような気がしてくる。私は口の端が吊り上がってしまわないよう気を付けながら、スプーンの中のスープを冷ましてゆく。息を吹きかけるたび、表面が揺れる。湯気がおさまってきたのを見て、彼に目を移す。
「はい。あーん」
「おい、ナマエ……お前、なんか楽しんでないか」
「まさか。我らが兵士長様が、こんなに弱ってらっしゃるんですから」
そう言いつつも、声が上ずるのを押さえられない。こちらを睨んでも全く怖くない、この目の前の子犬に、母性本能が沸き立つ。
「ほら。あーん、してください」
しばしの沈黙のあと、兵長は観念したように口を開いた。そこにそっとスプーンを滑り込ませる。
「熱くないですか?」
「……ん」
小さく刻んだ野菜と、ぬるい液体が口に滑り込んでゆく。口に含んで味わったあと、喉仏を上下させて、それを嚥下するさまを盗み見る。
「……悪くない」
目を伏せて言う彼に、心が落ち着く。「よかった。まだまだありますからね」
兵長はもう反抗しなかった。私が掬い、息で冷まし、それを口に含み、体内に取り込んでゆく。おとなしくされるがままの彼は、もういいと言えばいいのに言わず、結局器を空にしてしまった。
「よかったです。栄養は兵士の要ですから」
兵長は目を逸らして、こくりと頷く。猛獣を手懐けて子犬にした気分は、彼がよく言う言葉を借りれば悪くない、自分なりに言うならば、最高の気分だった。
食器を盆に戻し、彼に再度向き直る。あとは新しいタオルで額を冷やして寝てもらおうと思っていたのだが、シャツの色を濃くする汗染みに気づいてしまった。
「兵長、このまま少しだけ待っていていただけますか?」
「…ん、ああ」
掠れた声が色っぽいと、思う自らを叱りながら部屋を立て炊事場に向かった。まだ残っていた薪に火をつけ、鍋に少し水を汲み、火にかけた。
あれだけ汗をかいたら、体を拭かなければならない。看病する身としては当然のことなのだが、どこか頭にぼんやりと霞がかかった。兵長は、これまで誰かに看病されたりしたことはあったのだろうか。たとえば、特別な女性だとか。
もしあるのならば知りたいけれど、知ったらきっと私は私を殺すだろう。どんな人が好きなのか、どんな人と時を共にしてきたのか、それを知ったら、私はたぶん知らず知らずのうちに、その人たちを真似てしまう。自らを見失いたくないから、知りたいけれど、知りたくないのだ。
小鍋の中で揺れる液体を合わない焦点でぼうと見つめていると、大きく音を立てて沸き立ち始めた。慌てて火を消し、それを近くにあった大きな深坪の皿に注いだ。
聳り立つ湯気をかき消すように、井戸水を注いで混ぜ、人肌に調整する。新しいタオルと共に、その容器を持って兵長の部屋へと戻った。
「兵長、戻りました。衣類はここですか?」
「あぁ? 何だ一体……」
訝しむ彼をよそに、勝手に兵長のクローゼットを開けた。整頓されたその中身に、心臓が捻られてしまうよう気がした。当たり前だけど兵長も人間で、生活してるんだと思うとまたびりびりと視界が揺れそうになり、努めて平静を呼び起こしながら、クルーシャツとズボンを取り出す。
状況が掴めない兵長の元に行き、ベッド脇の椅子にまた座る。
「汗がひどいですから、体を拭いて着替えましょう」
私はそのまま流れるように彼のボタンに手をかける。と、呆気に取られていた兵長が我に帰り、声を上げた。「何言ってる。そこまでしなくていい」
「汗かいたままだと、冷えてまた体調が悪化しますから」
「自分でやる」
「そんなに朦朧としてるのに、できないですよ。いいから手を退けてください」
言葉は本当で、彼の目はいっそう虚になってきていた。額の汗の量も増え、どう見てもまた熱が上がってきている。ボタンを守る彼の手が、震えているのもそのせいだ。
「……」
顔を覗き込んで言うと、兵長は口を一文字に結び、いつもからは信じられないようなゆっくりとした動作で手を退けた。私は息を吐き、そのボタンをひとつひとつ外してゆく。
汗で張り付いたシャツが、ボタンを外すごとに緩む。私も一応兵士だから鍛えているし、同期なら一番隆々とした肉体のライナーが訓練兵時代、水浴びすると上半身裸で歩き回ったりしていたから、男の鍛えた肉体は見慣れたと思っていた。それなのに、いま目の前にある胸筋も、腹筋も、腕の筋肉も、肉の質が違うと思わせるほどの引き締まりようで、びりびりとこめかみが震えた。思わず息を呑む。
そのかたい胸元には、立体機動装置用のベルトの痕がくっきりとついていた。私も付いているし、調査兵団である以上は避けられないものだが、その刻まれようが私よりもずっと色濃くて、彼がここで生きてきた年月を物語る。
ベッド脇に戻ると、兵長はまた荒い息でこちらを見上げた。はだけたままにしてしまったシャツを脱がせ、下半身に被さったコンフォーターを避ける。ベルトをつけていないズボンを、ゆるめるとゆっくりと脱がしてゆく。男の象徴を感じさせるその布は、意識するとおかしくなりそうなので、できるだけ目を逸らした。
太腿についた、上半身と同じベルトの痕も、岩のように固まった太ももと脹脛の筋肉も、僅かに生えた体毛も、上司を男と認識するには十分に足るものだった。
できるだけ意識しないように、ひとつの任務をこなすように、浸したタオルを掬い上げて絞る。雫が垂れないのを確認した後、顕になった上半身にそれを沿わせた。高熱で項垂れながらも、ぴくりと体を震わせる兵長に意識を向けないようにして、汗を拭い取っていく。
数日風呂に入らないのが普通のこの生活でも、兵長の体臭は僅かなものだった。それでも鼻を掠める汗の匂いと熱気にも、頭が当てられそうになる。
首を拭いて、うなじを見ると、兵長のおなじみの刈り上げ部分が見えた。こんなに近くで見ることもなかったから、ああ、兵長だ、と今になって変に実感しながら、自らがここから切り離されたような不思議な感覚を覚えた。ぼやけた頭のまま、そこにも滲んだ汗を拭く。筋肉で張った肩、体に対して太い腕、厚い胸板、かたい腹筋。張り出した太もも、鍛えた女と比べても全く違う発達した脹脛、バランスよく締まった足首、関節の張った足の指まで。汗も汚れも、兵長に付く悪いものを全部拭うように拭き取ってゆく。目の前が霞むのも、空間が鈍くあついのも、絶対に、兵長の熱と湿ったタオルの所為なのだ。
「わりぃ、な……」
下半身に下着だけ身につけた、そんな格好を部下に見せるのは、きっと兵長は恥ずかしいと思うだろう。矜持を折られたと思うかもしれない。しかし、私は私でこの様相に母性本能が溢れ、庇護したいという欲求を否定できなかった。私のような一介の兵士が、人類最強の兵士を庇護することなんて、必要ないと分かっているのに。
「……いえ」
淡々と答え、新たなシャツとズボンを彼に着せてゆく。小さな少年が母にされるように、大人しく服を着せられる姿が、いつもよりも一回り小さく見えた。
どちらも着せ終わった頃には、兵長はまたぐったりと脱力していた。あとはゆっくり休んで貰えば良い。私は兵長の肩と背中に手を置き、寝かせようとする。
そうして、その時自らの背中に手が回ったことも、それが兵長のものであることも、気付くまでしばらく時間を要してしまった。熱い体温が触れて、気づいた時には、黒い彼の髪が胸元に触れ、頭がそこに埋められた。背中は引き寄せられ、抱き締められている、と――信じがたいが――それは、今起こっている事実だった。
「あ、へい、ちょ……」
「……か……」
兵長が掠れた声で何かを言ったが、聞き取れない。私は思わず聞き返す。「どうか、しましたか」
「……母、さん」
今度はしかと、聞き取れた。
この人が、母を呼んだのだ。
あのリヴァイ兵士長がそう言ったのだ。きっと熱に浮かされて、もう頭もいっそう、朦朧としているのだろう。
私と自身の母親を間違えているのなら、それはきっと憤慨するところなのかもしれないが、母に甘える少年が明確に体現され、むしろ私の心は高揚した。三十を超えた彼が、少年に戻っている。リヴァイ兵長が調査兵団に入る前は地下街のゴロツキだったことは、兵団内でも有名な話である。ヒストリアの孤児院の件も、地下街出身の兵長の後押しがあったからとエレンも言っていた。以前刃を交えた“切り裂きケニー”と共に暮らしていたというのも噂で聞いた。お母さまと暮らした時期は短いのかも知れないと、推測してしまうのがここで生きる人間の常であった。
「……兵……」
何と言えば良いのかわからなくて、かろうじて出た言葉をやっぱり飲み込む。兵長が地下でどんな暮らしをしていたのかは私の陳腐な想像の至る所ではないが、地下は地上よりもさらに、甘い場所ではないことくらい知っている。それでもそこの愛の形に満ちた生活だったのかも知れないし、私が勝手に何か感じるのさえ烏滸がましい。
言葉に詰まり硬直していると、兵長が胸の中で蠢いた。顔を僅かに上げ、私を見る。そうして、かすかに目を見開き、わななく唇で言った。
「ナマエ……俺は……いま、なんと」
聞き取れないほどの微かな声で、詫びの言葉を受け取った。そして、彼は目を合わせないまま、身を引いてゆく。
止められなかった。私は何も意識していなかったのに、体が勝手に動いていた。果たしてそれも、言い訳がましいことではあるのだが――私は、勝手に動いたという建前のもと、離れてゆく彼を自ら抱きしめた。
「……リヴァイ」
口をついて出たその声が、自分のものであることに驚く。胸の中で、兵長がぴくりと震えた。
「……大丈夫。母さんは、ここにいるから」
兵長の顔は見えない。見えるのは、豊かな黒髪とそれを生み出すつむじだけだ。その頭がゆっくりと動いて、また深く胸に埋もれていく。
熱い体温が、子供の体温を錯覚させる。女の胸元に顔を埋め、ちいさく縮こまるこの子を、誰が三十路の男と思うだろうか。
胸元のシャツが、じんわりと濡れていくのを感じた。兵長の上擦った声が、抑えてもなお漏れるしゃくり上げるような声が、空間を包む。
人類最強の兵士でさえも、母性の前には、ただそこに甘える少年なのだ。そこに溶け、共に包み合えるのなら、いっそ紛い物でもいい。私はあなたにとっての本物にはなれない。微かに虚像を張るだけの、気休めでしかないのだろうが――それでも私は、あなたの母になりたい。