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平穏とは突如として崩れるものである。

誰かの哲学だったか。
否、人生二十五年を迎えた真冬の持論だ。



「いらっしゃいませ───あぁ、こんにちは」

カフェの扉が開き、店主が声を掛けると馴染みの女性客は扉を開けた格好のまま固まって、カウンター席ど真ん中のモノを凝視していた。

「窓側のお席へどうぞ。いつものにしますか?」

店主は(その気持ちよく解る!)と内心賛同しているが、やわらかな笑みを浮かべながら彼女をお気に入りの席へ誘導し、水とおしぼりを差し出した。

「き、今日は、アイスティーだけで」
「はい。ストレートでよろしいですか?」
「え、ええ」
「かしこまりました」

ポカンとしながら店主とカウンター席の方を見比べるのだから、苦笑してしまう。彼女はいつもならホットのミルクティーと日替わりのデザートでゆっくり過ごしていくところ、今日はアイスティーのみときた。これは早々のお帰りだろうなと肩を落とせば、案の定普段は最低でもタブレットで読書をしながら三十分はいるところを五分で切り上げた。

「大丈夫なの?」
と、お会計の際、こっそり囁かれるくらいには、今この店内は異様なのだろう。えぇ勿論ですと営業スマイルを浮かべれば、彼女はほっとした表情を見せつつも、最後にもう一度とカウンター席を一瞥し、ぴゃっと退散してしまった。
・・・一体、今日で何度見た光景だろうか。

「なあ」

今の客の片付けをしていると、背を向けていたはずの男が体ごと向き直り、こちらを見ていた。カウンター席用の椅子はターン式で脚が長いが、自身の脚も長い男にはよく似合っている。

「はい」
「今の客、知り合いなん?」
「はい?」
「だって今、“こんにちは”ゆうたやん。メニューかて“いつもの”て」

関西訛りで尋ねる男は、少し機嫌が悪そうに言う。

「彼女はもう、半年は通ってくださってるので」
「あぁ、常連サンちゅーやつか。・・・半年、半年なぁ」

指折り数えるが、親指と人差し指を倒した数が表すのは二ヶ月ではない。二週間だ。それを男も痛感したのか、あ〜〜と嘆くように額を押さえて天井を仰いだ。
龍の刺繍が入ったスタジャンに、ダメージの入ったデニムをインした黒い編み上げのショートブーツ。肩にかかる痛んだ金髪はヘアバンドでオールアップされている。骨が太い指にはスカルのシルバーリング。インナーの白いTシャツの襟首と、スタジャンを肘まで捲り上げた腕からは、どこから始まっているのか知らないが、何らかの模様のタトゥーが伸びている。顔の作りは整っている為、凄みを利かせれば恐ろしいほど迫力が出る。
まるでチワワやトイプードルのいる檻にライオンが侵入してきたようで、明らかに男はこのカフェでは異色の存在だ。

「半年もコッチおったら、兄貴に殺されてまうわ」

冗談ともとれぬ物騒な発言に、店主は危うく下げたグラスをトレーごと落としそうになってしまった。
たった二週間、しかし来店回数は今日で八回目のハイペース。そうでなくても強烈な男は二週間前の初来店でしっかりと店主の脳に焼き付いるのだ。



流れるBGMはゆったりとしたボサノバ。アルコールは出さず、店内禁煙。居抜き物件をリノベーションした、さして広くはない店は入りづらさはあるものの、隠れ家的カフェとして大人女子からは人気を集め、リピーターも増えたことから売り上げも上々、静かに人気を博していた。
白い壁と天井、木目の綺麗な床とテーブル、ほどよく入る太陽光。珈琲の芳ばしい香り、パンケーキの優しく甘い香りに、スープの食欲をそそる香り。清潔感の中に暖かみと安らぎを持ったカフェ・rokka(ロッカ)は、真冬の城だった。

店の大きさと人件費削減の為、城主、もとい店長の真冬一人で切り盛りしているが、さすがに仕込みから接客、事務作業まで一人で行うのは目まぐるしい。だがかつての勤め先だった有名シェフが連なるホテルのレストランの慌ただしさに比べたら、何て事はない。

(むしろ怖いのは、この忙しさが無くなることの方だ)

それに自営業ゆえ営業時間と休日は自由に作れる。メニューだって仕入れによって変えられる。好きを仕事にできて恵まれてる方だと奮い立った矢先、真冬は閑古鳥よりも恐ろしいものに遭遇してしまった。


それは雨が降り続いた日のこと。風も強く、春の嵐だと朝のテレビで天気予報士が告げていた。
今日はスイーツよりも、温かいスープがついたランチの方が多く出た。おやつ時よりも昼時の方が、天候の荒れが控えめだったのもある。二時半にパンケーキと紅茶を頼んだ女性客を見送ってから四時間、客足は完全にストップしてしまった。時刻は現在六時半。閉店の八時まで、スープを継ぎ足すべきか。それとも今日はこのまま終わるのか。どうしようかと玉葱を片手に外を見れば、この天候の中、わざわざうちに来る客もいないだろうと簡単に結論が出て肩を落とした。
その時だった。
カラン、とドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」
と、言葉が出たのは条件反射だ。

「は〜、参った。びしょ濡れやわ」

全身を濡らした、ロッカの客には珍しい若い男性が一人で来店してきたのだ。と言っても、その言動からして明らかに雨宿り目的。一応遠慮はしているらしく、入ったっきりドアマットの上から動こうとはしない。
金髪からは雨雫が滴り落ちて、ブラックのデニムは色濃く染みを作り、迷彩柄のウィンドウパーカーは雨を弾いて大きな粒を作っている。

「外、今日はすごいですよね。大丈夫ですか?」

駆け寄った真冬は、使ってくださいとタオルを差し出した。
男は真冬よりは若いがでかい。背も高く筋肉の付きも良さそうなのは服の上からでも解り、箔がある男はどことなく威圧的に感じてしまう。たまにカップルで来店する大学生くらいの若者や、ランチをとりに来る若いサラリーマン達とは違うタイプだ。

「あ、すんません。傘飛んでしもて」
「いえいえ。この風ですからね。お席、こちらへどうぞ」

男を促した場所に、キッチンの足元に置いていた小型のヒーターを引っ張り出した。特に冷え込む朝晩の仕込みや片付けの際に使用しているものだ。しゃがみながら位置を調節する真冬を、男はじっと見ている。

「足元、これ置いておきますね。熱くなったらここ押して切っていいので」
「・・・おぉ」

男は何か言いたげだったが、ただ頷くだけに終わったので真冬は腰を上げてキッチンに戻った。一旦男に水とおしぼりを持っていく。男もこの店内が自身にとっては物珍しいようで、キョロキョロと辺りを見渡したり、テーブルに置いてあるメニューをパラパラと眺めていた。

「ここ、飯食うところやったんか。すまんな、雨宿りで入ってしもて。あ、ひょっとしてもう閉店か?」
「いいえ。まだまだ営業しますよ」
「ほなコレ、頼んでもええか?丁度腹も減ってたから助かったわ」

コレ、と指したのはナポリタンのスパゲティー。思ったより可愛らしいものを頼まれたので、真冬は笑みを作って頷いた。
大柄で、金髪で、土地柄なのか人好きそうに屈託なく笑う男は、大型犬のようだ。
気持ち多めで提供すれば、男は美味いと夢中で胃に納めていった。上品に小口で食べ進めていく女性客中心で、若者やサラリーマンと言った男性客は仕事の話やスマホをいじりながら食事をするうえ、前の職場ではたまにホールに駆り出されることもあったが厨房に籠りっぱなしで客の食事する姿なんてマジマジと見ることもなかった真冬にとって、男の食いっぷりは気持ちが良かった。

食後にサービスだとホットの珈琲にパウンドケーキを添えて出せば、破顔一笑、おおきにと返されて何とも言えない気持ちになる。
中学生くらいの息子を持った気分だ。育ち盛りで大飯食らいの若者を腹一杯満たしてやりたいと言う、そんな気持ちだ。

「オニーサン、この店一人でやってんの?」

カウンター内で洗い物をしている真冬に、珈琲を啜りながら男は尋ねた。

「はい」
「はー、立派やなあ」
「ありがとうございます。お客さんは、関西の方ですか?」
「ん、ああ。せやねん。仕事でな」

この時、真冬は男の仕事の内容を聞くつもりは一切なかった。プライバシーの事もあるし、ただ独特のその話し方は新鮮であり、心地もよくて、関西は高校生の夏休みに遊びに行ったきりだなぁと思い出して終わるはずだった。
しかし、食器や調理器具の泡を流そうとしたと同時に、男は言った。

「借金踏み倒した奴がこっちに逃げてな、上から一円でも多く搾り取ってこい言われとんねん」
「こっちも人の島やさかい、派手なカッコして派手に動くんは得策やないし、窮屈やけど見ためだけは抑えとこ思て」
「さっきもわざわざこの天気んなか出向いたったんに居留守つかいよって、ホンマ舐めとんかっちゅー話やわ」

「ヘー、ソウナンデスカー」

ジャバジャバと洗い流しながら、真冬は思った。

(ヤバイ人だ)

個室も設えている過去の職場にて、その手の人物は多かった。その筋の人らによる穏やかに見えてピリピリとしている食事会。他には財界や芸能界のお忍び場として使用されていたが、その件に関しては給仕担当が後から「めっっちゃ緊張した」とこぼす泣き言を聞くだけで、調理人だった真冬は関わりがなかった。
それが、まさか、今、真冬の城にいる。
うっかりツルッと手元が狂って食器を割らなかった自分を誉めてやりたい。それどころかしっかり水気を切ってラックに立て掛ける、身に付いたルーティンに我ながら感心してしまう。
すっかり温まったのか、男はパーカーを脱いだ。七分丈の黒のVネックからその時見えた、首元と腕のタトゥー。
ガタン、と席を立った男はスタスタと真冬のいるカウンターまで真っ直ぐに歩み寄ってくる。

「俺、啓次言うねん。よろしく?」

首を傾げながら手を差し出され、つい、その大きな手よりも腕のタトゥーに見入ってしまった。水仕事で濡れた手を胸元まで上げて躊躇していれば、強引に手を握られる。

「わっ!」
「よろしく」

もう一度、しかし今度はハッキリとした意思を言葉と握力で伝えられ、怖じ気づきながら真冬は笑みを引きつらせた。
人懐っこい大型犬かと思いきや、本能的に獰猛な部分が垣間見える啓次との出逢いは中々に衝撃的で、それは平穏に暮らす真冬の城に雷が落ちた、春の嵐のことだった。


普段は“集金”に勤しんでるようで、啓次がロッカに現れるのは決まって夜だ。オーダー時間を過ぎればドリンクだけでラストまでねばるが、11時の開店と同時に来店した本日、曰く「今日は交代やから休み」だそうで、ずっと入り浸っている。カウンター席の真ん中を陣取り、その内側で日替りデザートのシフォンケーキを焼いている真冬を頬杖をつきながらずっと見ていた。来店客が自分を見てはそそくさと帰ることは、さして気にしてないようだ。

さすがに、その視線の意味を真冬は理解している。冷めた分のシフォンケーキをカットする手が微かに震えるのを気付かれないように、丁寧に手元を動かしていく。
その時、啓次のスマホが着信を告げた。シンプルな電子音が二人だけのカフェに響き、画面を見た啓次は眉間にシワを寄せた。舌打ちをつき嫌々渋々電話に出たので、真冬は静かに安堵する。

「もしもし?なんや、今忙しいねん」

いや、忙しくないだろと内心ツッコミながらカットし終えたケーキをケースにしまう。

「あぁっ!?やりよったな!あんのアホンダラぁ!!場所どこやっ!」

思わず肩が跳ねた。
ものすごい剣幕で怒号を飛ばしながら通話をする啓次に、心底他の客が今この場にいなくて良かったと真冬は思う。居合わせた客は間違いなく逃げ出して今後の来店は無いだろうし、そこから悪評が広まって店にクレームどころか客足が途絶えるなんて事になってはたまったもんじゃない。

「──っと、すまん」

急に声を落としたのに気付き、真冬は作業を続けながら顔を上げた。
今のすまんは、通話相手にだろうか、もしかして自分にだろうか。
真冬がそう思ったのは、啓次が体をそむけて身を丸め、明らかに自分に気遣っている姿勢を見せているからだ。

「あ、あぁ。ほな、俺もそっち向かうわ」

髪を掻き乱しながらチラチラとテーブルの上のものに視線をやっている。啓次が注文していた厚切り食パンで挟んだボリューミーなサンドウィッチは、あと二切れ残っている。しかし啓次の話から察するに、今からどこかへ向かわねばならないようだ。
真冬はカウンター越しに手を伸ばして皿を取り上げた。携帯を繋いだままの啓次が丸くした目で追ってくる。残したものを下げられたと思ったのか、少し寂しげな眼差しはやはり餌を取り上げられた大型犬のようで、つい笑ってしまった。
サンドウィッチ一切れづつをワックスペーパーでサッと包み、テープで止める。紙袋は以前買い物した際の再利用だが、ロッカはテイクアウトをしていないので致し方ない。その紙袋の口を折り畳んで再びテープで止めた即席の手土産を、皿があった場所に戻した。
一応はまだ通話中らしいので、手のひらを向けて「どうぞ」と持ち帰りを促した。名残惜しそうだった視線が、一気に晴れた。残す気がないのなら、こちらだって完食してもらいたい。
つい、フッと息を漏らしてはにかんだ真冬に、啓次は瞠目した。通話を切って身を乗り出し、あの日と同じく手を掴まれた。
違うのは、その手のひらに啓次が唇を寄せたことだ。

「えっ!?」
「真冬さんの手、えぇ匂いする。小麦粉とバニラの、甘い匂い」
「ひっ!」

終いにリップ音を立てられて、上目使いに顔を見られた。ニヤリと、三日月のように目が細まった。

「ほな、また来るわ。釣りはそん時に」

千円札一枚と紙袋を交換して、「これ、おおきに」と啓次は手を降り颯爽と背を向けた。扉が閉まった余韻でドアベルがカラカラと音を弾いている。

完全に店内で一人きりになった真冬は腰から砕けて床にへたりこんだ。今さら体が発熱して、全身から汗が吹き出してくる。黒いエプロンの左上、心臓に当たる部分を震える手で、きゅうっと掴んだ。
彼を名前で呼んだことはない。
「こんにちは」と言ったことはない。
彼好みのメニューを勧めたことはない。

「もう来ないで・・・」

そうじゃないと、この馬鹿みたいな胸の高まりで死んでしまいそうだ。


平穏とは突如として崩れるものである、そして恋とは突如として落ちるものである。

気丈に振る舞う城主は既に、落城の危機に曝されていた。



おわり



かわい〜いカフェに、厳つ〜い人が通ってたら、かわい〜〜いと思って。

小話 91:2018/04/21

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