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遥馬は都会というものを舐めていた。
いや、正しくは都会の通行手段。電車。それも朝の満員電車は地獄である。呑気にてくてく歩いて学校へ通った田舎の高校時代とは全然違う。よく外国人に“日本に来て驚いたことは?”という質問をしたら満員電車だと答えるが、まさにその通りだ。日本人の遥馬も都心部の大学へ進学した際の初日に驚いた。
驚き、気が滅入り、億劫になって三週間。我慢と緊張の糸がプッツン切れて、ついに人酔い、ダウンした。

大学の最寄り駅へやっとこ降りたと同時に、ふらふらと待ち合いのベンチに腰を掛ける。同じ大学の生徒らしき人達は鞄を持ち直したり衣服を整え直したりしているが、特に問題なくスイスイと歩いて行く。それを横目に、防戦一方だったボクサーのインターバル中みたく、グッタリと項垂れて座り込む遥馬の心は既にめげていた。

(はあ〜、ダメだ、マジきつい・・・)

朝の電車を早めようか、大学近くのアパートを借りれば良かった等と鬱々していると、ふと遥馬に影が射した。不思議に思い顔を上げれば、いつの間にかスーツ姿のサラリーマンと思しき男が逆光を負い、遥馬の目前に立っているではないか。

(・・・え、変質者?)

思わず身構えてしまった遥馬に、変質者(仮)は口を開く。

「大丈夫?」

それはとても優しい声音で、怪しんでいた分、遥馬は状況が飲み込めなかった。
変質者(仮)は遥馬の顔色を確かめるようにしゃがみ込む。間近に迫ったところで遥馬も彼の姿をまともに捉えた。整った顔、自然に流された髪、清潔感はある。スーツの襟元には会社のマークか小さなバッチが付いていて、しかとした社会人を証明している。

「気分悪そうだけど、駅員さん呼ぼうか?」

合わせてた男の視線が駅員を探そうとさ迷った。

「あ、だ、大丈夫です!ちょっと満員電車きつかったんで休んでただけで!駅員さん呼ばなくていいです!」
「そう?」

視線が戻されて、全力で頷いた。
確かに気分は悪かったが、外の空気に触れ、静かに座っていたら気分は多少和らいだ。何ならいきなり話し掛けられた事に驚いて引っ込んだくらいだ。朝の多忙な時間に駅員をわざわざ呼ぶなんてそんな、恐れ多い。

「学生さん?ここで降りたならK大かな、時間大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
「満員電車、きついもんね。お大事に」

気付けばひとけの無くなったプラットホーム。
にこりと笑ったサラリーマンは、颯爽と背を向け改札へ向かい消えていく。

(・・・や、優しい人だ)

気が滅入っていた分、人の親切がジ〜ンと心に染みる。
元気をもらって一息ついて、遥馬も大学へ向かうべく重い腰をようやく上げた。



うっかり早起きに失敗した翌日。
渋々満員電車に乗り込むと、背後から遥馬の肩をガシリと意思があるように掴まれた。

(ひっ!?)

体は動かせないのでビビりながら顔だけ振り向くと、柔らかな笑みを浮かべた昨日の親切なサラリーマンがいた。あ、と思うまもなく腰を抱かれて奥に引き寄せられる。

「ちょっ、」
「おはよう。今日も人多いね」
「はぁ・・・?」

知り合いのように話しかけてきたその人は、ガッチリと腰をホールドして放さない。やっぱり変質者じゃなかろうかと揺れる車内で遥馬が疑心をかけていたら、次の停車駅からまたも人が乗ってきた。おえっと内心舌を出すと、サラリーマンは「ちょっとごめん」と一声詫びて、くるりと遥馬と体を入れ替える。
遥馬とて背は低くはないが、目の前はその人の胸板に切り換わり、背後はドアになって気づいた。

(・・・あれ、俺、庇われて・・・?)

自分の疑問に顔が赤くなった。
見ず知らずの人間を──いや、昨日出会ったけど、こんな風に扱うとか、うわーっ。
まるで恥じらう乙女よろしく遥馬がチラチラとサラリーマンの顔を盗み見ていると、ふいに視線が交わって、耳元に顔を寄せられた。

「顔赤いけど、大丈夫?」
「だっ、いじょうぶ・・・ッス」

妙にどぎまぎして声が裏返ってしまった遥馬の頭上で、男が小さくクスリと笑った。


それから同じことを繰り返して幾日か経ち、遥馬は電車の時間を変えられずにいる。
何度か話していく内にわかった事は、沢口要と名乗った男は現在26歳で一人暮らし。乗車駅は遥馬より二駅前で、降車駅が同じ。
そしてある日、遥馬を車内で見かけて以降、毎回ヘロヘロになっているのを実は心配していたらしい。

「子犬が大型犬の中に放り込まれたみたいな感じだったから」
「実際は田舎もんが都会にビビってたんですけどね」
「あはは」


要は体幹が良いらしく、満員電車とは言え揺れる車内でも体がぶれないので腰に手を回されている遥馬もガッチリと固定される事になる。人が動くタイミングにあわせ、降車口とは逆側の扉に遥馬を誘導してくれるお陰で人にぶつかる事もそう無いし、知ってる人の側だと言うのは安心感がある。
人混みから抜きん出ている高身長に、大きな背中。しかし要はキツくないのかと遥馬が顔を上げて様子を窺えば、逆に微笑みながら「大丈夫?」なんて問い掛けられる余裕ぶり。要の側に立つOLが見惚れる程のスマートさ。降りる際のエスコートには頼り甲斐もある。実際はエスコートと言うより、腰を抱かれたままグイーッとブルドーザーのように外に連れて行かれるだけなのだが。

「すみません、毎朝毎朝・・・はぁ、ありがとうございます」
「気にしないで。運命共同体だ」

けろりとしている要は自分のスーツを軽く払って、遥馬の乱れた髪の毛を手櫛でとかす。
いい人。すごいい人。
遥馬は心の中で変質者扱いしていた過去を激しく詫びて、好感度右肩上がりの要にいい人で賞を捧げた。心の中で。
しかし運命共同体と言っても、それは平日の朝、電車内という限定の空間だ。二人揃って最寄り駅を降りれば、それはあっという間に解消となる。


「・・・あれ?」

大学の帰り、最寄駅のロータリーで要を見かけた。
遠目からだが、あんな見栄えのする男を見間違えるはずもない。同じ駅を使っているとは言え、今まで夕刻に会う事なんてなかったし、要も帰宅は遅い方だと言っていた。外回りとか仕事の都合かと思ったが、その疑問はすぐに解決する。
その隣に腕を絡めた綺麗な女性がいたからだ。

(は!彼女!?)

そりゃそうか。あんな素敵な人だから、いないはずがない。となれば、彼女とのデートの為に仕事を定時に切り上げたのだろう。答えはあっさり飲み込めた。
ふんわりと巻いた明るくて長い髪、高くて細いヒールにモコモコの可愛らしいファーコート。派手な外装に負けないハッキリとした顔立ちが確認できた。要にお似合いの美人だ。
彼女が要の肩に寄り掛かっては何かを話したり、手を握ったり指を絡めたりしながら、イチャイチャと言う表現が当てはまるほどの仲睦まじさを見て、はたと気づいた。

(人の彼氏を盾にするとかダメじゃないか?)

だって本来ならあの彼女を守るべき体だろう。
そのポジションをただ同じ電車に乗ってるだけの男が奪うなんて、彼女に申し訳ない。遥馬に彼女がいたとして、その彼女が毎朝見知らぬ男性に庇われて電車に乗ってるなんて面白くない。きっと要の彼女だってそう思うだろう。

(てか、考えたら俺、要さん頼りっぱなしだし、これは良くない・・・よな)

未成年が社会人を頼りにしてると言えば体裁は悪くないだろうが、男が男に甘えっぱなしだなんて、これはよくない。同じ男として情けない。
遥馬は決心をひとつして、帰宅ラッシュに巻き込まれないうちにそそくさと駅に向かって消えたのだった。



「・・・遥馬?この手は何?」

翌朝。
いつものごとく満員の電車にて庇われてい遥馬だが、肘を曲げてストップをかけるように両の手の平を要に向けていた。手の平一枚分の壁に、要は首を傾げる。

「いや、あの、なんか近いな〜なんて」
「・・・満員電車だからね?」
「うん、まぁ、うん、そうなんだけど、ちょっと」
「遥馬?気分悪いの?」
「そ、そんなわけでは」

遥馬の背後の扉に両手をついた要は、遥馬に構うことなく身を寄せるように一歩近付いた。人が増えたのだろうか。要に閉じ込められた遥馬に逃げ場はなく、近付く顔を逸らすようにひたすらうつ向いた。

「遥馬?」

耳元で囁くように名を呼ばれ、遥馬はゾッとする。
これはよくない。彼女にもよくないし、やはり自分にもよくない。最寄駅に着き、拐われるように降車した遥馬は自分の身だしなみを当然のように整えようとしてくる要に対し、再び手の平を向けた。

「あ、あの、俺、明日から電車の時間変わるんで」

今度は肘を伸ばした腕一本分の距離。
その向こうで要は唖然としていた。伸ばしかけた手が宙で固まっている。

「だから、今までありがとうございました」

頭を下げて誠心誠意お礼を告げて、これでサヨナラだと顔を上げて──ギョッとした。
要の顔が不機嫌をまるで隠しきれていない。

「えっ・・・あの」
「時間変わるって、いつのやつ?」
「はい?」
「俺もそれにする」
「はいぃ?」
「俺も明日から、それにする」
「いやいやいや!なんで!」

むすっとした要の顔なんて初めて見た。人混みに押されても揉まれても、平然どころか余裕の笑みを見せていた要が、駄々っ子のように不機嫌丸出しである。

「なんでって・・・、ああ、いや、遥馬こそなんで今更時間を変える必要が?やっぱり満員はきついのか?」
「・・・それも、ありますけど、申し訳ないのと情けないのが・・・」
「申し訳ないって誰に?俺なら平気だって言っただろ?遠慮はしなくていい──」
「だって!」

矢継ぎ早に捲し立てる要に耐えきれず、遥馬は言葉を遮った。そして話すのは「いつまでも甘えているのは良くない」と思っていた事・・・しかしこれはすぐに「だから構わない」と却下され、次いで「彼女さんに申し訳ないから」と言えば、眉間に深くシワを刻まれた。

「俺、女いないけど?」
「・・・昨日の人は?」
「あんなのっ!!」
「あ、あんなのっ?」

要が女性の事を“女”やら“あんなの”と言う事にも驚くが、続けて舌打ちをついた事にも驚いた。

「あれはただ取引先との接待で使った店の人だよ。駅裏に店があって、出勤前っつー女に掴まって同伴せがまれて・・・同伴解る?」
「何となく・・・」
「まぁ遥馬は一生知らなくていいけど。・・・はー、あれか、あれを勘違いされたのか、クソッ」
「た、楽しそうだったもんで」
「そりゃ取引先のお気に入りがいるから、また使うかもしんねーし、ぞんざいには出来ねぇよ」

ガリガリと襟足をかく姿なんて、普段は余裕の笑みを浮かべる要から予想もつかないものだ。砕けた話し言葉だって、柔らかく問い掛けるような優しさとはかけ離れている。
戸惑う遥馬の気持ちをくんだのか、ばつの悪そうにした要が咳払いをひとつ。

「・・・26なんてね、まだまだガキだよ・・・余裕なんてないし、幻滅しただろ」
「そんなことは・・・」
「もう、この際だから言うけど」
「はい?」
「俺と付き合わね?いや、付き合ってくださいか・・・その、本当のこと言うと、一目惚れだから」

目尻を赤くしてまっすぐに自分を見てくる要に対して、間の抜けた面を晒したことだろうと、遥馬は他人事のようにぼんやり思った。だって感情が追い付かない。

「え、つき、ひと・・・え?」
「・・・うん。一目惚れ。俺、本当は車持ってるけど、車検に出した日に電車に乗ったら遥馬を見つけて・・・そっからずっと電車通勤だよ。毎朝気になってたって言ったろ。でもあの日、小さくなってベンチ座ってるとこ見たら、なんつーか、守ってやりたいって。・・・ダメかな?」

ダメかなと、ここに来て今までなにかと強引だった要が急にしおらしくなる。思い返せば、声を掛けられてから、確かに毎朝守ってもらっていた。彼女のものだと思っていた要の行為はずっと、遥馬にだけ向けられたものだった。

(そして今、赤くなって、告白、して・・・)

自信なさげに、大人の仮面を脱ぎ捨てて、子供みたいに。
元から右肩上がりの好感度の矢印が、遥馬のグラフをぶっちぎった瞬間だった。
初めて電車で庇われた日のドキドキが再発する。耳元で名前を囁かれた粟立ちが蘇る。

(あぁ、また毎朝満員電車決定だ・・・)

電車の時間は今まで通り。
けれどもう、ただの運命共同体ではいられない。



おわり



テーマ「朝・電車・リーマン攻め」でした。

小話 80:2018/02/05

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