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居酒屋の一番奥の席で、どこかぼんやりしながら頬杖をついているスーツ姿で眼鏡のサラリーマンを、五十嵐は店員としてはもちろんだが、個人的な視点で捉えていた。

(あれって、朝、一緒の人だよな)

団体客が帰ったテーブルを片付けながら思い返すのは、朝の電車内で見かける、彼の人物だ。
都心から離れた路線だと、通勤通学時間の人はさほど多くない。本業が大学生の五十嵐は毎朝だいたい決まった座席に腰を落ち着ける事ができるし、ともなれば、同じ時間に同じ車両を使う乗客の顔はなんとなく覚えている。五十嵐より先に電車に乗っている彼は今時珍しく、スマホや電子端末に視線を落とすわけではなく、臙脂色のカバーをかけた文庫本を読んでいた。斜め向かいから見るその表情は、読み物によって感情を表すでもなく、ただ淡々と読み進め、まれに眼鏡のブリッジを押し上げるのは、五十嵐の中でも馴染みある風景の一部となっている。
それに背もたれにかけたコートとマフラーも同じものだ。無難なブラックのトレンチに、有名なチェック柄のマフラー。知的で仕事が出来る大人の印象を密かに抱いていたが、今は酒の入ったせいか、だいぶ雰囲気は柔らかい。

ダスターで拭きあげたテーブルの上と床の汚れの有無を確認し、左手に空のジョッキ三つ、右手はトレイに皿とダスターをのせて裏に入る。時刻は23時を過ぎた頃で、店長から「上がっていいよ」と声をかけられた。五十嵐のバイトの上がり時間だ。着替えて退店する時にきっちり挨拶をするので、今は勤務時間を超さないようにさっさと控え室に姿を消そうとしていたら、なにやらコソコソと裏からホールを覗く二人の女性スタッフが目についた。

「どしたん?」

酔っぱらい客が女性スタッフに絡んだりするのはよくある事だ。彼女らは笑顔であしらうのにも慣れっこだが、たちの悪いセクハラ野郎には五十嵐が間に割ってはいる事もある。またその類いかと思ったが、今日の客は静かだったり朗らかに酒を飲んでいるはず。

「あの一番さん、動きがないから酔ってるのかなって」
「寝たり吐かれたりしたらヤバイし。声かけようかって話してたとこ」

一番さん、各々の席にあてられた番号だ。一番は数え始めである一番奥、すなわち五十嵐が気にかけていたサラリーマンだ。彼は先ほど五十嵐が見たままの姿で、いまだ同じポーズをとっていた。

「ああ。俺行ってくるわ」

ただし自分はもう上がるからと後の引き継ぎと確認を口頭で済ませ、五十嵐は巻いていたバンダナを外しながらホールに向かう。

「お客さん、大丈夫っすか?」

声をかければ弾かれたように顔をあげて五十嵐を見た。
きょとんとした顔をしている辺り、自分が微睡んでいたことに今気付いたようだ。

「あ、はい。すみません、お勘定を」
「ありがとうございます」

彼が席を立つと、見守っていた女性店員二人がレジ打ちと片付けにパッとやって来たので後は任せる。彼の足取りがしっかりして酔いはないのだと確認してからようやく、五十嵐は今日のシフトを終えたのだった。


同じような時間に同じ場所を出て、同じ駅で同じ電車を使うなら、そりゃ再び会うだろう。
五十嵐はプラットホームのベンチで一人座っている彼に遭遇し、少し驚いたがそう結論付けた。電車はいったばかりのようで、ホームにいるのは自分と彼の二人のみだ。彼は酒の余韻を引きずっているのか、ぼんやりしながら足元を見つめ、たまに大きな白い息を吐き出していた。
ついその姿に見入ってしまったが、冬の風についくしゃみが出てしまうと、彼が五十嵐の方を向いた。当然視線が交わって、すぐにそらせばいいものを、五十嵐は柄にもなく戸惑った。

「あ、ドーモ」

ドーモて。
何故か飛び出た挨拶をすぐに後悔した。現に彼は不思議そうにしながらも、とりあえず会釈をしてくれるが、五十嵐のことを誰だとは認識していないようだった。

「いや、えっとさっき居酒屋で」
「ああ、店員さん。お疲れ様です」

正体が解れば柔らかい笑みで再び会釈し、ベンチの端に寄る。五十嵐にも着席を促しているその動作に甘え、遠慮なく隣に腰を下ろした。バイトとはいえホールやキッチンを兼任する立ち仕事は足腰にくる。足を組んでふくらはぎを揉む姿は客の前では無礼だったか、事後に気づいてそろりと顔色を窺えば、彼は五十嵐など見ておらず、まっすぐ、しかし明確なものを捉えてはいないように遠くを見ていた。

「・・・なんか悩み事っすか?」
「・・・、そう見えた?」

つい出た言葉はお節介の他ないが、聞かれた方は一瞬息を飲んで、五十嵐の方を向いて笑った。その返事はビンゴだと答えたようなものだ。

「彼女に振られたとか?」
「そういう方がまだマシだなぁ」
「マシ?」
「僕、ゲイなんだよね」
「え・・・?」

驚愕した五十嵐の顔を見て、彼は寂しげに笑って言葉を吐いた。
女性と付き合う事に違和感を感じ、自分の性的な思考が一般とは違う方向だと気付いたというのがハタチ前。人見知りで消極的な性格もあって、同じような人達が集まる場所や出会い系などに手足も出せず、一人悶々としていて気付けばその歳、27。イコール恋人いない歴。結婚や育児を語る同僚に、それをそれとなく急かす両親。仕事が出来て自立していればと自分を鼓舞していたが、周りはそれだけじゃダメだと言う。雁字搦めで息継ぎすらしんどいと思っていた、まさに先ほど、やけ酒真っ最中だったのだ。

「ごめんね、酔ってるのかも。初対面の君にこんなこと話すなんて」

へにゃりと笑う彼は、五十嵐が毎朝抱いていた大人のイメージを払拭させるには充分の幼さだった。そして今の話を聞いて、そのイメージは彼が周りから認められる為に作り上げたイミテーションなのだと理解する。

「・・・や、初対面じゃねぇけど」
「あ、さっきお店で」
「じゃなくて。毎朝電車一緒だけど?」

初対面と言われ、腹が立った。
自分は彼を知っているのに、彼は自分をまるで知らないなんて不公平というか、面白くない。
ついムッとして失礼な口の利き方をしてしまったが、これは逆にいつも自分が彼を見ているのだと暴露しているのと同じである。

「あんたいつも下向いて本読んでるから、知らないだろうけど」

なんのフォローにもならないが、不貞腐れたように呟けば、隣の彼は気にする様子もなく「そうかぁ」と頷いていた。

「じゃあ顔見知りに恥ずかしい話をしちゃったわけだ」

赤くなった鼻の頭をさすりながら、照れくさそうに笑って。

「別に気にしなくていいけど」
「そうかなぁ。僕、この歳で童貞だし、そろそろ妖精になれちゃうよ」
「まだ27だろ?最近そういうの少なくないし、気にすることねぇよ」

時代は草食系だし、年々独身は増えてるというし。使おうが使うまいが、種を残さなかったら結果は同じだろう。五十嵐の卒業は早かったが、それが良かったかなんて今になっても解らない。過去には初体験を恥じる彼女もいたが、つまりは彼もそういうことなのだろうか。

(フーゾク行くようなタイプでも無さそうだし)

そうなんだろうなと勝手に納得すると、五十嵐の中におかしな感情が芽吹いた。

「んじゃあ恥ついでに抜いてあげよーか?」

馬鹿なことを言ってる自覚はあったが、親切心でも冗談でも男相手にこんなことは言えない。ましてや彼は同性愛者だとカミングアウトした同性なのに。

「・・・そういうのは、いい」

しかし彼は怒るでもなく、話に乗るでも悲しむでもなく、やんわりと首を横に振るだけだ。
一言、不躾だったことを詫びようとしたら少し離れた位置から電車のライトが目に入った。アナウンスはBGM程度にしか聞いていなかった五十嵐は、ついそっちに気をとられてしまった。

「電車来るね。一緒、だよね?」

先ほど毎朝電車が一緒だと告げたので、帰宅するなら当然一緒だ。結局ホームには誰も降りてくることはなく、この駅から乗車したのは五十嵐と彼の二人だけだった。乗った車両にも人はいなかった。先頭の方を見ればまばらに乗客の姿は見えるが、夜の田舎路線はこんなものだ。
距離をあけて座るのも何となく気まずくて、きちんと座る彼の隣に、五十嵐は足を広げてどかりと座った。

「・・・僕はさ、」

発車して、カタンカタンと規則正しく電車が揺れる心地よさに身を任せていると、隣から小さな声がした。

「そういう相手が欲しいんじゃなくて・・・あの・・・えーっと、何ていうか」

先程の話の続きだろう。妙に指先を絡ませて忙しなくしている。

「ちゃんとした、恋人?」
「こっ、恋人っていうか、パートナーっていうか、気が置けない相手っていうか・・・あの・・・その、」

真っ赤になってかぶりを振り慌てた口調で話すが、最後には弱々しく、五十嵐の発言を認めたように、こくりと、頷いた。
マフラーの中に顔を隠すように埋めたその様子を横で見ていた五十嵐は唖然としていたが、しかし、じわじわと何とも言えない感情が沸き上がり、脳に達する頃にはボン!と爆発するように心臓が高鳴った。

(はあぁぁぁ!?)
(今までセーヘキとかドーテーとか話してたくせに何で恋人が恥ずいの!)
(この人ショーキョクテキとかヒトミシリの前にもしかして)

ただ単に、ものすごく純粋なんじゃ。

己の出した結論に、五十嵐はすこぶるたぎった。

(何それ欲しい)

そして先程芽吹いた感情の正体を知る。
物珍しさとか遊びとかではなく、この至極純粋な大人を、甘やかして可愛がりたいという欲望が五十嵐の中で熱くたぎった。

「な。俺はあと三つで降りるけど、あんたまだ先だろ?」

彼の指先を上から握ると、驚きで顔を上げた。眼鏡の奥の目が丸くなっている。

「大丈夫、何もしない。ただ、あんたの事がもっと知りたい。教えてくれ」

プシューッと、停車駅に着いた電車のドアが開いた。
相変わらず人の出入りがない。その隙に冷たい夜風が入り込み、人の少ない車内に籠った熱を一掃していく。二人の髪が風に吹かれた。しかしお互い目がそらせなかった。夜風を持っても上がった体温を冷ませなかった。
アナウンスでドアが閉まり、発車する。
三つと告げられた駅は、あと二駅に狭まった。

「・・・た、立花と申します・・・」

ガタンゴトンと揺れる音は、さながら二人の行方を決めるカウントダウンのようだった。



おわり



「夜・電車・リーマン受け」がテーマでした。

小話 79:2018/02/01

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