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家に帰ると、親の名前で判を押した円マークの借用書が一枚、リビングの食卓の上に乗っていた。
──なに?
まじまじと見て、その額に現実を忘れた。
一般家庭並みには裕福だと思っていたのに、借りた金で平々凡々と暮らしていたのか。
──親はどうした?
学校から帰宅した時、いつもとは違う、しんとした気配を感じてはいたが。
──まさか、まさか。
家の静けさに反して、自分の鼓動が馬鹿でかい。
だから気付かなかった。車の止まる音、鍵を閉めたはずのドアが開いた音、家に踏みいる足音に。

「おい」
そして人の気配。
心臓が爆発するほど驚いた。眼鏡をかけた黒スーツの人が、冷めた目付きで俺と借用書を見比べている。

「一足遅かったか」
呟いた言葉は、まるで親の失踪に勘づいていたような言いぐさだった。
続いて玄関がさらに騒がしくなった。足音と話し声からするに複数人、どやどやと騒がしく押し入る気配が感じられた。
あ、俺、死ぬ。

「坊っちゃん、どうしましょうか」
「だから坊っちゃんっつーなっての。ガキみてぇじゃねえか」

眼鏡の人が振り向きもせずに言うと、彼の後ろから若い声がした。そしてひょっこりと顔を出した人物は──。

「あ、りす、がわ・・・君?」

クラスメイトの有栖川君だった。

「・・・山本、喜秀・・・君」
有栖川君も、目を丸くしている。
眼鏡の人を挟んで、お互いに妙な沈黙が流れた。

「・・・はっ?山本って、山本ひろしの、息子?」
「山本ひろしは、父、です」
「美恵子は・・・」
「・・・母です」

うわぁ、と有栖川君が低く唸った。
学校での有栖川君とまるで違う様子に、いまだに理解が追いつかない。
だって有栖川君は、いつも優しい笑みで男女平等に明るく接して、勉強も運動も出来るから先生受けもよく、そのルックスからファンや恋愛感情を持つ生徒は多いという、まさに学校の王子的存在だ。
そんな彼が今、真っ黒なスーツを着て、バックに厳つい人間を従えて、俺の家に。あ、しかも土足だ。

「まさか、坊っちゃんのご学友で?」
「あ〜、くっそ!山本なんて名字、ありきたりだから油断したっ」

眼鏡の人が言うと、有栖川君は髪を掻きむしった。
茫然自失している俺の手から借用書を取り上げて、眼鏡の人はフレームを正しながら形いい唇を動かして言う。

「簡潔に言うと、君の両親はうちから借りた金を返さずに身を隠しました。息子の君を置いてね」

じわっと涙が溢れた。
まさかを明言されて、一気に現実が襲ってくる。

「しかし親の借金を子が返す義務はありません」
「・・・え?」
「よく肩代わりに子供を売るなんてありますが、そんな馬鹿馬鹿しい違法行為、うちはしません」

臓器売買、マグロ漁船、薬漬け。
あらゆるブラック要素が払拭されたが、何一つ問題は解決していない。むしろこれから増えていくのだ。
血の気が引いて腰を抜かした俺の前に、難しい顔をした有栖川君がヤンキーみたいに腰を下ろした。

「お前、今日からうちに来い」
「へ?」
「家はあるが一文無しだろ?生活費どうすんだよ。生きてけねぇぞ」

返す言葉がない。
これでも進学コースの特待生だ。あらゆる金銭免除の代わりにひたすら好成績をおさめ、大学進学を目指していたのでバイトなんてする暇もないし、貯めている小遣いなんてそうもない。
閉口してしまった俺に、有栖川君はイライラしながら腕を掴んで無理矢理立ち上がらせた。

「お前んとこの借金、俺が立て替えてやる。おい、空いてる部屋片付けてこい。親父とじいちゃんには俺から言っとく」

有栖川君の後ろについていた厳つい人は、短い返事をするとすぐに出ていった。その姿を確認すると、再び俺に向き直って掴んだままの腕に更に力を込める。

「俺の人生においてお前んとこの借金の額なんて大したことねぇ。それより下手な噂でもたてられた方がよっぽど厄介だ」

ギロリと睨まれて、普段とのギャップと腕の痛みから思わず頷いた。促されて最低限の荷物をまとめに部屋に戻れば、自室だけ普段と変わらない俺の日常。
なあ、マジで?今の夢だろ?
ボタボタと涙が落ちた。震える手でスポーツバッグに詰めた学校で使うもの、参考書、服、財布と携帯。思い出したように両親の部屋に入り、箪笥に手をかけた。軽い感覚。引くと、がこんと引き出しが浮いて、二人の衣類がなくなっていた。見渡した棚には、母の趣味の人形はそのまま、父のゴルフバッグは置きっぱなし。最後に撮って飾っていたはずの家族写真は、中が抜き取られて写真立てのみ鎮座していた。

俺は部屋の外で有栖川君が待っていたことも知らず、声を出して泣いてしまった。





有栖川君の家に引き取られて、二週間経った。
広い日本家屋に、庭の池には錦鯉。有栖川君のお祖父さんの趣味らしい。有栖川君は両親と離れてお祖父さんと暮らしているようだ。たまに何人かの顔が怖い人とすれ違う。彼らは基本離れで暮らし、本宅の家事を持ち回りで担当しているとも後から聞いた。
お祖父さんは離れで皆と騒がしく食事をするのが好きらしく滅多に顔を合わせないが、あの引き取られた日の夜、着流しを身につけたお祖父さんは一言「大変だったな」と背中を二回、優しく叩いてくれた。

基本的に、朝食と夕食は有栖川君と二人でとっている。学校がある日の昼食は、顔が怖い人達が弁当を持たせてくれて、なんだかアンバランスな違和感が拭いきれない。

「お前、人に言ったりしねぇのな」

二人で食べる夕食。
味噌汁に口をつけた有栖川君は俺の前で王子でいることをやめたが、乱暴な言葉遣いのわりに箸の使い方はとても優雅だ。俺はといえば、いまだに他人の食器やカトラリーが中々手に馴染まなくて冷たいまま。

「なに?」
「うちの事とか、俺の事」

彼は俺と同じく進学コースの一般生徒で、クラスでは特に関わることもなく、王子と生徒という変わりない関係だ。そもそも俺達はそんなに話す仲ではない。

「言わないよ。言われたくないから、有栖川君だって俺を引き取って側に置いてるんでしょ?」
「あぁ」
「・・・それに、有栖川君がヤクザの息子って言うのと、俺が借金踏み倒したあげく子供を置いて逃げした夫婦の息子だったら、後ろ指差されるのは俺の方だ」

箸を掴む手が震えてしまった。

「・・・有栖川君、なんで猫被ってんの?」

ふとした疑問だ。
話し方が砕けてようとも、実家の身分さえ隠しておけば問題ないだろう。なぜ王子様を演じているのだろう。
あー、と一瞬天井を見上げてから、有栖川君は箸を置いてから頬杖をついた。

「うちはもう、代々そういう家系だからね、しめてる土地を離れることもないし、周囲はそっち関係でガッチリ固まってんの。生まれた時からそんな環境だったから俺はなんとも思わなかったけどさ、ご近所さんとか小さい時に入った幼稚舎の連中からは白い目で見られたよ。行くとこ全て人は避けるし、寄ってこないし、陰口のオンパレード。俺としては何で何で?って感じ。寄ってくる奴もいるにはいたけど、そういうのは自分とこのバックに俺らみたいなのをつけときたいだけ、みたいな。平等どころか犬扱いだ」

鼻で笑って前髪をかきあげた。

「小学校は別んとこ受験したけど、裏口疑惑吹っ掛けられて、父親が切れて転校してっての繰り返してたら地元じゃ更に肩身が狭くなってさ。・・・祖父がこっちにいんのは、一線を退いたから隠居してんだよ。まぁ祖父を慕ってる下っ端共はついてった訳だから、環境はそう変わりねぇが、実家に比べたら静かなもんだ。だから・・・いっそ俺も、誰も俺を知らない地域でやり直そうと思って」

箸を掴んで、再びおかずに手をつける。

「もう誰にも文句言わせねえって一心で、成績も上げたし、品行方正で通ってる。たまに家業手伝ってんのは、やっぱり親の背中を見てきたからだな」

笑った顔は、最近見慣れた悪い顔だ。
強いなと、ただシンプルに思った。

「そういうの、俺に話していいわけ?」
「今更、お前に俺の何を隠すってんだよ」

噴いた有栖川君は、肩を竦めてくつくつ笑う。

「ま、そんな暗い話じゃねぇんだ。神谷とかは兄貴みてぇに面倒見てくれるし、それなりに楽しくやってるよ」
「神谷?」
「あー、こないだの眼鏡。今ちょっと仕事で姿消してるから見てねぇよな。でも身なりが一番まともだったろ?だから授業参観とか、面談とかはあいつが来る」

そういえば、クラスの女子が「王子のお兄さんもかっこよかった」ときゃあきゃあしていたのを思い出す。俺からしたら、あの低い声と冷たい目付きに淡々とした話し方が頭から離れず、つい箸をくわえたまま顔を歪めてしまうと、それに有栖川君は笑って「あいつ、性格悪いから気を付けて」と付け足した。

湯飲みに入った温かいほうじ茶で一息ついて、俺は呟く。

「怒って何度も転校させてくれたって、いいお父さんだな」

そう言えば、有栖川君は目を丸くしてから、照れくさそうにはにかんだ。

「世間に胸はって言える職じゃねぇけど、俺にとっては最高の父親だ」


親は選べない。
職業、環境、身内絡み。
育てて貰った恩はあるけれど、親のせいで子供にかかる迷惑を、有栖川君はずっと前から抱えてきたのだ。それでも彼は、家族を憎んでいない。彼の親も、愛情を注いできたのが解る。それはとても素敵なことだ。素直に羨ましいと思う。
有栖川君は身分を隠すのと引き換えに、俺の親の借金を肩代わりして、俺を引き取ってくれたけど、それは結局恫喝でも親切心でもなくて、ただの同情かもしれない。

(俺も家族としては、好かれてるって、思ってたけど)
俺は何年か後に、親のことを自慢出来るのだろうか。そう考えると、急に自分が惨めで小さな存在に思えて俯いた。

有栖川君は何も言わずに、俺が食器を空けるのを待ってくれていた。





そういえば俺の拘束期間はいつまでだろうかと疑問が湧いたのは、更に二週間後だ。
聞けば、有栖川君は首をかしげた。

「今、俺達は二年だろ。卒業まで一年もあるし、まさかそんな長い間お世話になるわけには・・・あたっ」

ぺちん、と額を叩かれた。
不機嫌そうな有栖川君。

「なに?お前俺に意見できる身分?」
「や、そんな話じゃなくて、せめて俺の生活費くらいは」
「んなもん、大した額じゃねーだろ。ここ出てって行くあてあんの?」
「・・・」

正直言って、ない。
両親はあまり身内付き合いがなかったし、俺は両祖父母を知らない。そもそも俺が頼れる身内がいたなら、両親はまずそこから金の工面をしていただろう。

(そう思うと、俺ガチで一人ぼっちだな)

親は俺を一人置いて、どうするつもりだったのだろう。学校を辞めさせて、働かせるつもりだったのかな。それとも、どうなっても知らないとか、完全に切り捨てたのかな。連れていくには足手まといだけの存在だったのかな。

唇を噛んですっかり口を閉ざした俺に、有栖川君は前髪を掴んで強引に顔をあげさせた。

「高校生のバイト額なんてたかが知れてるし、お前、うちのクラスの特待枠だろ?成績落としたらまずいじゃねぇか。勉強だけ黙ってしてろ」

そこだけは俺の取り柄だ。
学費免除の特待枠で合格が決まった時に、両親はすごい喜んでいた。もしかしてあの時すでに・・・いや、考えるのはやめよう。今の俺はこれからを考えなくちゃいけない。
口を開けると、有栖川君は口角を上げて手を離してくれた。

「でも、大学進学は無理だから、それなら今の内に放課後とかの空いた時間、バイトしてた方が有意義ってゆーか・・・」
「なんで無理なんだよ。そんな偏差値高いところ受けんの?」
「別に、そういうんじゃないけどさ」
「ああ、大学の方の学費か。奨学金とかあんだろ?」
「その枠で探せば、模試の結果で何処かしら引っ掛かるとは思うけど、有栖川君に借金の返済をしなくちゃ──いったぁ」

今度はビシッと水平にデコチョップされた。
有栖川君、いちいち暴力的だ。

「だから、お前が返す必要はねぇって。それに黙ってたけど、あれから神谷がお前の両親探してる。金は二人にしっかりまっとうに働いて返してもらうつもりだ」
「え、探してる?探してたの?」
「借りた金返すのは当然だろ。うちだって易々逃すほど甘かねぇ。お前だって頭下げてもらわなきゃ気がすまねぇだろ」
「・・・ん」

・・・そうかな、どうかな。
俺は謝って貰いたいのだろうか。俺を置いていった理由を聞いたら、俺はどうなるのだろう。
思い付くのはマイナス要素ばかりで、ぽろぽろと溢れた涙を有栖川君は親指で拭ってくれた。

「ま、うちの連中はお前のこと気に入ってるから、しばらくは世話やかせてやってくれ」

有栖川君に比べたら、俺はだいぶ甘ったれだろう。でもその分、有栖川君の発言には力があって、頼りになって、俺はせめて声は漏らさないように歯を食い縛った。


結局、大学は奨学金枠を狙って進学することにした。学校で進学担当の教師に家庭の事情で大学進学の危機にいることを暈しながら伝えると、金銭面や親と子供の意見の食い違いから奨学制度を狙う生徒は多いとのことだ。
先生としては、勉強に意欲的だけど進学を断念せざるを得ない立場の生徒は応援したいから一緒に頑張ろうと手を握られた。ちょっと泣いた。

生活費については出世払いでいいと、有栖川君のお祖父さん直々に言われて感謝から頭を下げた。
その代わり、と出された案はたまに一緒に鯉に餌をあげたり、縁側でお茶をしながら将棋や囲碁を対局したりといったもので、まるで本当の祖父みたいで俺も有栖川君のお祖父さんは好きだ。
厳つい人達、いわゆる幹部の人達もいつの間にか俺専用の箸や食器、湯飲みに弁当箱を揃えていた。それも有栖川君と色違い。これには二人揃って爆笑してしまったし。事情は違えど一番の年下が入った事で、どうやら兄貴風吹かせて俺の世話をやくのは楽しいらしい。ちなみにあれから一度顔を合わせた神谷さんは、まだちょっと怖い。
そして皆、普段学校では有栖川君がどんな風なのか興味津々で、聞かれる度に俺は彼がいかに学校中の王子様でキラキラしているかを力説している。言えば腹を抱えて笑い出すので、俺はその度に広い家屋を憤慨する有栖川君から逃げ回ることになる。




季節がひとつ変わった。
勉強の小休憩に庭の鯉をぼんやりと眺めていたら、有栖川君がにやにやしながらやって来た。
俺の隣にどかりとあぐらをかいて座る姿は王子らしくないが、すっかり見慣れた光景だ。

「箔がつく就職先、紹介してやろうか?もちろん大学出てからの話」
「例えば?」
「うち」
「・・・」

何でもないように言う有栖川君に眉をひそめた。

「・・・ヤのつく職業はハードル高過ぎない?あと根本的に合ってない気が」
「じゃなくて」

有栖川君が俺の手を握る。

「俺んとこに永久就職とか、どう?」
「えい、きゅう?」
「有栖川喜秀、悪くねぇな」

にっこりと初めて間近で見た王子スマイルに、俺は言葉がでなかった。

後から実はお祖父さんが俺を気に入り、養子にするのもやぶさかではないと言ってるらしいとネタバレを貰うが、有栖川君は俺の手をずっと握って離さなかった。
初めて一人で泣いてる俺を見た日から、ずっとその手を握りたかったと言われたのは、またさらに後からだった。




おわり



小話では収まりきれず、中編にしてはそこまで引っ張る話ではなく、ダイジェストでお送りします的な話になってしまいました。

小話 61:2017/10/26

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