18



今日、初めて人を殺した。



馬鹿みたいに走る、走る、走る。
足が震えてる。手も震えてる。
まだ覚えてる。
血の生臭さ、温かさ、色、飛沫。怯えきった顔。断末魔。
悶え苦しみ、事切れる、その瞬間を。

(僕が、僕が殺した。僕が、あの方を)


忍の世界において、里抜けは重罪だ。秘密漏洩を防ぐ為、抜け忍はただちに追跡し、抹消すること。それは当然のことである。

暗い夜道をがむしゃらに里へと向かい走り抜ける。山を越えて雑木林を次々に飛び渡ったところで、足を止めた。息が上がっている。心臓が激しく鳴っている。この鼓動の原因はどれだろうか。

「・・・」

ヒトの気配を近くに感じた。
今までは一定の距離を保ち続けていたそれが、もうすぐそこまで来ている。近い、と思った瞬間には足を止めていた木の枝に、トンっと軽く一人の男が降り立った。

「よぉ、千代丸」
「・・・よいち」
「なーに、お前まで死人みてえな顔してんの」

忍び装束から唯一覗く切れ長の目が、優しく弧を描いた。この装束の下を里の乙女達がこぞって熱をあげているのを知っているだけに、勿体ないなと思う。こんな仕事をしていることが。
懐から出された竹筒を受け取ると、ちゃぷん、と中の水が揺れる音がした。

「ほら、飲んどけ」
「すまない。ありがとう、夜一」

口布を顎下までずり下げると、夜の冷えた空気が頬にあたり、ようやく鼓動が落ち着きを取り戻し始めた。一口飲んだ水は、喉元を通り腹の底に落ちるまでがやけ染み渡るように感じた。
ふう、と一息つくと、夜一が腰をおろしたので自分も隣に倣った。ここはもう里と目と鼻の先だからか、夜一が頭巾ごと外して、無造作に伸びっぱなしの前髪をかきあげる。一本に束ねた髪が風になびくのを見ながら、夜目の中でもやっぱり忍びにしては花形だなと思ってしまう。

里から任務遂行の為に走り回っている間ずっと、姿はないがある程度の距離から感じていた夜一の気配。夜一だからこそ、感じ取れた気配に緊張もしたし、どこかしら安心もした。
忍びの里で兄弟のように育った夜一は僕よりずっと昔の小さな頃から、戦力になる知恵と実力をつけ始めると、彼の父親と共に早くから任務に出向いていた。同じ年だけど、今回が初任務となる僕と比べたら、夜一の方がずっと優秀で手慣れの忍びである。そんな夜一に憧れと尊敬を抱きつつ、いつまでも家屋の奥で教本を読みふけり、たまに薬を作っていた生活に甘んじていたのもまた事実。

「初仕事に抜け忍処分なんて、長老も──千代丸の爺ちゃんも、酷なことさせるもんだな。あいつもまさか、若様直々に追ってくるなんて思わなかったろうよ」
「・・・重い腰を無理矢理上げさせられたみたいなものだよ。僕は何だかんだ理由をつけて、今まで座学一辺倒に逃げ回っていたからね。お陰で脳内分析は完璧。実際の任務も全てが想定内だったよ」
「あぁ。完璧だったな。少々意外っていったら失礼か」

夜一がニヤリと意地悪く笑ったのを、首を振って否定した。

「迷った時点で任務は全うできなくなる。でも、本音を言えば」

一瞬の気の迷いを悟られたら、その隙を狙われて、今度は一気に自分の命が危うくなるのだ。そういう細い糸の上を歩く世界だ。

「こんなことはもう、したくない」

ぼんやりと、両の手を眺める。
忍びというのは、自ずと戦を企てるわけではない。常に影に徹し、速やかに行動し、跡を濁さずに姿を消す存在だ。だがひとたび、任務の前に立ちはだかる存在が現れれば遂行の為に容赦なく排除をするし、依頼が暗殺そのものであれば──。

(そうだ、この手で、先日まで仲間と信じてやまなかった相手を、僕が・・・っ)

「千代丸」

ふと、冷たくひんやりとした夜一の人差し指が唇に触れた。視線を上げると、思いの外間近に迫った夜一の顔が自分を見つめている。

「弱音を吐くな。どこで誰が聞いてるか解らない。今の発言は同胞への否定とも侮辱ともみなされるぞ」

そう言って、目をぎらりとひからせて周囲を見渡した。ざぁっと風が吹いて、木々の葉が揺れる中に耳をすます。一寸して、夜一が唇から指を離した。どうやら僕らの小言を拾う輩はいないようだ。

「忍の里に生まれたんだ。そういう運命だ」
「・・・解ってる。解ってはいるんだ」

親が忍びなら、その子供もまた忍び。そういう集落で暮らし、影の仕事に徹する為の教育を受けてきたのだ。
仕事の依頼は、町人や行商人に紛れた仲間が拾ってきたり、代々公には言えない、さる大名や城のお抱えだったりしている。それを誇りや目標にしている忍びもいれば、どこからか噂を聞き付け、自ら志願してくる一般の者もいる。しかしそれは、人の里との永遠の別れでもある。一度音をあげ、脱走を試みようなら即座に命を狙われる。

「千代丸はただでさえ一族の長の家系の若様だ。いつまでも屋敷の中で書物を読み漁り、薬を作るだけなんて出来ないだろう」
「・・・そうだな」
「知ってるか、里の子供はお前のことを医者と思い込んでるんだぞ」
「ふふ、しかし僕の薬はよく効くし、人里でもよく売れている」
「・・・向き不向きってのが、あんだよな」

慰めるように、夜一が髪を撫でてくる。
昔からそうだった。夜一は側で僕の立ち振舞いを庇ってくれる存在だった。でも、だからこそ、僕は。

「今日、夜一が側についていてくれてたのは、はじめから気付いていたよ。ありがとう」
「・・・おう」
「もし任務をとちっても大丈夫じゃないかって、手をさしのべてくれるんじゃないかって、実は少し安心もした」
「ん」
「でも僕が、初めて人を殺したところ・・・夜一には、見られたくなかったなぁ」

くしゃりと歪ませた顔は、笑えてるだろうか。
夜一が目を見開いて固まっているのは、僕が泣いてるからだろうか。
忍びという立場上、ずっと人を殺めず、血を知らずに生きていくなんてまず無理だ。でもその瞬間を、自分が汚れるその瞬間を、ずっと側で見守ってくれていた夜一にだけは、見られたくなかった。

「千代丸っ」

腕をひかれ、夜一の厚い胸板に泣き顔がぶつかった。そのまま後頭部を押さえ付けられて、背中にも手が回る。

「悪い。違うんだ、俺はただ心配で、お前に何かあったら・・・」
「ああ、ありがとう」

忍びゆえ、香りはしない。
けれど落ち着く体温に、僕は静かに涙を流した。


梟が鳴いている。獣の気配もする。
涙も落ち着いた頃に夜一の手が緩んだので、そっと胸に手をつき離れた。目尻をなぞった夜一の指先がひやりとして気持ちが良い。
はぁ、と溜め息をつく。

「いつかは嫁をめとり、跡継ぎを育てねばならないと思うと、気が重い。平和な世の中になり、暗躍する我らなぞ、早々に廃れてしまえばいいのにと思うのは非常だろうか」
「忍びが非常で何が悪い」

けろりと言う夜一に笑みがこぼれた。

「けど俺とお前の間なら、子供は出来ねぇからその心配もねぇけどな」
「そうだな?男との間では子はできない・・・あぁ、なるほど。このさき生まれてくる子がみな男児ばかりなら、跡継ぎはできまい。そういう考えもあるが、そううまくいく話でも、それに外部の女性に手を出す場合も考えて──」
「違ぇよ」

ぱちんと額を叩かれた。

「今のは、そういう話じゃなくてだな・・・あぁ畜生っ」
「何をそんなに怒っているんだ」
「うるせぇ、ばーか。さっさと報告しに帰るぞ」

立ち上がった夜一が目の前の木に飛び移る。慌てて後を追いかけるが、やはり夜一は身体能力も長けているので動きが速い。

「待て、待て夜一。何か失礼をしたか?夜一に嫌われては・・・」
「嫌ってねぇよ!嫌うものか!」

突如止まった夜一がくるりと振り返った。
ぶつかりこそしなかったが、細い木の枝の上では必然的に距離は無いに等しくなる。

「・・・長老には、俺からも言ってやるよ。ヒト一人殺す度にお前の心も死んでくのは、耐えられねぇ。いつかお前のが先に死んじまいそうだ」
「否定できないのが悲しいなぁ」

苦々しく笑っても、夜一の空気は揺れなかった。

「生きろよ、千代丸。俺はもう、目の前が真っ赤に染まっても何とも思わねぇところまで来ちまったが、お前が人間らしくいてくれたら、俺はまだ正気でいられる」
「・・・夜一?」
「精々お前は日の当たる縁側で、毎日薬でも作ってろ。お前の祖父だろうが、親父だろうが、里丸ごとだろうが、お前は俺が守ってやる。その為なら、俺は──」

月明かり眩しい大きな満月を背中にして言った夜一の顔は不覚にもよく見えなかったが、彼が自身の唇に寄せ、口付けた指は、先ほど僕の唇に触れ、涙をぬぐった指だった。


「──皆殺しだって構わぬ覚悟だ」






おわり



エリート忍者×弱気若様忍者

小話 18:2016/12/07

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