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「あら」
と、声が聞こえて振り返ったのは、夕飯の匂いが漂う住宅街に、日が落ち掛けた時だった。
見知った中年の女性がエコバックを肩に掛けて、少し気まずそうに、そして呼び掛けた時に伸ばしたらしい手をところなざけに小さく振っていた。

「ちわす」
「こんばんは。今、帰り、よね?」
「はい」

壮が軽く会釈すると、その女性はススス、と歩み寄り、先程の遠慮がちな所作とは180度別物の、スクラムでも組むがごとくガッツリと肩を抱いてきた。細身の女性とは思えないほどの振りほどけない力強さに壮は苦笑する。内緒話をするように声を潜めるその女性はさらに顔を近づけてくるものだから、ついでに首も絞まりつつあるので腕をタップすることでギブアップを申し付けた。変わり身の早い彼女はパッと手を離し壮を解放すると、悩ましげに手を頬に添えた定番のスタイルで溜め息をひとつついた。

「倫太郎のことで、ちょっと」
「ああ、はい」
ですよね、と壮は咳き込みながら制服のネクタイをゆるめて頷き返す。

「あの子、どうしたものかしら」
「どうにか・・・ねぇ」
「もう・・・ねぇ」
「・・・ねぇ」
「ねぇ」の応酬が続く原因は、彼女の息子であり、壮の幼馴染みの倫太郎である。
どういう訳か、県一の高校に受かったものの、入学三日目で登校を止めてしまったのだ。昔から無気力でぼんやりしているところはあったが、やることなすこと全て最良という結果を出すものだから、てっきり高校生活も上手くやって、なんなら大学はT大でもK大でも行ってしまうんじゃと誰もが思っていたのだから青天の霹靂である。
倫太郎の両親は、様子見として一月待ったが何の変化も見られない息子を心配し、親友兼幼馴染みの壮にヘルプを求めたのだ。壮だって、その事実を知った時は雷に撃たれたような衝撃だった。

「あの高校受かるとかさすがとしか言いようがねぇわ。春から初めて別々だな。でも家も近いし、そんな寂しいもんでないか」

と、卒業式後に告げた壮は、倫太郎よりランクが低めの高校に入学が決まっていた。保育園から中学まで、ゼロ歳から今の今まで家族のように一番身近にいた友と、初めて別の道を歩むことにくすぐったいような穴の空いた喪失感のようなものを感じたが、会いたければ会える距離だし、声もメッセージもいつでも飛ばせる時代なので、あっけらかんとして手を振った。それが最後だった。

一月目、その事実を知った壮は倫太郎の家に駆け付けた。部屋の前で声をかけるも反応がない。
二月目、部屋の中から返事を貰えたが姿は見せず。
そして三月目、今日、これからだ。三度目の正直か、二度あることは三度あるのか。会ってもらえるのか。送ったメッセージは全て既読スルー。そろそろ期末テスト、夏休み、補習、出席日数、単位、進級。考えればキリがない、崖っぷちギリギリにいるだろう倫太郎はどうなってしまうのか。
(退学コースまっしぐらじゃん・・・!)
休みも遅刻も単位も成績も何もかもが義務教育とは違うことは身にしみている。さすがにヤバイのは学校が違っても充分に理解できる。
・・・でも、と壮は俯いた。
自分は倫太郎にとってただのお節介、うざい奴になってるんじゃないだろうか。だって学校に行けてない事も、その理由も、何一つ本人から話してもらえてないからだ。それならそっとしておいた方が、いやしかし、倫太郎の母親の気持ちも解る。確か、倫太郎の父親は今仕事で海外にいるはずだ。心配の種がデカ過ぎだろう。
腕を組んで眉間にシワを寄せ、うむむ、と考え込む壮に、倫太郎の母親も悲しげに目を伏せたあと、思い出したようにエコバックを掲げて見せた。

「ところで、そうちゃん」

もはや田舎に住む自分の祖父母しか呼ばない、こっ恥ずかしいその愛称を呼ばれて反射的に顔をあげる。

「うち、今夜はお肉を焼こうと思ってるんだけど」
「え?」
「お父さんは海外だし、倫太郎には力つけてもらいたいのに全然食べてくれないから、お肉余っちゃうかも」

よいしょ、と膨らみと重みを見せるエコバックを肩にかけ直した倫太郎の母親は、にこりと微笑んだ。

「寄っていかない?」

返事は、部活疲れで空腹の腹が返した。




* * *



「りんたろー」


ノックを三回しながら大声でドアの向こうに話しかけるのは、決して肉に目が眩んだからではない。壮の家庭よりもグレードの高い倫太郎一家の肉に目が眩んだからでは決してない。
ただその肉を食べる時に、倫太郎も一緒にいたら良いなぁという思いからだ。嘘ではない。

(・・・応答なしかよ)

相変わらずの返答はなし。
中学まではほぼ毎日顔を合わせていたが、進学先が別々になって、壮は苦手な早起きと勉強についていくことと、所属したサッカー部にと、慣れないことに目が回る日々を送っていたのだ。自分のことに一生懸命だったので、くたくたの毎日にご飯を掻き込み風呂に入って早寝早起き、メッセージのやり取りも新しい友達とばかり、気付けば倫太郎と顔を合わすことなく一ヶ月、そのままずるずると今に至って三ヶ月。
ゴン、と額をドアにぶつけて呟いた。

「なあ、もう夏だよ?大丈夫?顔見せてよ。こんなに顔合わせなかった事って今までなくない?倫太郎の事忘れちゃいそうよ」

弱音と共に吐き出した溜め息の後に、部屋の中からギシッ、とベッドの軋む音が聞こえた。
寝てた?起きた?と壮が目を瞑りそのままドアに体重を預けて部屋の中の気配に耳を傾けていると、トタトタと足音がドアの方に向かって、止まった。

「わっ!?」

お?と思ったのと同時に急にドアが開かれたので、はからずも壮はドアノブを引いた本人──倫太郎にダイブする羽目になってしまった。油断していて身構えていなかった壮は思いの外強めに倫太郎にぶつかってしまったが、倫太郎はびくともしない。
久々の再開がダサい展開な上、妙に気まずくて恥ずかしい。

「・・・大丈夫?」
「あ、だいじょぶ、久しぶり」
「うん」

両肩を持ってきちんと立たせてくれた倫太郎に対し、壮は小っ恥ずかしさから引き攣った笑みを浮かべてしまう。壮の乾いた笑いだけが唯一の静寂を断ち切る命綱で、それも間もなく途絶えると倫太郎は一歩二歩と後ろに下がり、すいと体を横にずらした。
(・・・部屋に入ってもいいってことか?)
恐る恐る壮が一歩足を踏み入れても、倫太郎からは何も言われない。長くなった前髪の間から見下ろすように見られているが、覇気はないけど相変わらずの凛々しい顔付きに変わりはなくて安心する。

「・・・覚えてた?」
ぽそっと、かさついた声で倫太郎が言った。
「何を?」
「俺のこと」
「あたり前じゃん」

先程は忘れそうとは言ったけど、たった三ヶ月で忘れるわけがない。昔のノリで胸板にツッコミを入れて、ふと気付く。倫太郎とは顎を上げなければ視線が合わなかっただろうか。

「・・・背ぇ伸びた?」
「壮は、焼けたね」
「あ、うん。サッカー部、一年は毎日走るしかないし」
「俺より全然細いけどね」
「うるっせ!」

もう一度胸板にツッコミを入れて、再び気付く。身体がなんか固い気がする。そう言えばさっきも自分がぶつかった時、倫太郎はびくともしなかったような。

「ってか、え?何か心なしか身体厚くなってない?」
「ちょっとだけね。父さんの部屋から器具かっぱらって筋トレしてんの。セロトニン分泌しないと良くないことばっか考えちゃうから」
「良くないことって?」
「物騒なこと」
「・・・へえ〜〜」

引きこもりの考える物騒なことってなんだよ。
と聞くのは倫太郎の両親の為にも壮自身の為にも止めにした。引きこもってしまった倫太郎を外に連れ出す説得すら出来ていないのに、よもや暴動でも起こしたい気持ちに駆られているとでも言われたら、止める術を壮は持っていない。なのでここはスルーを決めた。いやしかし、そもそも倫太郎をそっちの道じゃない方に連れていきたいのだ。その為に来たのだから、壮はおずおずと本題に斬り込んだ。

「あのさ、倫太郎。学校で何かあったの?」

言いたくなかったら、いいんだけど──と小さく付け足すと、倫太郎とて壮の来訪目的を解ってないわけではなかったので「あぁ」とおざなりに
言葉を返す。そして少しの沈黙の後、見た目にそぐわない「だって」と子供の拗ねたような声がした。

「行きたくない高校しか選ばせてくれなかったし、俺の楽しみ奪われて、全然、ちっとも毎日楽しくない。生きながら死んでる感じ」

突っ立っていた倫太郎がベッドにドサリと仰向けに倒れ込んだ。身体が大きかった倫太郎にあわせて小五の春に新しく勝った大きめなそれは、壮もお泊まりの度に何度も使わせてもらったものだ。あの頃は二人で「でけぇ、すげぇ」と転げ回ったのに、今はまた倫太郎一人で独占状態になっている。床に座った壮は、ギシリと音を立ててベッドの縁に頬杖をついた。

「でも、それって倫太郎の為を思ってるんじゃないの?」
「うっざ・・・・」

静かな部屋に倫太郎の呟きが響いて心臓に刺さった。

「いやあ、勉強って出来ないよりは出来た方がいいじゃん。就職にしろ進学にしろ選択肢も増えるし。えーっと例えば、倫太郎が突然宇宙飛行士になりたいって思っても無理じゃない話じゃん。俺は地頭のレベル理解してるからそれはもう無理だって解ってるけどさ、倫太郎って可能性の塊じゃん。無駄にしたら勿体無いなーって、俺は思う。ウザくてごめんだけど」

最後の付け足しに、今度は倫太郎が自分の左胸を服の上からギュッと掴んだ。言ったものの、言葉の重さは理解しているらしい。のそのそと起き上がった無愛想な顔の倫太郎の、じっとりとした視線に捕まってしまう。

「あ、でも、倫太郎の気持ちも解るよ。何だかんだで大事なのってやっぱり環境だしさ。友達とか学校の雰囲気とか合わなかったらしんどい──」
「じゃあ壮、俺と付き合ってよ」

付き合う?どこに?いつ?
話を遮られた壮が、口をぽかんと開けたまま三度瞬きをする。

「人生何一つ上手くいかないで挫折してる俺に同情して、一つくらい夢叶えてよ。俺の恋人になって」

恋人、というワードに壮の背後に雷が落ちる。

「は、はぁ〜〜〜?おま、お前ぇ、不登校の癖にいっちょまえに彼女欲しいとか考えてたの!?」
「彼女じゃないし。まさか壮、高校で彼女作った?」
「作れると思ってんの!?」
「思ってないけど」
「おい〜〜〜」

こっちはサッカー部で多忙だと言いたかったが、倫太郎の即答からして壮自身がモテ要素皆無だとでも言いたげな口ぶりだ。なんだこのやろうと倫太郎の脛に拳をぶつけると、そこはさすがに痛かったらしく倫太郎から小さな呻き声がした。ベッドの上で両膝を抱え大きな身体を小さくする倫太郎が、恨みがましく壮を薄く開けた目で睨んでくるが、ここは、ここだけは男のプライドとして謝りたくない。

「・・・俺の楽しみって、毎日壮といることだったんだよ。なのに壮、俺に別々の高校でも頑張れとか寂しくないとか言うし、まぁ壮に頑張れって言われたから頑張ろうとは、思ったけど。無理だったし・・・。だから、壮にあわせる顔もなくて・・・」

そこまで言って腕の中に顔を埋めた倫太郎の姿に、壮の胸には言葉にならない気持ちが込み上げてきた。
何ということでしょう。完璧で自分以上、それよりもっと先にいると思っていた幼馴染みは、自分を必要不可欠な存在と言ってくれている。自分がいないから高校が楽しくないと──不登校になるほどなのかと疑問も浮かぶが──、大きな図体と無愛想な性格の持ち主の癖に、なんて可愛くいじらしい・・・!
じ〜んと心を打たれた壮はベッドに転がるように飛び乗って、クマのぬいぐるみのように大きな幼馴染みを抱き締めた。柔らかさのない、固くてごついぬいぐるみだ。

「り、倫太郎ぉ〜。お前俺のことそんな風に思ってたんだな!ありがとう!無神経なこと言ってごめんなぁ!解った。ちゃんと付き合うよ。帰りは俺の部活があるから別々だけど、朝は迎えに行くから、電車で途中まで一緒に行こう」
腕の中の倫太郎がピクリと反応し、ゆっくり顔を上げる。
「・・・それ、本当?」
「マジマジ大マジ!俺は倫太郎に嘘をついたことはない!」
「そっか。そうだよね」

うん。うん。と頷いた倫太郎がベッドの隅に置き去られていたスマホに手を伸ばす。素早くフリック、タップ、スワイプを繰り返すのを呆然と見ていると、すぐにまたポイと投げ出した。憐れなり、スマホ。

「今、ざっと在学中に取れる資格と主な進学先を洗ったんだけど」
「早っ」
「それらを全部ものにして、就職先を絞ったら中々に良いところ狙えそう」
「うんうん」
「壮と付き合うなら、今からでも俺の人生充分やり直せると思う」
「よかった!そりゃよかった!」

大きな倫太郎の両手を握ってブンブンと上下に振る。なかよしこよしの二人にも戻れたようで、泣きはしないが心がくすぐったくて笑みが溢れる。

「よし。とりあえず飯を食おう。今夜は焼き肉だってよ」
「ふーん。焼き肉につられて俺んとこきたってわけね」
「やだな。ははは。倫太郎に会いに来たんじゃん。ははは」
「ま、もうどうだっていいけど」

そうだ。もういいのだ。
なぜなら倫太郎は脱・引きこもり、輝かしい未来に向けて資格の取得ならびに就職先を視野にいれて活動しようとしている。壮はもう一度正面から倫太郎に抱きついて、背中をバシンと叩いてからいそいそとベッドを下りた。部屋のドアを開けると清々しい風が入り込んで余計に気分がいい。

「おばちゃーん!倫太郎飯食うって!皆で食べよーー!!」

階段下へ叫ぶように報告すると、階下から嬉しそうに「あらー!」という声が聞こえた。さっきまでの低く悲壮そうなそれとは随分と違うので、壮は苦笑してしまうが気持ちは解る。壮も嬉しいのだから、今はその明るい声に頬が緩んだ。


「壮、解ってんの?」
「なに?」

部屋に戻ってきた壮を真っ直ぐに見ながら、倫太郎が冷めた目をしながら首を傾げる。

「俺、元から壮以外友達いなかったけど」
「え?いるじゃん、クラスの奴とか部活の奴とか」
「話し掛けてくるから話してただけだし、友達とは思ってないよ」
「かーっ」
「だから、壮が俺と離れようもんなら、俺はまた・・・いや、今度こそもう人生に絶望して生きていけないって事なんだけど」
「こっわ。すごい脅しじゃん。こっっっわ」

話しながらベッドを下りて近づいてくる倫太郎に身震いする仕草をしてみせたが、しかし大丈夫。意外に寂しがりやな幼馴染みをもう見離さないと決めたので、壮は倫太郎の冗談にカラカラと笑った。

「つまり、恋人になった壮にめちゃくちゃ依存するから覚悟しといてね」

すれ違いざまに壮の肩を叩き、にやあっと笑った倫太郎が、飯の前にシャワーを浴びてくると階段を降りていった。一階から母親の嬉しそうな声と倫太郎の小さな声がポンポン聞こえる。

「・・・恋人・・・」

そうだ。付き合うも何も、倫太郎が念押ししていたのは「恋人」という存在だった。
ど、どうしよう。
そこをすっかり忘れていたと、冷や汗をかく壮は豪華な焼き肉を前に胃痛を起こしてギブアップしてしまった。



おわり


小話 179:2023/01/19

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